のぞみごと
コップの底のさくらんぼをつまんでぐっちゃんが立ち上がる。
「行こっか」
こげ茶の伝票を大きなその手ですっぽり覆い隠すぐっちゃんの声色はフォンダンショコラみたいに優しい。
一歩、二歩、三歩。
とっさには動けずダウンジャケットの背中を見送る私に振り向き、ぐっちゃんが首を傾げた。
「のんちゃん、新幹線に乗り遅れちゃうよ」
「う……うん、そうだね」
紙製のコースターから少しはみでたコップの側面にさくらんぼのヘタがはりついている。
振り切るようにひざかけにしていたコートを抱え、こけつまろびつぐっちゃんを追いかける私の頭を占めるのは。
――ぐっちゃんがオカシイ。こんなぐっちゃん、いつものぐっちゃんじゃないっ!
むじゃき、陽気、元気がトレードマークな恋人らしからぬ言動だった。
「思ったより余裕があったね」
「うん。お店を早めに出ようってぐっちゃんが言ってくれたおかげだよ」
夕食を食べた駅ビルのレストラン街から数分、一列に並んだ自動改札にほどちかい柱のそばに私とぐっちゃんはもたれかかっていた。二人の間には私が実家に帰るためのキャリーケース。大みそかの今日、私は新幹線を使って地元に帰る。実家がこちらのぐっちゃんが見送りに来てくれたのだ。
ぐっちゃんは私の彼氏。
私の通う大学で出会った、ゴールデンレトリーバーみたいな男の子だ。
二十一歳の成人男子をつかまえて「男の子」なんておかしくない? と自分でも思うけど、平均身長を上回る私よりも十五センチは背の高い立派な体躯に似合わず、本っ当に「男の子」という表現が似合ってしまうひとなのである。
初対面の相手にも躊躇なく話しかけていったり、黄色い帽子の幼稚園児とヒーロー物の番組についてあつーく語り合えちゃったり、ぐっちゃんの周りには不思議と人が集まってくるからいつもにぎやか。
ぐっちゃんが大学で一番仲良くしてる友だちに言わせると「思ったことをそのまま口に出すバカ正直な奴」なんだって。嬉しい時は顔中が口になっちゃったみたいな笑顔になるし、悲しい時は雨雲を背後にしょってるのが見えちゃうほどどんよりするぐっちゃん。短所にもなりえそうな真っ直ぐさが私は大好きだ。
なのに、なのに!
「切符はちゃんと持ってる?」
「財布の中に入ってるよ。ほら」
「そっか。じゃあ安心だ」
満足そうにうなずいたぐっちゃんはデニムのポケットへ手を伸ばしかけてから思い出したように手首へ視線を落として、あ、と声を上げた。
一見ごついデザインの腕時計には、深緑のレザーベルトや文字盤の細かな彫刻など、実はたくさんの工夫が凝らしてある。一週間前に二人で買い物に出かけて、ぐっちゃんがこれを飾ってあったお店から動かなくなってしまったのだ。
まだつけ慣れていないのか、ぐっちゃんは今までがそうだったようについ携帯を見ようとしてしまうらしい。
って、そうじゃなくて。
「自由席なんだったらもう並んでおいた方がいいかな。十五分前だもんね」
「……帰省ラッシュとは方向が逆だし、ピークも過ぎちゃってるからまだ大丈夫だよ」
「そう? 乗り際にばたばたしないように気をつけてね」
「平気だから」
思わず声がとがる。きっと誰が聞いたって私は不機嫌なのに、ぐっちゃんはこんな私にちっともイラつかないみたい。
「ぐっちゃんはこの後どうするつもりなの」
「うーん、せっかく現金もってるから、ついでに新しいシューズでも見ようかな」
いま使ってるのがくたびれてきちゃってさあ、と楽しそうなぐっちゃんの肩を思いっきり揺さぶってしまいたい。
私はさみしいのに。たった一週間そこそこだけど、クリスマスを除けばここのところ思うように会えてなかったからせめてぎりぎりまでぐっちゃんといたいのに。
どうしてぐっちゃんはそんなになんでもなさそうな顔でいられるの。
「それって急ぐ?」
「え……、お店が九時で閉まるから、それまでなら平気だけど」
「じゃあ、ホームまで一緒に来てよ」
ぐっちゃんの袖を引っ張ると、ぐっちゃんはどこかぎこちない様子でうなずいた。
「えっ……うん、いいよ」
***
入場券を買ってホームに入ったぐっちゃんは物珍しそうにきょろきょろしている。もともとこの辺りに住んでいて、遠距離移動の時は飛行機を使うことが多いぐっちゃんにとっては新幹線はあまり馴染みがないらしい。
「あんまり人はいないんだね。ああ、方向が逆なんだっけ。のんちゃんが乗る電車は――」
『ただいま十五番乗り場に停車中の当駅始発の新幹線は二十時ちょうどの発車です。繰り返します……』
鼻声ぎみの放送がぐっちゃんの声にかぶさるように流れる。ぐっちゃんはスピーカーに向かって耳を傾けて、「あ、これかあ」と目の前の流線形を指差した。
