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密室秘蝋

「またか」


 何処かから諦めの嘆息が漏れた。


「出来ればあんな風に穏やかに殺して欲しいね。あるいは一瞬で意識が消えちゃう様なやつ」


 そんな会話が漏れてくる。


 私の視界には死体があった。沢山の人が警備員に阻まれて遠巻きに死体の居る部屋を窺っている。私達はその輪の外から死体を見つめている。太り気味の死体は部屋の中で椅子に坐って上を見上げて死んでいた。一目見ただけでは生きている様にも見えるが、ガラス越しに見ても体温は無く、心臓の鼓動も無い。それは確かに死んでいた。部屋の中には沢山の動物がいる。死体の膝の上には狐が載り、足先には犬が集まり、頭の上では狸が毛づくろいをしている。鳥が飛び、鼠が走り、兎が眠っている。他にも沢山の動物が、中には人工的に作られた物も。暴れている動物達も居る。猫だ。死体の死に顔はあまりにも安らかで、動物に囲まれて幸せそうに上を向いて目を閉じている様だ。


「おお、探偵殿。またよろしくお願いします。現場はまだ警察の方々も入っておりません」

「どうも校長。それで密室ですか?」

「はい、密室です」

「ほう」


 探偵は感心した様に頷いて、私へと向いた。その眼から輝きは消えていた。


「こちらがこの学校の校長のエトランジェさんです。校長、こちらがあの白い立方体の中に居た女性です。名前は忘れたそうです」

「初めまして」

「どうも初めまして、エトランジェです。はは、初めてお越し頂いたのにこんな事件がありまして、申し訳ない」


 探偵は校長の後ろで嫌そうな顔をしたが、すぐに表情を戻して言った。


「それで、現場は小学部のこの動物実験棟でよろしいのですか?」

「はい、他の場所は既に警察の方々が調べましたが、事件の現場ではない様です」


 探偵は校長と向き合いながら露骨に嫌そうな顔をした。


「何か、まずい事でも?」

「いえ。それで死因は?」

「死因と言われましても。私達にはみんなプロテクトが掛かっていますし、体を調べる様な真似は」

「まあ、動物に囲まれた幸せに因るショック死でしょう。そんな即効性の毒があったはずだ」

「そんな毒が」

「あるのです」


 探偵が人ごみを掻き分けていった。私はその後ろをついて行った。カーミラと杏奈は授業を受けに別の校舎に行っている。私は探偵に言われてここに来た。記憶を得る手がかりがあるかもしれないと。


 探偵が苦労して部屋に辿り着くと、まず真っ先に部屋のドアを調べた。ドアノブ何ていう時代錯誤の代物が付いているが、その実ドアはノブを使わず開閉する仕組みで、ドアノブはただの飾りの様だ。その部屋は廊下側の壁が透明で、残りの三方が薄く水色がかった壁に囲まれている。探偵は透明な壁に顔を張り付けて、ドアを何度か確認すると、そっとドアに手を触れた。ドアは難なく開いた。


「校長」

「は、はい、何でしょう?」


 人ごみの波に揺さぶられて荒く息を吐きながら校長は応じた。


「鍵は掛かっていない様だが?」

「そうなのですか。誰も調べていないので良く分かりませんが」

「誰かが触れたかい?」

「いいえ、誰も。壁越しに死んでいる事に気が付いて警察を呼んで、そのまま皆で現場の保存に努めましたので」

「じゃあ、最初からこのドアは鍵が掛かっていなかった訳だな?」

「はい」


 探偵は額に指を当てた。


「じゃあ、これ密室じゃないんじゃないか?」

「いえ、違うのです。これは密室なのです」

「ほう? どういった事でしょう?」


 探偵は芝居がかった調子で眼鏡の位置を直して校長を見据えた。


「この実験棟は今日はほとんど無人で、この二階のフロアに上がった者はその実験室の中で死んでいる彼だけなのです。彼が昨日突然この実験棟で危険な実験をするなんて言うから」

