表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

予 兆

作者: 捨文王女
掲載日:2015/08/21

なんでもない日常がそうではないものに変化する。

そのとき目に映った予兆をあなたは感じ取ることができるだろうか。

身の回りで起こりうる夫婦の秘密の出来事を、少しだけお見せしましょう。

 月が震えていた。水墨画の煤けた雲が墨汁をぶちまけたような空を汚している。綿雲が千切れた合間に赤味を帯びた月が顔を覗かせているのが、どうにも妖しい印象だったのを覚えている。何かに怯えたどこかの飼い犬が、わぉう、あおーと夜空に向かって吠えるが、それに応える獣はいない。八時をまわったばかりだというのに、夜はしんとして、住宅街の並樹を微かに揺らす風が頬を撫でる。明けて間もない真冬に、寒さを感じない夜だった。

 家の中は真っ暗だった。食卓には落書き帳が広げたままになっていて、描き手の帰りを寡黙に待っていた。電灯を点けると、子供たちは直にテレビの電源を入れた。

「お母さん、お父さん遅いね」

 五歳になったばかりの和也が母親の顔色を伺う。もうすぐ三歳になる絢子が兄を真似る。

「おとしゃん、おしょいね」

近頃の夫はまともな時間に帰ったことがない。忙しいのはわかるが、本当にそんなに仕事があるのだろうか。今野美久子にはそうは思えない。かつては夫と同じ会社に勤めていた。迫っている納品に向けて深夜まで作業が及ぶような仕事もあることは知っている。だが、連夜遅くまで働かなければならないような仕事を、美久子は聞いたことがない。


 七年前。新婚当初、和彦の帰りはとてつもなく早かった。本当に仕事をしているのかという時間に帰って来ることもあった。まさか新妻の手料理が待ち遠しかったわけでもあるまいが、少なくとも新居での生活が楽しくて仕方がないという風だった。もちろん美久子だって早い時間に夫が帰って来てくれるのは嬉しかったし、これが新婚というものなんだなと思っていた。定時を待たずして家に帰ってしまっていては、そのうち解雇(クビ)にでもなってしまうのではないかと心配したが、小さな広告会社に勤めている夫は、もう以前から仕事のかなりの部分を任されていて、業務に支障がない限りはどこで何をしていても問題にならないらしかった。すでに普及しはじめていた携帯電話さえあれば、どこにいても電話一本で用事を済ませてしまうことだってできたのだ。

 ぎりぎり二十代で結婚した美久子と和彦は、まだまだ子供など作らないでふたりだけの時間を楽しみたいとお互いに思っていたのだが、一年もしないうちに第一子を妊娠してしまった。夫は喜ばなかった。もともと子供好きではなかったところに、まだ遊び足りないという気持ちが強かったのだと思う。美久子自身も同じ思いで、お腹の子供が実感出来ないうちは、産むのをやめようかと何度も考えた。だが、夫が腹をくくったように赤ん坊の玩具を持ち帰ったのをきっかけに、美久子自身もようやく出産の日を待ち遠しく思うようになった。半年後、この世に出てきた父親似の男の子は、和也と名付けられた。その頃帰りが遅くなっていた夫は、家に小さな生命がいることに珍しさを感じたのか、再び早く帰るようになって赤ん坊を風呂に入れたり、小さな手を弄んだり、音の鳴る玩具を振り回したりして、育児の真似事をした。

 子育てについては退屈極まりない話しかなく、気がつけば夫は仕事先から帰って来なくなり、美久子は育児に必死で夫がどこで何をしているかなどに目を向けている余裕もなかった。子供がたったひとり増えただけで、なぜこうも忙しいのだろう。家事のすべての中心に赤ん坊がいて、今までの倍ほども時間がかかる。それが嫌なわけではなく、むしろすべてを放り出して赤ん坊の世話だけに専念したいくらい。たまに早く帰ってきた夫に「洗濯物取り入れてよ」「洗い物くらいしてよね」「たまには和也と遊んでやったら」などと言ってしまうのだった。当然と言っていいのかどうかわからないが、夜の生活もほとんどなく、もとより淡白な質である美久子はそういうことをまったく気にもしなかった。

