13
「君は思い出しているんだろう…」
なぜ言わなかったのか、絹傘さんの目は俺を責めているように見えた。
「俺は貴方と桔梗さんを滅茶苦茶にしました…。そんな奴が、貴方の側で幸せに暮らしていたなんて…。俺は言えませんでした…。思い出した時、全身に鳥肌が立って心底ゾッとしましたよ」
響也は吐き捨てるように言う。その黒灰色の瞳は荒んでいるのに、澄んでいて、一瞬で崩れてしまいそうな危うい均衡で保たれていた。
「絹傘さんには、わからないでしょう。記憶を失った僕が貴方をどう思っていたかなんて…」
絹傘は響也の言葉に何も言わない。
響也はそんな絹傘を見て嘲るように口を開いた。
「また、貴方を好きになろうとしていたんです。また貴方のことを…!!この関係を壊したくない一心で、今までの僕は言わなかっただけなんですよ!!!」
響也は全身でその感情を表すように悲鳴をあげた。
「絹傘さんのことが好きで好きで…けれど、その気持ちは叶わなくて。次に気がついたら、貴方と暮らしてた。もう、訳がわからなくて、頭も気持ちもグチャグチャで…」
上擦った響也の声が部屋に響く。
「会社も辞めて…桔梗さんとも別れて…。俺が…あんなことさえしなければ、絹傘さんは桔梗さんと…別れてなかった。きっと今もALMの未来を支えていたはずなんです…」
溢れ出た情動が大きな流れとなって、静まった部屋を支配しその渦と部屋の静けさが複雑に混ざり合った。
「それでも、響也、俺は…」
「俺なんて見捨てれば良かったじゃないですか…!。何で…何で助けたんだ…!!」
その尽きてしまいそうな生命を絞り出すように、響也は叫んだ。
静まり返った部屋の静けさが耳に痛く、心までジクジクと蝕んでいく。
引き裂くような痛みは救いだ。
過去を思い出すたびに、自分の犯した過ちに押し潰されそうになった。
そのまま押し潰されれば、良かったのに。俺は今もこうして生きている。
あの時、あのまま死んでいれば良かったんだ。
何十回、何百回、何千回、何万回と願ったけれど、現実は変わらなかった。
「今更、俺は…貴方に何を…言えば良いんですか…。貴方に言うべき言葉がみつからないんだ…」
響也は床に蹲ったまま頭を擦り付けるように頭を下げた。
物音一つしない部屋の中、自分の存在が静かに朽ちていく気がした。
目には見えない腐った身をボロボロと床に落としながら、自分の身が消えて行く。
ふと自分の手を見ると、水で濡れていた。
水は止まることなく、ポタポタと響也の手を温かく濡らした。
それは、コップの中身のようにどこまでも、尽きることなく溢れ出してくる。
この水はどこから…。
響也が顔をあげると、絹傘は真っ赤に充血した瞳で響也を見つめていた。
「それが君が出した答えなのか…」
そこに、あの時ALMの未来に夢を見て輝いていた、勇ましい絹傘さんはいなかった。
目の前にいるのは、途方にくれて今にも泣き出してしまいそうな子供のように小さな姿。
今の自分の状態なんて、投げ捨てて側に行ってあげたかった。
「大丈夫だよ」
そんな言葉をかけたら、彼は安心するのだろうか。
そんな絹傘さんを見て、体の痛みがすぅっと消えていった。
部屋の中に吹いた風が俺ごと連れ去ってくれるみたいに体の重みも。視界が真っ白く溶けていって、自分と世界の境が無くなって、その中で、絹傘さんの姿だけが見えなくなっても、網膜に焼き付いたように消えなかった。
落ちた瞬間、貴方が見えたんだ。
桔梗さんと2人で楽しそうに話す仲睦まじい貴方たちが。
これから死ぬって言うのに、神様は随分意地悪なんだ。
でも、そんな最後も何だか自分らしい。
そう思ったんだ。
目を覚ますと、真っ暗な部屋の中でソファに座った絹傘さんの広い腕の中で支えられていた。
窓からは真っ白な月が部屋の中を薄っすらと照らしていた。
はっきりしない意識の中、絹傘さんに呼びかけた。
「絹傘さん。俺、死ねなかった…」
「うん…」
俺の言葉を聞いて、少し震えた絹傘さんの息が耳元で生々しく聞こえる。
「今も死にたいのか?」