「どうしてそれ以外に上がった者が居ないと? ああ、そういえば、階段は一つだけでしたね」

「はい、外壁は密閉されておりますから、霧になっても通れませんし、監視カメラやらの通常の監視装置はありませんが、存在確立を弄って壁抜けする位は流石に検出できます。警察の方にも確認していただきましたが、あの部屋に行く為には必ず一階から階段を上らなくちゃならない」

「では、誰か階段を見張り続けていた者が居たのですか? 朝も早くから暇な事に」

「はい」


 探偵が皮肉気に言うと、校長は頷いた。面食らった探偵を余所に、校長は誰かを呼んだ。すると前に道を教えてくれたアンドロイドの少女が年配の女性を伴ってやって来た。


「あ、お姉さん。朝ぶり。探偵さんも来てるんだ」

「ええ、朝ぶりです」

「どうも探偵です。今しがた失礼いたしました、お嬢さん方」


 先程の探偵の言葉を聞いていなかった二人は理解できない様だが、年配の女性の方は探偵の言葉尻に顔を赤らめた。


「この二人が証人な訳ですね」

「はい。私が今日見た彼は死体の状態だけですが、二人は生きている状態の彼も見たみたいですよ」


 そう言って、校長は下に降りていった。解き終わったら呼んでくださいなんていう、無責任な言葉を残して。探偵は肩をすくめてから、連れてこられた二人に向き直った。


「嫌な上司を持つと大変ですね」

「ホントにそうなんですよ。分かってくれますか、探偵さん」

「勿論です。それでお二人が二階に上がる階段を見張っていたのですか?」

「見張っていたって訳じゃないけど、ねぇ、おばさん」

「そうですよ。美穂ちゃんと一緒に二人で階段の横に居ましたから、誰かが上れば分かります」

「そうそう」

「成程。一階には結構人が居たんじゃないですか?」

「はあ、いえ、あまり人は多くなかったですよ。特に階段は全然。ねぇ、美穂ちゃん」

「うん。あ、もしかして何かトリックを使ったのかな」

「トリック?」

「うん、小説だとねぇ、何かこう普通の人が考えない様な細工とか状況を作って、犯人逃れをしようとするんだよ。ね、探偵さん」

「ええ、そうですね。トリックが使われた可能性もまだ否定出来ません」

「はあ、それは恐ろしい事で」


 年配の女性は恐ろしいんだか恐ろしくないんだか分からない、実に奇怪な顔を作って頬に手を当てた。


「しかし死んでしまったあの男性はいつからそこに居たんでしょう。何か知っていませんか?」

「そりゃあ、朝っぱらから居ましたよ。鍵を開けるのはあの人の役目でしたから、常に朝一番乗りです。私が来た時に丁度階段を上ってくところでした。遠目でしたけど太っちょが白衣来てますからすぐに分かりますよ」

