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懺悔室、あるいは取調室より:深い海、そして三角プリズム。

作者: 環道遊星

 静まった教会に、木で出来た小部屋がひとつ、ぽつりと立っていた。中に、格子を挟んで少女と司祭がいる。少女は跪き、司祭はただ立って少女の言葉を待っていた。

 そこは懺悔室だった。少女は自身の罪を告白するために、そこに跪いていたのだ。

「私は、ひどいことをしてしまいました」

 少女はようやく今、絞り出したような声でポツリと話し始めた。司祭は相変わらず、立って彼女の声を聞いている。

「彼の気持ちは、分かっていたのです。しかし私は彼の気持ちに応えることが出来なかった、いいえ、しようとしなかった」

 少女はそこで語ることを止め、司祭の言葉を待った。しかし司祭は何も語らない。ただ格子越しに彼女を見下ろしていた。

 いくらかの沈黙を置いて、少女は再び語り始めた。

「私は、どうするべきなのでしょうか。分からないのです、それが。自身の罪を自覚しても、これから何をすればいいのか分からない」

 自身を見上げる少女に、司祭は今、沈黙と秘跡に満ちた唇を動かした。

 少女は司祭の言葉を受け、立ち上がる。少女と司祭は互いに、格子の間にそっと顔を近づけた。

 司祭は、深い海のような青い目をしていた。格子越しの口付けは、二人に何をもたらすのだろうか。

 少女は再び罪を重ねてしまった。しかし彼女の顔は赦されたことによる喜びに満ちている。


 机の上に置いてある三角プリズムは、僕の大切な宝物だ。それは恋人にもらった最初のプレゼントだった。

 それはもうずっと遠い昔のような小学生の頃、僕らは理科の授業で三角プリズムを使って虹を見た。それ以来僕は三角プリズムが欲しくてたまらなかった。

 光を通すだけで、自分の手で虹を作ることが出来る。こんなに素晴らしいことがあるだろうか。

 しかし親は僕の願望を叶えてはくれなかった。その不満をクラスメイトの女の子に漏らしていたら、その子がある日僕に三角プリズムを持ってきたのだ。

 あの頃からだろうか、僕が彼女に惹かれ始めたのは。

 想いを重ね続け、中学生になってやっと僕は彼女に告白した。彼女は告白を承諾してくれて、僕らの交際が始まった。それから、僕たちは一緒に色んなところに出かけるようになった。

 だけど喜びの反面、大きな不安が僕につきまとっていた。彼女は自分の私生活についてあまり語ろうとしなかった。

 彼女が誰か他の男を好きになる可能性はいつだってある。交際が始まってからの僕はそんなことばかり考えていた。彼女を問い詰めるようなことだって何度もした。しかし彼女は話をそらすだけだった。不安になると、僕はいつでも彼女にもらった三角プリズムを眺めた。

