遡及動議
朝、私の家──白い立方体を出て、丘を上り、酒場の前を通る時に、横の草むらで寝る客を見つけたので、挨拶をした。
「おはようございます」
「おお、おはよう」
客は気だるげに体を起こすと、私を見付けて片手を挙げた。随分と疲れている様だ。
「お疲れの様ですね」
「ああ、あの酒を町まで運んでいったんだ。一人だと大変だよ」
「そういえば、確かあなたは最初町ではお酒を飲めないと言っていませんでしたか?」
「酒を飲めないのはあくまで儂の話だ。言っただろう? 儂はあの酒を飲んじゃいかんのだ」
「町のお酒はあれだけなのですか?」
「いいや、そういう訳じゃないが、あの酒はな、金が無くて酒を飲めない奴らに無料で渡してるもんだ。町の門の前にこっそり置いていくんだが、自慢じゃないが中々の酒だ、どうやらそれなりの値段で流通したり、あるいは他の酒に入れられて笠増ししたり、とにかく何処にあるか見当もつかん。うっかり飲んでいたなんて事にもなりかねん」
「そういうものですか?」
「そういうものだ。だから儂は町で酒が飲めんのだ」
客はまたごろりと草の上に寝転がって、空を見上げ始めた。
「あんたは古いんだったな。酒を飲むのか?」
「いいえ。私は飲みません」
「そうか……それが良い。酒を飲んでは破滅する。儂はそれを実感した。だから酒なんて飲まない方が良いんだ」
「なら何故あなたはお酒を飲むのですか?」
客は少しだけ考える素振りを見せた。わざとらしい、既に答えの出ている様子だった。
「儂が酒を飲むのは……いや、酒を飲むのは俺達人間の性だ」
「人間の性? では破滅するのも人間の性だと」
「そうだ」
客は目を閉じて動かなくなった。外界の一切を拒否する。そんな風だった。何を言っても聞く耳を持たなそうだ。そんな気がしたので、私はその場を離れる事にした。
「では、失礼させていただきます」
案の定、客は一切反応を示さなかった。空を見上げると快晴だ。雲は全く無く、雨が降る様子はまるで無い。天気が崩れる予兆など全く見えなかった。でも何故だか、荒れそうだな、とそんな事を思った。
町の門を潜ると紙を渡された。何かと思って開いて見ると、新聞の様だった。文字は読めるが何が書いてあるのかほとんど分からない。昨日のニュースと一緒だった。幾つか単語を照会してみたがその説明もまた分からない。この時代はあまりにも私と違いすぎる。
何とか読める所を拾いながら読んでいくと、最後に棒グラフが書かれていた。殺人件数を図示した物らしい。週の初めから段々と件数が上がり、昨日が一番多くなっている。一か月間の物に変換してみると、やはり月初めから段々と件数が増えている。今度は月別を見ていると、こちらは順調に伸びてはいなかった。ある一点まで進むと減り、また増え、減りを繰り返している。解析してみても、いまいち増減の法則は掴めない。一つ分かるのは、増加が大体一月毎にピークを迎える事だけだった。けれどそのピーク値もその後の減少も、規則性は見られない。黒幕が操っているのなら只の黒幕の気まぐれか。それでもあまりに滅茶苦茶だ。たった一つの黒幕という変数でここまででたらめに出来るだろうか。
私の横を子供達が通り過ぎた。楽しそうにはしゃぎながら何処かへと消えていく。これだけ人が死んでも子供達は元気そうだ。それが不気味だった。
「向こうで楽しそうなのがやってたよ!」
「ピエロが居たんだ!」
ピエロ。昨日の人々が思い浮かんだ。子供達の言うピエロとはあのホーマーという人だろうか? あの人達はどうしているだろう。あの場所でずっと悲嘆に暮れ続けるのだろうか。
交差点を通り過ぎる時に右を向くと、ピエロが居た。周りに集まる子供達を意にも介さず歩いている。ピエロの服は昨日見たものとは柄が違っていた。顔は見えないがどうやら別人の様だ。ピエロは飄々とした足取りで角を曲がって見えなくなった。その後ろを子供達が嬉しそうに付いていく。まるで笛吹きの様だと思った。
幾つかの区画を移動してようやっと探偵の家に着いた。途中で果物でも買って行こうと考えて市場で選んでいたら少し遅くなってしまった。しかしあれだけ沢山の品物が置かれていたのだから仕方が無い。物事を選択するのは難しいし時間が掛かる。私が看板の掛かった扉を開こうとすると中が少し騒がしい事に気が付いた。何かあったのだろうか。扉を開くと、探偵が目の前の空間に向けて怒鳴っていた。
「だからピエロの服着た奴なんて幾らでもいるだろう!」
ピエロ? 先程のピエロだろうか?