「へえ、私は見てなかったけど」

「うん、美穂ちゃんが来る少し前だったから」

「その後二人で見に行った時は居たよね」

「ええ、そうそう。居たね、この部屋に。寝ていましたよ、探偵さん」

「ここに見に来たのですか?」

「ええ、生きてましたよ、最初の時にはね。次に来た時は死んでましたけど、まあ、二回目に来た時も私はまた寝てるだけかと思ってましたけど」

「二回目の時には何だか変だなって思って、私が室温を見たら寒くて、人間なのに明らかに熱を発してなかったから死んでるなって」

「美穂さんも体内のスキャンは出来ませんよね」

「うん、今の人はみんな防御機構が付いてるから。そっちのお姉さんの中は見れるけど」

「そうですか。それで、死体を見つけた時は二人で一緒に上がって来たんですね」

「ううん、三人だったよ。さっきの校長と。校長、何でもあの死んじゃった人に用があったみたいで」

「三人で固まって階段で上ってここに来たんですね?」

「うん。でも階段を上ったら目の前がこの実験室だから、ここまでは来てないよ。階段の踊り場で死体に気が付いたからすぐに三人で下に降りてみんなに連絡しに行ったよ」


 美穂が後ろを向いて人ごみの向こうを指差した。階段がこちらを向いている。確かに階段を上がればすぐにこの部屋の様子が分かりそうだ。


「では、最初に見に来た時は? その時も三人であの死んだ男の様子を見に?」

「ううん、猫が居たの?」

「猫ですか?」

「うん。うちの学校の看板野良猫でね。とっても可愛いの。今度お姉さんにも見せてあげたいな」

「ええ、今度是非見せて下さい」

「ああ、あの猫ですか。確か見つめていると、周りが見えなくなってどうしても付いていきたくなるんでしたっけ?」

「そうそう。だから私達も猫にふらふらっと付いていったの。ね?」

「そうそう。猫ちゃんがね、階段を上るもんだから私達も付いていってしまって。それで気が付いたらこの階に居たんですよ。猫ちゃん、そのまま実験室の中に入ったかと思ったら、また出て来てね。ああ、そう言えば少しだけ正気付いて実験室の中を見た時に、居ましたね。こう、あの死んじゃった人は机にうつ伏せになって寝ていましたよ。ね、美穂ちゃん。それで猫ちゃんがまた戻るもんだから、私達もまたふらふらっと戻ってきて。それっきり校長が来るまで下の階に居ましたよ」

「うん、確かに寝てたよ。物陰に隠れて顔は見えなかったけど、太ってたし白衣来てた。それに体温も出してたからまだ生きてたみたい」

「もう上に上がった時、私は正直怖くてね」

「どうしてです?」

「だって何か危険な実験をやるって言うから」

「小学部の研究棟でそんな事やらないで欲しいよね」

「どんな実験だったんですか?」

「そりゃ分りませんけど、何だか怖い研究だって言うから、みんな上に上がれなかったんですよ」

「うん、だから今日は二階にも三階にも誰も居なかったの」


 頷いた探偵は室内をちらりを見てから、顔を戻して言った。


「分かりました。質問は以上です。ありがとうございます」

「ええ、ほんとに早く捕まえて下さいよ。もう怖いったらないですよ。こう立て続けじゃね」

「先月もこの学校で一人死んじゃったしね」

「ええ、あの時も犯人は捕まったけど、別に黒幕が居るなんて言うじゃないですか。もうほんとに怖くて」

「ええ、分かっています。もう少しでその黒幕にも辿り着きますので、ご安心ください」


 年配の女性は探偵に対して犯人を捕まえる様に何度か念を押した後に、美穂に連れられて下に降りていった。美穂は去り際に手を振ったので、私も手を振りかえした。人が死んだというのに嬉しそうな笑顔だった。周りの野次馬もそうだ。誰も怖がっている様子は無い。そういうものなのだろうか。


 私が軽い衝撃を受けていると、探偵が死体のある実験室に入っていった。私もそれに付いていくと、廊下と部屋の境界を一歩跨いだ瞬間、部屋中から生き物の騒ぎ声が聞こえてきた。


 見れば猫達が白衣を我先にと争って引き裂いている。他の生き物達は白衣に興味を示していない。部屋のそこかしこでくつろいでいる。何人かは白衣を脱がされた死体の上に居る。


 探偵はそんな生き物や死体には興味を示さずに、部屋の中を見回すとふっと息を吐いて、また部屋の外へと出た。私はそれを追った。探偵はまた野次馬を押し分けて、私はその後ろに付いて、階段へと向かった。


「さっき言ってた猫ですが、実はあの二人が見た後私の所へ来たみたいなんですよ」

「そうなのですか」

「すぐにふいっと何処かへ行ってしまいましたがね。きっと餌の匂いに釣られたんでしょう」

「人を魅了する猫は何を食べるんでしょう?」

「さあ? それにあの猫は人を魅了するだけじゃないのです」

「他にも何かあるのですか?」

「あの猫はとても鼻が良いんです。警察猫をしていた事もあったんですよ。離れても目的の物を嗅ぎ分けられるんです。密閉された建物の中で吸っていた麻薬常習者達を摘発した事もあったそうですよ。」

「警察猫ですか?」

「嗅覚を利用して解決の手助けをするのです。そして、あの猫はお巡りさんと一緒にいつも同じ時間に同じ巡回コースを回っていました。私達なんかよりも余程正確に。引退した今でもね。事件のあった時間帯は丁度学校の傍を回ります」