俺は絹傘さんの腕の中で控えめに首を振った。
そうか。それだけ言うと、俺から視線を外して、遠くを見つめた。
絹傘さんの腕の中は暖かい。
許されるのならば、このまま自分の体を捨て、この温かさに溶けてしまいたかった。
俺。絹傘さんはそこで一呼吸置き、話し始めた。
「響也がまだ目を覚めなかった時に、君の手に自分の涙を塗ったことがあるんだよ」
絹傘さんの声が頭の上で聞こえた。
体にびりびりとくぐもった声と振動と心臓の鼓動の音が聞こえる。
「そうしたらさ、君が目を覚ますかもしれないって思ったんだ。俺は…君に生きて欲しいんだよ」
俺がしたことは決して消えない。
周りの人の人生を歪めてしまったその罪は常に俺につきまとうだろう。
全てを投げ出したくなるほど、今だって貴方に惹きつけられる。
俺は横に首を振った。
「絹傘さんにはALMが待ってます。俺なんかよりよっぽど…」
「駄目だ。君が居てくれないと意味がないんだ…」
大きな体が一際強く俺を抱きしめた。
「君がどうしたいのか教えてくれ…」
俺がしたことは決して消えない。
周りに人の人生を歪めてしまったその罪は、付きまとうだろう。
「絹傘さん、俺は…」
たとえ許してもらえなくても。それでも。
絹傘さんを求めている。俺を突き動かすこの衝動は決して消えない。
この孤独で未完成な存在を。
俺の魂を満たしてくれるのは貴方だけだ。
「絹傘さんと一緒に居たい…」
絹傘は響也の顔を真っ赤な瞳で覗き込むと、その細い体を自分の体の一部にするように抱きしめた。
瞼を閉じると、眦にたまった涙が頬を伝う。
「きっと…」
ーーー響也があの時は死ななかったのは、こうして俺の隣にいてくれる為だったんだよ。
絹傘はこの世の幸せを全て詰めたような優しい声で語りかけた。
俺は見るもの聞くもの全てが生まれ変わったように見えて、初めて感じる綺麗な世界に涙が止まらなかった。
「もう泣きやんでよ…」
絹傘さんの困った声を聞きながら、声も出せず幸せの中何度も頷いた。
涙は決して止まることはなかった。
「リンちゃんなんだって?」
「旦那さんと喧嘩して、実家に帰っているそうです」
「そっかぁ…。あの子気が強いからな…」
絹傘さんはリンの姿を頭に思い浮かべ、頭をかいた。
「今度の休み、遊びに行く?憲尚さんにも会いたいだろう」
「絹傘さんがそれでも、いいなら…」
俺がそういうと、絹傘さんは俺の鼻をその節ばった指で優しく押した。
「以前は呼び捨てでタメ口だったのに、今更元に戻すのどうかと思うよ」
絹傘さんは目だけで俺を見ると、口の端に笑みを乗せながら煙草を咥えた。
「これはけじめなんです」
「俺、前の方が好きだったな」
「えっ…」
響也はその言葉だけで顔を真っ赤にした。
「初心な反応も良いよね」
「絹傘さん、前はそんなこと言わなかった。オヤジになりました」
「もう33だ。十分オヤジだよ」
むくれる響也に絹傘は笑った。
その時、響也のPDがピピピッと音を立てた。
「桔梗さん、お店に着いたそうです」
「桔梗、早いな」
「急ぎましょう」
玄関に向かう彼のごつごつした手に自分の手をそっと重ねる。
重ねた手はまるで、お互いを補うかのようにぴったりと収まった。
俺は隣にいる人を見上げた。
何度も何度も間違えながら、貴方を探し求めていたのだろうか。
貴方の隣にいることを。
目を閉じると、真っ白な世界にたくさんの扉が見えた。
大きな扉の前で絹傘さんが俺を待ってる。
「一緒に行こう」
彼の温もり、匂い、その瞳、厚い胸板、抱きしめられた時の安心感。
全てが自分という器を満たし、尽きること無く溢れていく。
絹傘さんの大きな手がドアノブを握った自分の手に重なった。
この向こうにはきっと俺が想像も出来ないような素晴らしいことが待っている。
まだ見ぬ眩しいほどに輝ける毎日が。
ゆっくりと開いていく扉の前で俺は絹傘さんの手を強く強く握りしめた。
俺はこれからもずっと貴方の手を離さないだろう。
だって、俺は。
俺は、絹傘さんの隣に居たら何だって乗り越えられる気がするんだ。