 そうして今も、僕はプリズムに光を当てて、映し出された虹を見ている。

 プリズムによって映し出される虹は綺麗だ。だけど、ただの光にこれだけの色が含まれているということを僕はこうでもしないと知ることが出来ない。

 知らないことばかりだ。この世界には在るのは知らないことばかり……。


 少年の顔に光が当てられた。目がくらむほどの光量に、彼は思わず目を瞑ってしまう。

 しばらくたち、光に慣れた彼が目を開けるとすぐに、向かいに座った刑事が話しかけた。

「もうネタは上がっているんだ、とっとと吐いてしまえ」

 小さな部屋の中央にデスクが置いてあり、それを挟んで少年と刑事が座っている。逆光のせいで少年は刑事の顔を見ることが出来なかった。

 僕は、と少年は答える。

「僕は何もしていませんよ」

「いいや、お前は数多くの罪を犯した。そしてそれを自覚していないだけなのだ」

「それでは、僕は一体なんの罪を犯したというのですか」

 少年は反抗的な目で刑事を睨んだ。未だに少年に彼の顔は見えなかったが。

 刑事はゆっくりとした動作で煙草を口に咥え、火をつけた。そしてゆっくりと煙を吐き出す。

 彼の動作はまるで話すべき時がやってくるのを待っているかのようで、その緩慢な動作に少年は少し苛ついた。

 少年は耐え切れなくなり、言葉を重ねた。

「そもそも自覚していない罪を吐けと言われても、言えるわけがないじゃないですか。自分で分かっていないのなら」

 刑事は煙草の煙をゆっくりと吐き出してから答える。

「お前はわかろうとしないだけだ。自身の罪を罪ではないと信じ込んでいる」

「それでは教えてくださいよ、僕の罪を」

 語気を荒くした少年がつい立ち上がると、彼のズボンのポケットから、三角プリズムがこぼれ落ちた。

 彼はそれを慌てて拾い、ポケットに押し込んだ。

「そう、プリズムこそお前の罪」

 刑事はそう言うと、自身のポケットから三角プリズムを取り出し、デスクの上に置いた。

 照明がプリズムを通して七色の光に分散し、デスクの上に広がる。

「どうして彼女を信じなかった。なぜただの光を、ただの光のままで見ようとしなかった。彼女を追い詰めたのはお前だ」

 刑事が三角プリズムを指で弾き倒した。ゆっくりと照明が消えていく。

 照明が消える瞬間に少年は刑事の顔を見た。刑事の目は、深い海のような青色だった。


 私は体を重ねる。相手の男は、恋人ではない。しかし、私が最も求めているのは恋人ではなくて”彼”かもしれない。

 恋人はこのことを知らないし、私はこのことを話さない。

 私の私生活はほとんど、”彼”との生活で成り立っている。だから恋人に私の私生活を話すことは出来ない。

 ”彼”と初めて体を重ねたのはいつだっただろうか。……いや、答えは分かりきっている。忘れるはずもない。

 私が家の前で独り泣いていた時、”彼”は私を優しく抱きしめてくれた。その時私の恋人はまだ恋人ではなかった。あれは私が、恋人にプレゼントをあげた翌日のことだ。

 あれは他人に渡していいものではなかったのだ。”彼”のお気に入りだった。

 私はどうしてあれを盗んでしまったんだろう。分からない。もしかしたら、憎かったのかもしれない。罪を被せたかったのだろうか。それとも、本当に愛の為だったのだろうか。

 今となっては過去の自分が考えていたことは分からない。

 しかし過去の自分の考えがわからずとも、罪を犯したことに変わりはない。

 私は罪を贖うために”彼”と体を重ねたのだ。だけどそのことが、今は恋人に対する罪になっている。

 私は本当に恋人のことを愛している、と思う。それでも、恋人と一緒にいる時よりも”彼”に抱きしめられている時のほうが私は喜びを感じてしまう。

 私は、罪人だ。

 ”彼”の目を見て、私は言った。

「私、海に行きたいわ。とびきり深い海に」


 光がなくてはプリズムはただのガラスの塊に過ぎない。あれは光を分散させるためのものだ。それ以外に使うことは出来ない。

 深海に光は届かない。光がなくては、プリズムは意味を為さない。

 彼女は虹が嫌いだった。眩しい太陽の光そのものが好きだった。

 だから彼女は逃げたかったのだ、光を分散させてしまうそのガラスの塊から。

 しかし彼女の選択は間違っていた。

 深海に光は届かないのだから。


 今日こそ真実を掴んでみせる。彼女の私生活を暴いて、もし僕以外に男がいるのなら、もう交際はやめよう。知らないことが多すぎるのだ。知らなければ知らないほど不安になる。ただそれは、知らないということを知っているから不安なのだ。知らないことすら知らなければ不安になることなんてなかった。彼女がわざとらしく話を逸そうとするから、僕は気になって仕方がない。

 もういい加減、不安から解き放たれたいのだ。この三角プリズムも、粉々に割ってしまえればどんなに楽だろうか。しかし割ってしまえばあの虹を見ることはできなくなる。

 それが怖いのだ。まるで依存症かのように、僕は三角プリズムを手放すことが出来ない。

 僕はズボンのポケットに三角プリズムを押し込んだ。


 取調室の照明が消え、再び少年の視界が明るくなるまで、長い時がたった。

 明かりがついた時、少年は懺悔室にいた。彼は自らの罪を認め、司祭の前に跪いている。

「僕は大変なことをしてしまいました。知ることを望んだことが間違いだった。だけど一体、それではどうすればいいのですか?」

 司祭は彼に赦しを与える。

「諦めなさい、知ることを。人間は有限な存在であり、全てを知ることは出来ないのです。ガラスの塊を捨て、考えることをやめなさい。知ることをやめなさい。疑うことをやめなさい。信じるのです。信じる者は救われるのですから」

 少年はズボンから三角プリズムを取り出し、床に放り捨てた。

「そうか、これでよかったんだ、これで……」

 少年のまぶたがゆっくりと閉じていく。彼はもう考えることも、知ることも、疑うこともやめてしまった。代わりに彼は、全てを信じた。

 彼にとって周りにあるものは全てが彼の味方である。

 全てが彼の味方をしてくれる。だからもう彼には考えることも、知ることも、疑うことも必要なかった。

 彼は眠りについた。

 懺悔室に海水が流れ込み始めた。教会が海の中へと沈んでいく。息が出来なくなっても彼は眠り続けた。そしてもはや世界全てが、光の届かない深海へと沈んでいく。

 静まった海底に、木で出来た小部屋がひとつ、ぽつりと立っていた。

 深い海の中で、彼が再び目を覚ますことはなかった。

恋人に対して不信感を抱いてしまう人はいると思います。僕らの知らないところで、知らないことが起きすぎている。これはそんなお話です。お分かりだと思いますが、言っておきたいのはこれは答えではないということです。

きちんとした答えになるような作品も、いつか書けたらなと思います。しかしそれは、僕自身が答えを見つけることが出来た時になるでしょう。

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