「ねえ、ボクにはなんで兄弟がいないの?」

 和也がそんなことを言うようになったのは、幼稚園に通いはじめてからだ。朋友となった園児を迎えにくる母親たちが、揃って小さな弟や妹を連れているのを知って羨んだのだ。

「そういうのは神様が決めることだから、ママにもわからないのよ」

「じゃぁ、ボク、神様にお願いしようかなぁ」

「そうね、それはいいかもしれないわね。神様、弟が欲しいよって」

「ううん、ボク、妹がいい。神様、妹をくださいってお願いする!」

子供に言われてはじめて美久子は、このままでは一人っ子になってしまうと思った。同時に、このところ夫婦関係もないのだとも気づかされた。そういえばいつからしていないのだろう。思い出すこともできないくらい遠い昔のような気がした。

「なんだっていまさら子作りなんか」

 ネクタイを外しながら夫が答える。

「だって、和也が、妹が欲しいって」

 大根を切りながら夫に向かって言い訳する。なんだか旦那に淫行をおねだりしているようで気が引ける。

「なんだ、子供に言われてまぐわうってのか?」

 まぐわうって? そんな言葉で人の気持ちを見透かしているつもりなの?

「まぐわうって何よ……どっちにしても一人っ子じゃかわいそうじゃない?」

「それはまぁ、そうだけど」

 もうこれ以上その話はしたくないと言いたいのか、夫は美久子に背を向けて居間の片隅に置いてあるパソコンに向かった。ぼゎーんと機械が立ち上がる音がする。大事な話をしているのに、そんなものでゲームだなんて。

 結局、子作りをすることになった。妹がいいという和也のために、「男女の産み分け法」というタイトルの本を買ってきた。子供に言われるまでもなく、作るのなら次は女の子がいいと美久子も思っていたので、そのためには身体が酸性になったほうがいいだの、行為は短い方がいいだの、眉唾な情報を鵜呑みにして行為に至った。和也のときはあんなに簡単に着床したというのに、いざ作ろうとなると和彦の精子は元気がないのだ。ひと月に一回しかない排卵日をめがけて子作りをするのだが、翌々週には月経が来てしまう。四ヶ月目になって、その間のたった五回目か六回目の行為によって、ようやく懐妊した。肉体労働が終わったような気分だった。子作りはもうこれっきりでいいと思った。


 あの妖しい月を見たのは、子供二人を連れて近所のファミリーレストランで食事をした帰り道だった。家族一人が欠けただけで、料理の意欲は半減してしまう。毎日外食するほど豊かではないが、たまにはいいではないか。旦那の帰りはいつになるのかわからないのだし。久々の外食に子供たちのお腹は信楽の狸になった。その帰り道でふと見上げた空。いつもなら雲がかかった朧月を、生まれてはじめてのように心を奪われて眺めるのだが、その日に限ってはわけもなく気味の悪い印象だったなぁとは、あとから思い返したことだ。

 その日、夫の帰りは深夜を回った。「いま帰った」そう言って居間に顔をのぞかせたが、そのまま風呂場に入ってしばらく出てこなかった。酔っ払って帰ったときには、そのくらいが世話なくていい。居間で寝転がってしまったら最後、そのまま朝まで眠ってしまうだろうから。夫婦の寝室は玄関脇の洋室なのだが、子供が二人になってからは居間のすぐ隣にある和室に布団を敷いて親子で眠っている。寝室のベッドで四人は眠れないからだ。最初は親子四人が一画多い川の字になって寝ていたが、深夜に酔って帰ってくる夫の鼾とアルコール臭に辟易して、あなただけ寝室で寝てよと言ったら、最初は「なんで俺だけ」とか「俺の鼾がそんなに迷惑かよ」などと文句を言っていたのだが、そのうち、酔ってなくても別々に寝ることが習慣になった。絢子を懐妊して以来、夫婦の営みは皆無になっていたから、寝室が別になったところで別段なんの違和感もなかった。夫も最初の頃こそ渋ったけれども、寝室が自分専用になったことをそのうち喜んだ。

