犯罪公演
探偵事務所の下は探偵の自宅らしい。道路に面して車が一台入るだけの屋根付の駐車場が在り、そこには三輪車が置かれていた。
「僕の愛車なんです。一人乗りなのでお乗せする事は出来ませんが」
眼鏡を掛けた探偵はそう言った。私は頷いてから別の事を尋ねた。
「殺人があったそうですが」
「はい、事件ではありませんが、警察から依頼を受けて調査しました。実に詰まらない事象でしたよ。一瞬で解けました」
「人が殺されたのですか」
「ええ、その通りです」
「五つの内の一つですか?」
探偵は突然右手を頭頂に当て、左手を顎の下に添えて、頭を押し込む様に手に力を込め始めた。何をしているのか分からない。
やがて頭から手を離したかと思うと、探偵は困惑した顔をこちらに向けてきた。
「降参です。五つの内の一つとはどういった意味でしょう?」
「何でも人が死ぬ原因は五つあるとか」
「五つ?」
「人間、意志ある人間以外の人、時間、自分、意志無きものの五つの要因に因って人は死ぬとか」
探偵は顔を顰めて私に聞こえぬ様に小声で呟いた。
「そうか、あの婆さんまだそんな事を」
だが私には丸聞こえだった。探偵は私の視線に気付くと隙の無い笑顔を浮かべて、人差し指を立て横に振りつつ、ちっちっと口内から何度か空気を破裂させる音を立てた。
「駅前に居る占い師の女性から聞いたのでしょう? もしかして僕の所在もそこで聞いたのかな?」
「はい」
「駄目ですよ。あの女性の言う事を信じては」
「何故でしょう? 嘘吐きなのですか?」
「いや、そういう訳ではないのですが……」
探偵の手元に蜜柑が飛んできた。探偵は受け取って、懐からコインを取り出すと指で弾いて、蜜柑を投げた三人の女の子へと飛ばした。
「あの女性は耄碌してしまっているのです」
「そうなのですか?」
「そうなのです。二世代位前からね」
「そうは見えませんでしたが」
「あの女性は人を人間とそれ以外に分けずにいられないんですよ。もうそんな考え流行らないというのに」
「そうなのですか?」
「そうなのです。ですから、本当の死因は四つ。いや、二つです。人と自然、これだけなのです」
「人と自然……自分と他人の区別も付けないのですか?」
「はい、人は並べて密室を作る可能性がありますが、自然は密室を作らない。自然が作るのは偶然だけです。探偵が解くのは前者だ」
探偵の手元にバナナが飛んできた。探偵は受け取ってコインを弾いた。それから私の手元へバナナを置いた。探偵は蜜柑を剥き、私はバナナを剥いて、歩きながら二人で食べた。バナナの味がした。探偵の口の中には蜜柑の味が広がっているのだろうか。それを確かめる術は無い。
「殺人があったのですよね」
「はい、いや、起こっています。もうかれこれ一年位、沢山の人が殺されてきました」
「どれくらいでしょう?」
「千人程が同一の事件に因って殺されているみたいです。ちなみにこの町には百万人程住んでいます」
「沢山の人が死んだのですね」
「沢山の人が死にました」
「皆さん、あまり怖がっている様には見えませんが」
「あなたにそう見えるだけでしょう。皆、殺されたら嫌だなぁ位には思っています」
「探偵さんはその犯人を見付けようとしているのですか?」
「探偵としての私がではありませんが、警察に頼まれたので不承不承」
「目星は付いているのですか?」
「いいえ」
その時、ふと探偵は立ち止まり、くるりくるりと二回三回回った挙句、傍らの家に拳を突き出し、そのガラス窓を割った。中から悲鳴が聞こえてきた。探偵は涼しげな顔をしてこちらに向くと、思案気に言った。
「恐らく境界の外に居る者、あるいは境界の外を目指す者の仕業でしょう」
「犯人を見つけたのですか?」
「いいえ、ですがあなたの話を聞いて、今何故だか急にそんな事を思いました」
「私の話を聞いて?」