「そうなのですか」

「そうなのです」


 二階から三階へと上った。その上には階段は続いていない。ここは三階建ての建物だ。三階に着くと、目の前に実験室があった。三階は二階と同じ間取りの様だ。左右の廊下を見渡しても寸分と違わない。二階と只一つ違うのは、目の前の実験室に生き物と死体が全く居ない事だけだ。生き物が居ないので、私達は易々と実験室に辿り着き、実験室の中に入っても静寂が広がっていた。


 探偵は実験室の中に屈みこんで何かを拾うと、私に振り向いて言った。


「さて、それじゃあ、この下らない事象を片付けて、この場を離れる事と致しましょう」

「分かりました」


 探偵はすたすたと何の気なしに実験室から出て行こうとするので、私は背中に声を掛けた。


「決め台詞は無いのですか?」


 探偵は振り向いて、突然両手を伸ばし、ゆらゆらと揺らめいて、足を交差させたかと思うと、真顔で言った。


「すみません。思いつかないので次回までに」

「期待しています」


 一階に降りると校長が待っていた。私達に気が付くと早速近寄ってきて、汗を拭き始めた。


「はは、段々外がうるさくなってきましたよ。どうでしょう、謎の方は」

「あの死んだ男はどんな実験を?」

「え?」

「何でもあの男に用があって、第一発見者になったと聞きましたが」

「ああ、私も良く分からないのです。何か面白い薬を手に入れたとかで。危険だから明日の、いえ、昨日そう言っていたので、今日ですね、今日の午前中は近付かないで欲しいなんて言いますし。まあ、特に使う予定がなかったので許可したんですが。用というのも、午後になってもまだ続けている様子だし、あんまり変な事をされても困るので、ちょっと釘を刺しにいこうとしただけで」

「成程」


 探偵は眼鏡を外して目を細めてから、また眼鏡を掛けて校長を見据えた。


「では密室の説明と参りましょう」

「はあ、お願いします」

「では、ずばり。あれはお嬢さん方が部屋を間違えただけです」

「はあ。あのどういう事でしょう」

「私達が部屋を間違えた? ちょっと探偵さん、何だか私達が犯人みたいな言い方を」

「いえ、全くそんな言い方はしていません。それでですね、お二人は猫に気を取られて、上った先が二階か三階か分からなくなったんです」

「しかし二人とも二階だと」

「それは白衣の太った男を見たからでしょう。ですが顔は見ていません」

「ん? どういう事でしょう?」

「もしかして、あの時見たのは死んじゃった男の人じゃなかったの?」

「そう言う事です。被害者と年恰好が同じな犯人が白衣を着て眠った様な恰好をしていただけなのです」

「成程ぉ」

「それが何の意味を?」


 美穂は察した様だが、校長は分からないらしい。年配の女性はハナから聞く気が無い。自分が犯人じゃないと分かって貰えただけで満足した様だ。


「つまりですね。ずっと前、お嬢さん方が来るよりも遥か前に、被害者はここに来ていた訳ですね。そうしてそこには犯人も居合わせていた。共同実験者か何かでしょうか。その人物が被害者に動物に囲まれると死んでしまう薬を投与して殺してしまう。犯人は、恐らく計画的だったのでしょう、白衣を来てそちらのお嬢さんがやって来るのを待った。やって来たら後ろを向いて顔を見せない様にして、被害者と同じ体型と白衣を見せて、上に上る」

「それで、おばさんは犯人とあの死んじゃった人を勘違いしたんだね。まだあの人は来たばっかりだって」

「そうです。二階以上には危険な実験をすると触れ回ってあったので人は来ない。だから一人だったのか二人だったのか分からなくなる訳です。そこに猫がやって来る」

「そう都合よく来るのかね? 偶然来ただけだと思うが」

「猫は警察で訓練を受けて、同じ時間に同じコースを回ります。そして非常に嗅覚が鋭い。だから校舎の中から何らかの匂いを嗅いだんでしょう。多分猫を集める様な匂いをね。白衣に付けていたんじゃないかな。猫がじゃれていたから」