 風呂から出てきた夫はようやく居間に顔だけ出して、「寝るわ」とだけ言って寝室に引っ込んでしまった。まったく、家族をなんだと思っているのかしら。せめて眠っている子供の顔くらい見たいと思わないのかな。美久子がそう思っているのがわかっているから、美久子の愚痴っぽい言葉を聞かされる居間から逃げたのだ。

 美久子が二人の子供の傍らに身を横たえ、和室の電灯を消すと、直ぐに暗夜になった。この辺りは山の中を切り開いて造られた住宅地なので、零時を回ると街全体がほんとうに静まり返る。ひと山向こうの鳥の羽音さえ聞こえて来そうな静寂に、子供たちの寝息だけが平穏を奏でている。隣室からは夫の鼾も酒の臭いも届かない。美久子はいつの間にか眠っていた。

 突然目が覚めた。なぜかはわからない。眠る前と同じ暗闇が広がっている。まだ夜? それとも明け方なの? そう思った刹那、床が大きく突き上げられた。な、何これ? 地震? そう思って布団の上に飛び起きるのと、夫がトイレのドアを開けて、和室に飛び込んで来るのがほぼ同時だったと思う。ギシギシ。頑強な鉄筋造りの建物が不気味な音を立てて縦に横に揺れはじめる。二人の子供もいつの間にか目を覚まして布団の上に起き上がっている。夫の手が三人を抱えるようにして、一家は部屋の真ん中を支配する布団の上に丸く縮こまった。揺れている。円を描くように回っている。まるで部屋が遊園地のビックリハウスに変貌したような奇妙さ。縦に落下する度に、地の底から沸き起こるような音がどぉおんと響く。まだ続いている。和也が不安そうな声を漏らす。キッチンで何かが落ちる大きな音。どぉおん。十秒間、いや一時間。時間感覚もなく揺れ続ける。一旦揺れが収まったかに思えたが、まだ揺れている。

 ぎし…………。小さなきしり音を最後にようやく揺れが収まった。和室の襖を開けると、まだ薄暗い。壁に掛かった時計は、六時にもなっていなかった。食器棚の中は幸いにも何も落ちていなかったが、キッチンカウンターに置いてあった大きな水槽が床の上に転がって、絨毯が五十リットルもの水を飲み込んでいる。大きく育ちすぎた三匹の金魚が絨毯の上で力なく横たわっていた。

 三階の窓から見下ろす外にはまだ夜が染み込んでいたが、時間は早回しされて、気がつくとすっかり明るくなっていた。いつもどおりの平日の早朝らしい色が姿を現し、さっきの地震は夢の中だったのかと思うほど平和な日常がはじまっていた。「そうだ、ニュース!」夫がテレビのスイッチを入れる。砂嵐が続いた後に何かが映し出された。一面火の海となった街。それを見た美久子は、なぜこんな日の朝から怪獣映画をやっているのかと思った。炎に包まれたテレビの中と、何もなかったように(うそぶ)いている部屋の外が、いっそう現実感を損なっていた。

 その日、夫は会社を休み、あちこちに電話ばかりしていた。和也も幼稚園を休ませて、美久子たちは一日じゅう家の中にいた。またいつ大きな揺れが来ないとも限らないと思えたからだ。活断層に沿った街は大きな被害を受け、その後数ヶ月にわたって混乱し続けたが、美久子が住むこの辺りはあれだけ大きく揺れたというのに、倒壊した建物も火を出した家もなかった。ただ、都心に出るための交通網はかなり後まで寸断され続け、夫は毎日四時間もかけなければ通勤できない状況が続いた。やがて会社の計らいで、勤務先の近くに宿泊所が手配され、夫は数ヶ月にわたって同じ境遇の同僚とともにそこで暮らした。