「はい、何故なのかは僕にも分かりませんが、もしかしたらあなたは今回の事件の要素なのかも知れません」
「私はそうは思えませんが」
「僕にも分かりません」
「ところで事件だと仰っていましたが、密室が見つかったのですか?」
「はい、もしも犯人が境界の外側から俯瞰する者であるなら、この事象は巨大な密室です。よって事件であり、僕の出番なのです」
歯を見せて探偵が笑った。子供っぽい笑顔だった。瞳の輝きに陰りは無く、全身から立ち上る熱が陽炎を作っていた。これが探偵か。そう思った。期待で胸が熱くなった。一体どんな物語を聞かせてくれるのだろう。私の前には白いドレスを着た女の子が座っていて、本を広げて読んでいた。私は女の子の口をじっと見つめて、その話に耽っていた。
ふと気が付くと坂を下りていた。一瞬前の幻影は消えていた。隣を見ると、探偵が嬉しそうに西瓜の欠片を食べていた。何故だか探偵の胸が西瓜の果汁で赤くなっている。果肉も少し付いている。一体何があったのか。
「げっ」
探偵がうめき声を洩らした。途端に眼鏡を仕舞って、西瓜を捨て、前を凝視した。前方には先程探偵事務所にやって来た女性と女の子が坂を下っている所だった。女の子は女性を見上げて必死で何かを話しており、女性は何かを──輸血パックを口に咥えて、楽しそうに頷いている。
探偵が歩みを緩めたり早めたりしている。女性に追いつこうか迷っているのだ。後ろで何か大きな音が聞こえた。探偵の足が早まった。どうやら女性に追いつく事に決めたらしい。精悍な顔付きを一層引締め、胸の蝶ネクタイの位置を直し始めた。後ろから大きな声が聞こえた。
突然前を歩く女性がこちらを向いた。驚いた様に目を見開いてこちらを見つめてきた。女性が輸血パックを吐き出してこちらを見つめる目を険しくさせた。いや、私達の後ろを見ているのだろうか?
女性の髪が揺れた。日の光に照らされた髪は大きく広がりながら薄らと赤く染まっていた。亜麻色の髪ではなくなっていた。なくなりつつあった。髪は次第に赤く赤く、瞳もまた赤く赤く、染まっていく。まるで私達に誇示するかの様に、赤い髪はざわりと震え、赤は更に深く深く淀んでいった。赤は更に赤く黒く、凝縮され尽くした赤はやがて凝り固まった黒に変わり、光を吸い込む黒に変わり、黒は私の目を釘付け、髪は黒く、瞳も黒く、まるで夜を映した様に、光も無く、影も無く、均された闇が女性の白い肌を浮き上がらせている。
私はそれを見て、本当に吸血鬼なのだと思った。赤い和服を着た女性の黒い髪と黒い瞳を見て、ああ確かに日本人だとも思った。女性の体は低く沈み、女性の周りを霞の様な闇が覆い、影を纏った女性は私の後ろを睨みながら道路を蹴った。
誰の目もそれを追っていない。私だけがその昂った怒りを見つめている。一体、私の後ろに何があるのだろう。私は動かしがたい首を無理やり動かして女性から目を外し、振り向いた。
背後には巨大な車が迫っていた。後一息で私の体に触れる。それ位近付いていた。トラックの様だが、あまりにも巨大だった。まるで天を摩さんとする様だった。私は事態が呑み込めなかったが、横に探偵が居る事を思い出して、一歩前に出てトラックへと近寄った。
近寄るまでも無くトラックは私の前へ、私が手を伸ばすと、その周りを影が覆った。そう思う間に、トラックの前面に影が張り付き、横にはトラックに手を伸ばす黒い女性が居た。
私の体を衝撃が通り抜けた。出来る限り体の中には力が掛からない様に分散に分散を重ね、更に闇が力を吸い取ってくれて、減じた衝撃は足の裏へ、道路へと流れていった。
前から甲高い、後ろから少し低い、ひび割れの音が聞こえてきた。その音はすぐさま金属の擦れる巨大な唸り声に掻き消された。それだけでなく、辺りの音という音が金属の悲鳴に上書きされていった。
しばらく耳をつんざく状態が続いたが、やがてトラックは止まった。残響がまだ耳の奥に響いていたが、一先ず世界は元へと戻った。