「それで猫がやって来たと?」


 校長はまだ分からない様だった。あるいはその猫の特性を知らないのかもしれない。


「はい。あの猫には人を魅了する力があります。一目見ただけで目が離せなくなり、どうしても付いていってしまう魅力です。常人には抗えません。だからお嬢さん方は確実に付いていく。ところが猫が向かうのはあの被害者の居た二階ではなく、犯人が直前に寝たふりをし始めた三階です。臭いを付けていた白衣を犯人が着ていたのです。そして猫に因って三階に案内されたお嬢さん方は被害者が居るはずの二階と勘違いする。二階と三階の間取りは全く同じ。別の階に居るなんて気付けません。その日は誰も居なかったからで道行く人々で見分ける事も出来ない。ほんの僅かな細かい違いはあるのでしょうが気にする人なんて居ません。唯一、二階には被害者、三階には犯人が居たという大きな違いがありましたが、犯人が机に向かってうつ伏せに寝て、顔を見せない様に、同じ体型と服装を見せていたので、これも被害者と見分けがつかない。だからお二人は寝ていた犯人と被害者を勘違いしていて、自分達は生きた被害者を二階で見たのだと勘違いしてしまうのも仕方が無い。後は誰かが本当の被害者を見付けて騒ぎになった隙にこの実験棟から逃げれば、まるで誰も居ない実験棟の中で一人でに死んだように錯覚してしまう」

「はあ、何だか良く分かりませんが。でもなんでそんな面倒な事を」

「逃げる時間を稼ぐ為でしょう。規制の所為で科学捜査や監視装置の使えなくなった今なら、訳の分からない状況を作ればそれだけ時間が稼げるし、もしかしたら迷宮入りになるかもしれない。外に出ればこの町の司法は届きません。とにかく事件の捜査が本格化する前に町の門を抜けられればそれで良かった訳です」

「それじゃあ、早く警察に知らせませんと」

「大丈夫です。既に警部に連絡しました。犯人は逃げ切れません」


 私が訝しんで探偵を見ると、探偵は私を目で制した。


「そうですか。良かった」

「後は警部から指示が来るでしょうからそれに従ってください」

「はい、ありがとうございます。先月に続き、今度もまた」

「いえ、仕事ですから」


 そう言って、探偵は背を向けて玄関へと向かった。私もまた、手を振る美穂に手を振りかえして、再会を約束してから、探偵を追って玄関を出た。出た拍子に、探偵がこちらを向いて、小声で言った。


「さっきは自信満々に語っていた手前、恥ずかしくて嘘を吐いてしまいましたが、これから本当に警部に連絡をします。あなたは先にカーミラの所へ行っていてください。あの一番高い建物の一階に居ますから」


 探偵が指差した方向には確かに赤レンガで出来た高層ビルが建っていた。私はそれを見て頷いた。


「それじゃあ、また後でな」


 探偵が眼鏡を外して言った。


「はい、また後でお会いしましょう」


 私が会釈すると探偵はこそこそと物陰へと隠れた。私は探偵を背に向けて高い建物へと向かう。


「警部」


 後ろから探偵の声が聞こえてくる。声を潜めて、誰にも聞かれない様にしているようだが、丸聞こえである。


「回収したよ。ANIDRAとあるが、これで合ってるか? あんたに褒められたって嬉しくないんだよ。全く今度こそ本当の密室かと思ったら、また紛い物だ。俺は探偵でいたいのに。これじゃあ、只の刑事だ。ああ、適当にでっち上げておいたよ。被害者と同じ体型の人物を犯人に仕立てておいてください」


 きっと最後は眼鏡を掛けたのだろうと思う。私は探偵さんも色々と大変だなぁと思った。垢に塗れた話をしていた。まるで自由に振舞っていたのに。自由に見えたのに。そういうものなのだ。きっと、世界というのは、いつだって、どこだって。この町だって。


 そういえば、私の記憶は依然として戻っていない。私は一体誰なのだ。

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