 半年ほどして、ようやく途切れていた線路が復興し、夫も週末の午後に仮住まいを引き払って、海外旅行用の大きなスーツケースを転がして帰ってきた。

「あ、お父さん」

「おとしゃん!」

 二人の子供が玄関先で夫に飛びつく。ホームドラマを見ている気持ちで父子を眺めた。

「ああ、大変だった」

大きなため息をついてソファに寝転がる夫に「ご苦労さま」と慰労の声を掛け、寝室で眠るように促した。もちろん毎週末には帰宅していたので、ほんの数日顔を見ていないだけなのだが、久しぶりの我が家で存分にくつろぐべきだと思ったから。

 夫を寝室に追いやっておいて、持ち帰った荷物の片付けに取り掛かる。部屋には洗濯機もあると言っていたくせに、やはり汚れ物を貯めこんでいた。まぁ、仕方ないわねとつぶやきながら洗濯槽に放り込んでスイッチを入れる。全自動洗濯機はううんううんと二、三回空回りをさせて放り込まれた内容物を測っている。よしわかったと動きを止めると、今度はちょろちょろと水を加えはじめ、数秒後にはああんああんと回りだした。スーツとジャケットはハンガーに掛け、それ以外のモノには勝手には触れられえないと思い、そのままにしておいた。夕食の準備が出来たので、夫を起こすついでにスーツケースのことを言うと、明日片付けると答えた。

 翌日。せっかく帰宅した最初の日曜日なのに、夫はゴルフクラブを車に積んで早朝から出かけてしまった。もう、ほんとうに勝手なんだから。子供たちと遊んでやったらいいのに。美久子は家の中のことを済ませてから、夫のスーツケースがそのままになっていることに気づいた。なんだ、片付けると言ったくせに。邪魔になるので、適当に中身を出すことにした。スーツケースの中には書類が入った封筒がいくつか、携帯とかパソコン周辺のもの、数冊の書籍が残されていた。勝手に触れると怒られるから、そのまま重ねて寝室の書棚に置くことにした。パサリ。書類と書籍の間から薄っぺらな冊子がこぼれ落ちた。DPE店でくれるミニアルバムだった。床に落ちたそれを拾い、書類の上に重ねるときに、見るともなしに最初のページをめくってしまった。

「何? 誰なの、これ」

 夫と女性のツーショット写真。美久子とは対照的に、個性的な印象。蠱惑的とかいうのだろうか、そういう顔立ちの若い女。長い髪を後ろでポニーテイルに束ねているらしい髪型。さほど美人だとは思わないが、男から見ればどこか魅力的に映るのであろう雰囲気を持った女が微笑んでいる。その隣には夫の見たことのないような笑顔。誕生日に美久子が贈ったネクタイを締めているが、スーツではなく灰色のカジュアルジャケット。これはどこなのだろう。背景はぼやけているが、色鮮やかな新緑の向こうに茶色い寺か何かがぼんやりと写っている。京都。きっと京都だ。美久子は直感的にそう思った。これ以上はもう、見たくない。思いながら指先は次の頁をめくる。やはり。これはたぶん金閣寺だ。京都の寺めぐりをしたらしいスナップが続いた後ろに、唐突に東京タワーが写っていた。その次にはどこかのホテルロビーでのツーショットが収められていた。そういえば、何度か出張って言ってたわね。でも、京都の寺めぐりっていうのは、聞いてない。

 浮気。そんな言葉は他人の家で使われる言葉だと思っていた。まさか夫が浮気なんて。想像すらしたことのない事態に、思考が停止した。浮気。うわき。うきわ、浮き輪。雨期は? 東南アジアの密林で腰のところに浮き輪をつけた和也と絢子の姿が頭に浮かんで、くくっと笑えてしまった。笑い事じゃない。何よ、この写真は。ふ、不倫! そうよ不倫だわ。不倫、不倫! 嘘みたい。不倫。ふりん、風鈴、プリン。風鈴がちらちら鳴る部屋でプリンをつついている美久子と和也と絢子。ふるふるとプリンを揺すって喜ぶ絢子。ふふ。いい子たちなのに。なんであいつは遊んでやらないのよ!