安堵した拍子にふと視界の端にこちらを見つめる男達が入った。路地裏からこちらを覗く男たちは驚いている様でもあり、決意の漲った様でもある。幾人かは身を乗り出そうとしていた。助けようとしてくれたのだろうか。先頭のピエロの服を着た男がやけに印象深い。
「大丈夫だったかい?」
傍らから掛けられた声に気付いてそちらを向くと、亜麻色の髪を晒し青い目を浮かべた女性がこちらを覗き込んでいた。もう吸血鬼でもなく、日本人でもなかった。でも吸血鬼なんだと思った。
「もう完全に止めたから手を離しても大丈夫だよ」
私はそう言われてトラックから手を離した。見ればタイヤ周りに影が纏わりついている。トラックはその場に縛り付けられている様だ。
「止めてくれてありがとね」
「こちらこそ助けていただきありがとうございます」
男達の居た場所を見ると既に男達は居なくなっていた。後は薄暗い路地が残っている。人の気配は無い。
「しかしこんな手まで使って来たかい。探偵さん、早く止めて下さいな」
吸血鬼の言葉を聞いて、探偵は眼鏡を掛けると頷いた。
「分かっていますよ」
「ふん、もう一年も見付けられていないってのにさ。呑気なものだね」
吸血鬼は探偵から視線を外すと坂を下りながら手を振った。
「それじゃ、私は学校に行くよ」
探偵は眼鏡を外して後を追おうとした。
「ああ、俺も」
「あんたはちゃんと調査しなさい」
そう言って女性は振り返ってトラックを指差すと、ついとにべも無く前を向いて坂を降って行った。
探偵は眼鏡を掛けて嘆息すると、私の方を向いた。
「助けていただきありがとうございました」
「いえ。これも犯人の仕業ですか?」
「そうですね。トラックには運転手も居ない様だし」
探偵の視線を追うと確かにトラックに人の姿は無い。
「電子回路が壊れた可能性もあるけれど、まあ犯人の仕業である可能性が高いですね」
「そうなのですか」
「僕はそう思いますよ、警部」
いつの間にか口ひげを生やした小太りの男がやって来ていた。周りには制服を着た警官が大勢居た。
「そうかい。難儀な事だ」
「いっそ全区域に監視装置を付けるなり、全員の位置情報を掴める様にするなりしたらどうですか?」
探偵の言葉を聞いて、警部は自嘲した。
「ふん、警察署にたった一台の光学レンズを添え付け様とするだけで権利がどうだとか、個人情報がどうだとか言われたのにかね? 無理だよ。それが出来たら苦労しないだろうが。警察の捜査手法が三千年前と対して変わらないのはどういう事だろうね」
「皆さん、命の危機を感じていらっしゃるのでしたら、監視カメラ位付けても何も言わないのでは?」
私が尋ねると、警部は疲れた様に溜息を吐いた。
「ふん、誰も本気で命の心配なぞしていないさ。どうせ生き返るんだから……」
そこで警部は言葉を切ると、怪訝な顔をした。
「こちらは?」
「ああ、あの森の中の聖域に居た方ですよ。何でも」
「ああ、あそこが遂に開いたのか」
探偵の言葉を遮って警部が大仰に嘆いた。
「また条例がどうとか騒がしくなるな」
「市民には何の関係もありませんがね」
探偵は私へ向くと、坂の下の前粒の様に小さくなった吸血鬼と女の子を指差して言った。
「僕は少し忙しくなりそうなので、あの二人に付いて学校へ行っていてくれませんか?」
私が頷くと、探偵は警部の脛を蹴り飛ばし、痛みに足を上げて飛び跳ね始めた警部の帽子を剥ぎ取って、自分で被った。
「それでは失礼いたします」
「ええ、それではまた学校で。何、すぐに行きますよ。どうせ分かる事なんて何もないんだから」
何か騒ぎ立てている警部を無視して私と探偵は言葉を交わし、別れた。
吸血鬼と女の子を追って坂を下る途中に、また路地の横から大通りを眺めるピエロ姿の男が見えた。私はそれを横目で見つつ、坂を駆け下りた。