発車まで五分と少し。混み合っている時には何十人もの行列ができる自由席の出入り口も、ここから出発する車両ということもあって誰も並んでいない。窓ごしに眺めた車内も座る人はまばらで、これなら新幹線が発車してからでも間違いなく座れそうだ。
「のんちゃん、とりあえず乗っておきなよ」
だというのにここでも妙な気をまわすぐっちゃんが小憎たらしくなる。だけど一年の最後にけんかで終わりにしたくないから、素直に頷いてドアの内側に乗り込んだ。
新幹線とホームのわずかな隙間をはさんでぐっちゃんと私は向かい合う。
「じゃあ、元気でね。のんちゃんのご家族にもよろしく」
「ぐっちゃんも、病気しないでね」
「俺は大丈夫。のんちゃん、良いお年を」
「……ぐっちゃんも」
ぐっちゃんも、良いお年を。
その一言が私には言えなかった。
喉に大きな塊がつかえてしまったみたいに苦しい。ぐっちゃんは私が帰るのに慌ててしまわないように、今日はずっと気を使ってくれていた。私の準備が終わったお昼前から今までずっと時間を逆算して動いてくれて、今だって私よりも出発時間に気を配ってくれて。優しい彼氏じゃないか。でも、
プルルルルッ。
発車を告げるチャイムが鳴った。
「ほら、行きなよ」
ぐっちゃんは優しく微笑む。
しばらく会えないのに。ぐっちゃんが今年最後に見る私の顔が泣き顔なんて嫌なのに、
「……さみしいよぉ……」
「――あー、もうっ!」
我慢できずにこぼれてしまった私の泣き言を聞いた途端、ぐっちゃんが頭をかきむしりながら叫んだ。
直後、視界が黒いもこもこで埋め尽くされる。体が一瞬横に揺れる。息苦しくて身動きが取れなくて、そこではじめてぐっちゃんに抱きしめられてるんだって気付いた。
「ぐ、ぐっちゃん?」
「……れだって」
「え?」
「俺だってさみしいに決まってるじゃんっ!」
「ぐっちゃん、それって」
「この間のデートはキャンセルになっちゃったし、急にバイトのシフトは入れられちゃうし、俺だってのんちゃんともっと一緒にいたかったよ! ……だけど全部俺のせいだったから、俺が文句を言っちゃだめだって思って……」
私の首のあたりに顔をうずめて、くぐもった声でぐっちゃんが話し続ける。かすかに漂う甘い香りは晩ご飯の時にぐっちゃんが飲んでいたメロンソーダだ。そのメロンソーダと同じ色のネオンが窓の外をものすごいスピードで右から左へ流れていく……って、あっ!
「ぐ、ぐっちゃん! 新幹線出ちゃってる!」
「うん、乗っちゃったね」
「どうするの?」
「切符って車内でも買えるんでしょ? だからのんちゃんと一緒にのんちゃんの実家がある駅まで行くよ」
「で、でもぐっちゃん、明日サークルの友だちと初詣に行くって」
「朝イチで帰れば間に合うよ。ほら、シューズを買おうと思って下ろしといたお金もあるし、大丈夫」
「でも」
混乱してしまってでもばかり繰り返す私の両肩をつかんで、ぐっちゃんが私の顔をのぞきこむ。
「俺がのんちゃんに直接明けましておめでとうって言いたかったから、いーのっ。さっきまではのんちゃんに俺がさみしがってるなんて気付かせちゃだめだって思ってがんばってたけど、全部ばれちゃったし、のんちゃんったら泣きそうなんだもん。俺だってさみしかったのに、のんちゃんにあんなこと言われたら我慢なんてできないよ」
ぐっちゃんが晴れ晴れとした笑顔で言い切った。
「……一時間くらいで地元に着いちゃうから、明けましておめでとうはまだまだ先だよ」
「あ、そっか。じゃあ、新年になるまでのんちゃんに付き合ってもらおうかなあ」
その表情があまりにもまぶしくて、つい叩いた憎まれ口にもぐっちゃんは笑うばかり。
――今年の終わりと来年の始まりに向かって新幹線は進んでいく。
「そういえばこの新幹線ってのんちゃんと同じ名前だよね! 何だか縁起いいよね!」
「縁起は関係ないんじゃ……」
「俺が縁起いいと思ってるだけだもん。だってのぞみだよ? 俺は今年も来年ものんちゃんと一緒にいたいんだ。そののぞみをこの新幹線が叶えてくれてるんだよ、これってすごいことだよ」
「な、何言ってんのよ、もう」
――無邪気な笑顔でこっちが照れてしまうようなことを言うぐっちゃんと、つい憎まれ口を叩いてしまう素直じゃない私の望みを乗せて。
さみしく思う気持ちはきれいに消えていた。すっかりいつもの調子に戻ったぐっちゃんが側にいて、もうすぐ訪れる来年もぐっちゃんといられると思うと、胸のあたりがあったかくうずくから。
「……お母さんに電話して、友だちと初詣に行ってから帰るって言おうかな」
だけど全部打ち明けるのはまだ恥ずかしいから、私の気持ちがちょっとでも伝わるように、ぐっちゃんの大きな手をぎゅっと握った。