 今日はカレー。簡単なのに子供たちが喜ぶ。子供に合わせて甘口にしなければならないのがちょっと不満だけど。美久子のカレーは玉葱がポイントだ。中くらいの玉葱三、四個をミジン切りにする。さくさくさく、たんたんたんたん。細かく細かく微塵に刻んで居るうちに涙が滲んでくる。目が痛い。さくさくさく。手近にあった布巾で眼尻を拭いて、細かくなった玉葱を大蒜と一緒に鍋に放り込む。じっくりと弱火で炒めている間に人参と馬鈴薯を乱切りにする。すこすこすこ。どうも包丁の切れ味が悪い。馬鈴薯の皮剥きごときでするするいかないなんて。研がなきゃ。玉葱が飴色になったら肉を入れ、少し炒めてから水を加えて人参と馬鈴薯を投入する。蓋をして暫く煮る。野菜が柔らかくなったら、火を止めて粉末カレーを投入する。もう一度点火して、とろ火でかき混ぜながらさらに煮詰める。ぐつぐつ。とろみのあるカレー色のスープがばふっばふっと地獄のような泡を吹き上げる。ばふっばふっ、ばふっばふっ。地獄のカレースープ。鼻腔を刺激する美味しそうな香りが家中に漂う。カレーだ、カレーだ! 二人の子鬼がはしゃいで踊っている。カレーだ、カレーだ! 母鬼には角はない。子鬼にも角はない。亡者はまだ帰ってこない。

 カレーを三人で食べた。子供たちを風呂に入れ、寝かしつけて二時間ほどしてから夫は帰ってきた。くんくんとカレーの香りを嗅ぎながら言った。

「ごめん、飯、食ってきた。ゴルフ接待のお客と一緒に……」

 夫の動きが固まった。美久子が付き出したものに視線が釘付けになった。

「な、なに」

 美久子は黙ったまま夫の顔の前に薄っぺらいミニアルバムを突きつける。何か口にすると、とんでもないことになりそうな気がした。

「……こ、これ……これは出張先の」

 京都の写真、ツーショットの写真、ホテルロビーのツーショット、美久子は夫の目の前で次々と頁をめくる。

「こ、この女性(ひと)は、取引先の人だ」

 そんなことはどうでもよかった。誰であろうが同じ。言い訳など聞きたくもない。どうしたいのか、どうするつもりなのか。子供たちをどうするのか。家族をどうするのか。あなたはいったい何を考えているのか。美久子の頭の中は、まとまらない思いが空回りし続ける。何かを言おうとしても言葉が出ない。喉が渇く。唇が震えるのが自分でもわかる。

「ああ、わかったよ。たまたま一緒になっただけだって。違う、浮気じゃないって」

 今日はどこに行っていたの? 誰と? こんな時間まで? ゴルフって、何よ。ゴルフってネクタイなんか締めてするものだっけ?

「だから、得意先と一緒だからさ、きちんとしとかなきゃぁ」

 夫から甘い香りがする。香水好きのお得意先なのね。夫が締めているネクタイ。いつの間にか手に入れていたネクタイ。ポールスミスのタグを付け濃翠色に黄色いドットが入った、美久子の知らない夫のお気に入り。美久子はネクタイを掴んで和彦の首を締め上げる。そのままキッチンまで引っ張っていく。引き出しから裁断鋏みを取り出して、その右手を振り上げる。和彦は恐怖の面持ちで思わず目を閉じる。じょきっじょき。掴まれたネクタイが短くなった。じょき。首にぶら下がったネクタイの切り株にさらに鋏みが入る。脱力。和彦が解放されるのと、美久子が床に崩れ落ちるのとはほとんど同時だった。和彦はよろよろと寝室に向かい、美久子はそのまま泣き続けた。