「は? もう捕まった? まさかあいつだった訳じゃないよな?」
何の事を話しているのだろう。相手はだれだろうか。
「だから言っただろう! あいつはそんな事をする奴じゃない! 下らない事で連絡してこないでくれ!」
探偵が荒々しく目の前の空間を殴りつけて通信を打ち切った。大きく息を吐き出しながら机の上に手を掛けたところで、探偵は私に気が付いた。眼鏡を掛けて息を整えると私に向かって一礼した。
「こんにちは、お嬢さん。どうしました」
「おはようございます。お話を伺いにやって来ました。体調はいかがでしょう?」
「すこぶる良いですよ。たった今、血圧も上がりましたしね」
探偵を観察してみると、血の巡りは早そうだが肌は土気色で少し顔色が悪い。あまり体調は良くない様だ。
「もしよろしければこちらを食べて元気を出してください」
「おお、ありがとうございます」
私が差し出した果物が盛り合わせられた籠を渡すと、探偵はその中から林檎を選んで齧った。相変わらず顔色は悪いが、美味しそうに食べてくれている。食欲はある様なら安心だ。
「先程の電話は一体何だったのですか?」
「いえ、何でもないですよ。実はついさっきまた殺人があったんですが、その犯人が僕の知人じゃないかと警部から連絡がありましてね。まあ、そんな事をする奴じゃないですし、実際に違ったのですがね。傍迷惑な事です」
ついさっき殺人が? 思わず聞き返しそうになったが、何か嫌な気がして追及するのを止めた。私の頭の中には漠然と答えが浮かんだが、合っているかどうか、確認するのが怖い。
「それで話を聞きに来たというのは? あなたの事件の捜査は、申し訳ないですが、あまり進展していません。また今日もご一緒に調査に赴いていただけると良いのですが」
「勿論ご一緒させていただきます。それもそうなのですが、それとは別に聞きたい事があります」
「ほう、何でしょう?」
「探偵さんが持つ事件とは何ですか?」
「僕の持つ事件? 連続殺人の事ですか?」
「いいえ。酒場の客の方に聞きました。あなたは何か過去の事件を持っていると聞きました。それは私の事件とも関わりがある様な素振りでした。あなたの事件とは一体どういった物なのですか?」
「一体、誰がそんな事を?」
「ですから酒場の客です。町の外の丘の上にある」
探偵はしばらく俯いて沈思していた。そうして思い出した様に果物を放り投げ、机の上に飛び乗り、一通り踊り終えて、そうして机の上から飛び降りて私の前に立った。
「何故それを聞きたいのですか?」
「私の事件と関係がありそうだからです」
「そうですか……それがあなたの事件を解決する為でしたらお話致しましょう」
「お願い致します」
私が頭を下げると、探偵は茫洋とした無表情で語り始めた。
「僕の事件……それは恐らく僕が探偵となるきっかけの事件でしょう。あれは、僕にとっての二回目の死の出来事です。三百年くらい前の事」
僕は密室の中で死んでいました。
あなたの状況と少し似ていますね。でも傍に自分の死体が在って自分は既に死んでいるのに動いているなんていう神秘的な状況ではありませんでした。僕はただお風呂の中で胸にナイフを突き立てて死にました。そして生まれ変わった時に、それを伝聞で聞いた。
生まれ変わった時、死の直前の記憶はあったんですよ。お風呂でシャワーを浴びている記憶が。だけど、その殺される時、きっと犯人を見ていたんだろうけど、その記憶は無かった。その時の記憶は町に取捨選択されて残らなかった様ですね。
世間では自殺なんて事になっていましたよ。その少し前にカーミラが死んでいたから、その後追い自殺だろうなんてね。最近目覚めたあなたは知らないでしょうが、確かにそういう人は結構います。偶にある例外を除けば、生まれ変わりの順番は死んだ順番ですからね。下手に死ぬ時期がずれると、生まれ変わった後に生涯会えない事もある。
でも僕は納得がいかなかった。僕自身は自殺だなんてまるで考えていなかった。カーミラは長生きだから、別に僕がいつ生まれ変わろうと結局カーミラと会える可能性は高かったし、僕がそんな理由で死ぬなんてきっとカーミラは嫌がるでしょうから。実際に後で二三発殴られたんですけど。
