10
教えてくれなかったリンを責める権利なんて僕には無い。
僕は彼女を見ていなかったんだ…。
いつも見ていたのは、いつも彼女の向こうの…。
その時、彼女の向こうに見ていたその姿がはっきりと姿を現した。
あぁ。そうか。
それを理解するのと同時に、心臓が激しく脈を打った。
「ごめん、ちょっと出かけてくる」
巻いたばかりのエプロンを急いで外すとコートを羽織った。
「こないだの友達のところか?」
厨房から顔を出した憲尚さんはその厳つい渋い顔で僕を見つめた。
「うん…」
「実は明日はあまり客が居なくてなぁ。暇なんだよなぁ…」
憲尚は響也を横目に見ながら呟く。
「そうなんだ」
明日の仕込みを考える僕をよそに、憲尚さんの言葉が耳に届いた。
「だから、明日は休みでいいぞ」
「えっ?」
「折角、友達も来ているんだからゆっくりしてきな」
「大丈夫だよ。仕事が始まる前までには帰るから」
「お前が来るまでは1人でやってたんだ。大して変わらん」
「そんな…でも」
憲尚さんは僕の背中を押すように優しく笑った。
「いいから行ってきな」
その厳つい顔に、あまり似合うとは言えない笑い皺がスッと入る。けれど、僕は知っている。憲尚さんがこの街で一番優しいこと。そして、誰よりも楽しい事が好きで笑い上戸で、僕が悩み落ち込んだ時に励まし、その暗い悩みを笑い飛ばしてくれるのは、憲尚さんだった。
「ありがとう。行ってきます」
憲尚さんは後ろ手にひらひらと手を振っていた。僕はそれを見て、宿屋のドアを勢いよく開いた。手には絹傘から貰った紙を握りしめて。
外に出ると、夜の静まり返った空気がキンと冷えていて吐いた息が白くなった。足元には、街灯に照らされた石畳に僕の影がうっすらと伸びている。僕はコートに首を埋めるようにして、それを見ながら歩き始めた。
コツコツと夜の街に響く足音が次第に速くなっていって、気づいたら駆け出していた。
夜の冷たい空気が頬を切るように流れていく。
僕はまだ…。
息を大きく吸う度に、喉が痛痒く暗く冷たい空気が肺に沁みた。
乱れる息に縺れる足を踏ん張って、目的の場所を一身に目指す。
冬なのに体から汗がふきだし、絹傘から貰った紙は掌の中でシワシワになっていた。
宿屋に着くと、僕は汗を吸ってシワシワになった紙を開いて、確認した。
心臓がバクバクと高鳴り体の中で暴れているみたいだった。
僕は、自分の心臓に拳を当て大きく息を吸った後、部屋の扉をノックした。
かちゃりとドアノブが回って、重厚な扉がゆっくり開いていく。
「来たよ…」
「来てくれたんだね。ありがとう…」
絹傘は心から安堵した様子で僕を部屋の中へ促した。
部屋に入ると、クリーム色の壁紙にアンティーク調の家具が置いてある8畳ほどの部屋が広がっていた。絹傘はその中でも一際目を引く茶色の大きなソファに僕を促した。
「座って」
僕をソファに座らせると、僕との距離を測るように腰掛けた。
「この間は、急に訪ねてすまなかった…」
「いや…。元はと言えば、僕が…」
言いたいのに、口が張り付いたみたいに動かない。
けれど、絹傘は僕が言えなかった言葉が聞こえたように首を横に振った。
「言わなくていい…」
彼はその大きな手で僕の両頬を包んだ。
ゆっくりと彼の顔が近づいてきて、絹傘の濃藍の瞳に僕がゆらゆらと映り込む。額と額を合わせた僕と絹傘。触れた場所から伝わる熱は確かに絹傘の存在を感じさせる。
絹傘は祈りを捧げるように目を固く閉じた。
僕は目を瞑った絹傘から目を離さなかった。
ゆっくりと扉を軋ませながら、扉が開いていく。
貴方によって暴かれる。
それは僕にとって救いであり、罰だ。
ーーー人が生を与えられていることには理由があるんだって。
草の匂いと共に、柔らかな彼女の声が聞こえた。
絹傘の熱を感じながら、響也は静かに目を瞑った。
「君に"彼"のことを聞いて欲しいんだ…ーー」
絹傘の声が無性に懐かしかった。