 翌日、子供たちと過ごす日中は平穏な一日。日暮れが近づくと家の中に重たい空気が漂う。夫が帰ってきたらどう振る舞えばいいのかという美久子の心がそうさせたのだ。だが母子が夕食を終えても夫は帰らない。遂に終電を過ぎても帰って来なかった。逆上してしまった自分を思った。でも当たり前じゃない、あんなもの見たら誰だってキレるわよ。それとも見て見ぬ振りをするべきなの? そういえば昼間の相談番組でよくある話題だ。夫の浮気を発見したとき。追求するのか、放置しておくのか。離婚するかしないか。別れたいなら別だけど、そうでなければ知らないふりをした方がいいって、あれは心理学者が言っていたのだっけ。でもそんなこと、世間の妻は我慢できるものなのかしら。私にはわからない。美久子はそう思う。謝るべきなの? なんで? 何を? なぜ私が謝らなければならないの? 謝るなら和彦が謝るべきじゃないの。不義を働いたのだから。でも、もしかして浮気じゃなくて、本気だったら? そのときは仕方がない。責任をとってもらうしかない。子供たちの隣で横になって暗闇を見つめているうちに、眠りについていた。

 翌朝、もしやと思って寝室を覗いてみたが、やはり夫の姿はなかった。心臓の後ろあたりがツーンとした感じになって、もう一度布団の中に潜り込みたい気持ちになった。背中で声がした。

「お母さん、おはよう」

「あら、もう目が開いたの? おはよ。じゃぁ、ご飯にするからアヤも起こしてくれる?」

 子供は癒してくれる。そこにいるだけで、何もかも忘れさせてくれる。そうだ、しっかりしないと。この子たちに辛い思いをさせてはいけない。私は母親なんだから。

 その日も、夕食は三人で食べた。子供たちを寝かしつけたタイミングで夫はのっそり帰って来た。顔も見ないで黙って食事を温める。食卓に皿をきちんと並べて、缶ビールも出してやる。部屋着に着替えた夫が食卓についてテレビのスイッチが入る。どうでもいいようなお笑い芸人の会話が気まずい空間を埋める。テレビの中のバカ話。この家の空気とは無縁の笑い声。洗い物をしている背後で、ぷしゅと音がして、夫の喉が鳴る。

「なぁ、美久子」

 聞こえているが、聞こえないふりをして洗い物に集中する。かたんとグラスを置く音がして、同時にテレビの音声も消える。

「なぁ、悪かった」

 水道を止めて振り返る。

「ちょっと、話をしないか」

 流石にもう無視はできない。のろのろと食卓に向かう。夫が立ち上がって、食器棚からグラスをもうひとつ取り出し食卓に乗せる。

「お前も飲むだろ?」

 注がれたグラスをしばらく見つめていたが、手に取って口に充ててみる。

「悪かった。ごめん。あんな写真を大事そうに。だけど、嘘じゃないんだ。浮気なんかじゃないんだ」

「じゃぁ何なのよ、あれは?」

「だから、ほんとうに取引先の女性なんだって」

「ふぅん。そう? こないだはお得意先って言ってたんじゃなかった?」

「あれ? そう言った?」

「……まぁ、どっちでもいいけど」

 正直、そんなことはもうどうでもよかった。問題はそんなことではない。これからどうするのかっていうことだ。あなたがどうするつもりかっていうことなのだ。

「子供のことはどう思っているのよ」

「どうって?」

「あなたは子供たちが可愛くないの?」

「何をばかな。そんなもの可愛いに決まってる」

「なら、どうして家庭を壊すようなことをするの?」

「まさか……そんな。家庭を壊すなんて」

「じゃぁ何なのよ」

 静かに立ち上がる夫。また逃げ出すのかと思ったら、冷蔵庫から二本目のビールを取り出して戻った。缶を開けて二つのグラスを満たしてから口を開いた。

「あのな、ほんとうのことをいうけど……」

 そらきた。遂に白状するの?

「俺だって、一生懸命働いてるんだぜ」

「あら、私が家で遊んでいるとでも?」

「まぁ、ちょっと聞いてくれよ」

 和彦は昔から頭が良くて妙に弁が立つ。曲がったことでもまっすぐにしてしまうような理屈をこねて、上手に人を飲み込んでしまう。だから下手に聞いてはいけない。おしゃべりでは負けないはずの女が負けてしまうのだ。心して聞かなければ。

「何を聞けばいいのよ」

「俺は働き蟻だ」

 大学を出て、自分がやりたいと思う仕事を選んだ。それがいまの仕事だ。金のために働いていると思ったことは一度もなかった。遊びのために金を儲けたいと思ったことも。そりゃあもちろん、結婚を決めたときには妻や、やがて生まれる子供を養っていかねばならないと思ったさ。そしてそれが現実になった。子供ができるまではあまり思わなかったのだけれども、だんだんと自分は何をしているのかって思うようになった。子供は可愛いさ。でも、それとは別の話なんだ。毎日毎日、家と会社を往復して、疲れて帰って来たら、お金が足りないの、子供の世話をしろの、もっと子供と遊んでやれっのて指図されて。

「指図だなんて、そんな」

「まぁ、ちょっと聞いて」

 考えてもご覧よ。君だって子育ては大変だろうけどさ、それはわかってるよ。だけど癒されるだろう? 子供と一緒に過ごせるなんて。大変だとしても、その分あんな天使みたいなのと一緒に居られるだけでも羨ましいと思う。そりゃぁ役割分担だって頭ではわかっているけど、家、仕事、家、仕事、家。月に一度の給料のために、またひと月、家と会社を往復して。たまには酒飲んで、騒いで、ゴルフして、女の子と話くらいして……いや、そんなことをしたいって言ってるわけじゃないんだ。いったい俺は何のために働いているのか、いや、もっと言うと何のために生きているのかって思うようになって。

「だから遊びたいってこと?」

「いや、だからそれは違うんだって」

「だから浮気もしたいと?」

「ぜんぜん違う!」

「じゃぁ、何がしたいのよ」

「別に何かがしたいわけじゃぁ……」

「好きにすればいいじゃない。そんなわけのわからない理屈をこねなくても」

「それって……キレてるの?」

「違うわよ。あなた、いままでだってたいがい好きなことして来たんじゃないの?」

「そんなこと……ないがなぁ」

「そうかしら? 私ももう、あまり言わないようにする、子供のこととか。だから好きにすればいいじゃない」

「なんかそれ、怖いな」

「何が怖いよ。でも家庭は守ってよ。子供には責任があるのよ。それに、浮気は絶対に許さないから」

「浮気じゃないってば!」

 結局、冷蔵庫の買い置きのビールがすべてなくなって、話にも片がついた。

しばらくは何事もなく平穏な日常が戻った。写真のことは忘れることにした。

三ヶ月ほど過ぎた頃、夫が会社から電話をかけてきた。

「悪い、ちょっと確かめて欲しいんだけど、定期入れがないんだ。家に忘れてないか?」

 ちょっと待ってと受話器を置いてその辺を探すと、パソコンの横に置き忘れてあった。

「あった」

「わかった。落としたかと思って心配したんだ」

 電話を切ってから、手にした二つ折の定期入れを何気なく開いた。すると、そこにはまたしても見知らぬ女の写真が収められていた。派手な色合いの、センスの悪いピンクのスーツの女。水商売? それにしてはさほどきれいでもない。何よ、またこんな。写真を抜き出してみると、その下にもう一枚、さらにアップの写真が入っている。どこかで見たような。何だかキモい。それでいて……奇妙な違和感。背筋に冷や水を流されたような。眩暈がした。

 美久子は夕食の準備をする。鈍くなった包丁では鶏肉が切りにくい。小さな研ぎ器があることを思い出して引き出しから取り出す。しゃーしゃ、しゃーしゃ。無心になって包丁を研ぐ。しゃーしゃ、しゃーしゃ。包丁を水で洗って、まな板の上に乗せたままの肉に刃を充ててみる。研いだばかりの刃は気持ちいいくらい素直に肉を切り裂いていく。もうこれでしばらくは大丈夫だ。何だってきれいに切り裂けそうだ。

「今日は悪かったね、忘れ物なんかして」

 帰宅した夫に、写真が見えるように定期入れを突き出した。両目をつぶる夫の失態顔。

「何、これは?」

「それ……は」

「これって……誰……」

「……それ……は……」

「これ、あんたでしょ? あなた、いったい何してるの? 何がしたいの?」

 美久子は泣き出したくなった。定期入れの女は夫自身だ。顔を真っ白に塗って、眼はくっきりと描いて。赤い唇とセミロングのウィッグ。それでも夫であることはわかる。きれいだよ。きれいだけれども、男の顔は、やっぱり男の顔。服のセンスは最悪だし。いったいどうしたいの。浮気の次は、これ? こういうことがしたかったの? 仕事が嫌で、働き蟻が嫌で、だから女になりたいわけ?

「違う。違うんだ」

「何が違うっていうの? これは、あなたでしょうが」

 絶句。気不味い数秒間のあと、ようやく夫の口が開いた。

「あの日、あの大地震の朝を覚えてる?」

 忘れるわけがない。恐ろしかった。もう死ぬんだと思った。だけど、それと何の関係があるって言うの。

 そう、死んだと思ったよな。俺もそう思った。地響きがする暗闇の中でみんなを抱きかかえながら、もう終わりだと思った。家ごと倒壊して潰れるんだと思った。だけどそうはならなかった。だけど、この世の中、何が起きてもおかしくないという思いだけが俺の心に染み付いてしまったんだ。美久子、君はそんなことないかい? 一旦死んだ気になると、人間って変わってしまうものなのだろうか。俺は、もういつ死んでもいいし、会社なんていつ辞めてもいいし、父親辞めてもいいし、男を辞めてもいい。なんか妄想みたいにそんな考えが浮かんでくるようになって……。

 また冷蔵庫は空になった。その上、いつの間にひとりで飲んだのかウィスキーのボトルまで空にして夫は酔いつぶれてしまった。あの写真は女装して遊ぶ店に行ったことがあって、そのときに面白半分に撮ったもので、そういう趣味を持ったわけではない。そういうのじゃないと、最後にはそればかり繰り返しながら。結局何だったのか何がしたいのか、釈然としないまま夜が更けた。翌日、夫は会社を休み青白い顔で美久子に頭を下げ続けた。


 月がぶれている。再び満月。雲はない代わりに赤い月の表面が墨で汚れて濁っている。そのせいか、月にいるはずの兎も蟹も姿が見えない。夫に転勤の辞令が出たという。旅行でしか行ったことのない遠くの街にある支社への配属。夫は単身で行くと言った。いいのだろうか、ひとりで行かせて。来年は和也も小学生だ。この街の小学校に行かせるべきか、新しい所でそうするべきか。絇子だって幼稚園に入れなければならない。そんなことより、大丈夫なのだろうか。私の家族、子供たちは。どこかで犬が吠えている。何かわからないものに向かって。怯えているのか、挑んでいるのか。遠くの空に向かっていつまでも吠え続けている。

                              了

短編にしすぎて理解しにくい趣もあっただろう。おそらくこれはもう少し長いものにすべきものかもしれないけれど、このくらいの文字数の方が面白味はあるのかもしれません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