そもそもナイフが胸に突き立っている状況で何で自殺になるんだって疑問に思いましたね。普通に考えたらそれは誰かに殺されたんだろうと。そう思って色々調べたらそのお風呂場が密室だったんです。
「密室……ドアが閉まっていたのですか?」
「浴室のドアに掛け金がかかっていました。それから家自体にもね」
僕は家に帰って、自分で自分の死を調査してみました。きっとこの密室の所為で警察は自殺だと判断したんだと思った。だからそれを解けば良い。そう思って、家中を引っ掻き回してみました。中々楽しかったですよ。昔の血が沸々と湧きました。
「実は元々、カーミラと結婚する前は、そういう事をやっていたんですよ。探偵を名乗っていた訳ではないですが、その真似事みたいな事をね。結構な数を解決しました。密室に限らずね。時には警察に協力する事もあって、あの警部とは懇意になりました。それにカーミラと出会ったのも、ある事件がきっかけでした」
「探偵さんは元々探偵だったのですね」
「いいえ、あの時の僕を僕は探偵だとは思いません。探偵は快刀乱麻に密室を解く者ですから。あれでは刑事です。いや、実際に職務に就いていた訳ではないので、刑事でもない。実に中途半端な状態でした。でも少なくとも調査には慣れていた」
家を調べたら犯人が外に居ながら鍵を掛ける方法が幾つも見つかりました。痕跡を残さない方法だって沢山あった。推理小説や探偵小説を読んだ事はありませんか? 氷やら糸やらそういった物を使えば実に単純な方法で密室を作れるし、例えばあの当時はまだあったアリスワンドやキャットスマイルみたいな薬物を使えば簡単にトリックの痕跡を消してしまえた。
だからそれらの方法集を携えて、あの警部のところに持ち込みました。ところがね、一蹴されましたよ。家と浴室に鍵が掛かっていたから警察は自殺だと判断したんだろうと僕は思っていたのですが、それは違っていた。何でも僕が二回死んでいる間に世の中は進み続けていたみたいで、それは当然警察も同じだった。今の警察の捜査は石器時代にも比されていますが、当時の警察の捜査は非常に多彩で充実していました。いや、あの時がピークだった。だから死因や侵入の有無、何もかも全部分かる。その捜査が僕を自殺だと判断した。だから覆り様がない。
そうは言われても納得できない。自分が死ぬ理由なんてまるで無かったんですから。何か見落としや警察の盲点があるんじゃないかと僕は粘りました。警部の家の前でずっと座り込みをしてね。流石の警部も三か月目位に折れて、どうして覆らないかを説明してくれました。
というのも当時は町中のありとあらゆる事象を記録し続けていたんです。どんな場所でも何があったのか記録を照会すればすぐにわかる。嫌な話です。プライバシーなんてまるでない。だからそれは世間一般には秘されていたし、警部も僕に黙っていた。まあ、後々それが世間にばれて、科学技術の使用が規制される様になったんですけど。まあ、それはそうと、とにかくそのシステムによって、当時の状況が完全に記録されていた。犯人が僕の家に入って来たり、あるいは何か細工をしたなら分かる訳です。ところが何も無い。犯人もその犯人の細工もまるで。僕が誰かに殺されたなんてありえないと警部は言った。
僕は流石に家に帰りました。次の半年分の座り込みの準備をする為に。
「諦めなかったのですか?」
「はい、そんな科学なんていうあやふやなものよりも、僕が自殺をしないという事の方が余程確かでしたから。例えば町の中で怪しい奴がいないっていうのなら、町の外から犯人が何かしたのならどうです? その当時はまだ人口の抑制が上手くいっていませんでした。だから町の外にも沢山の人が居たんです。その中の誰かが犯人だったら、警部の言うシステムだって及ばない」
「町の外からならそのシステムに引っかからずに誰かが探偵さんを殺してしまう事も出来た訳ですね」
「単純には出来ませんがね。死んだ僕は町の中に居たのですから、死ぬ瞬間は記録に採られている。でもどうにかすれば自殺に見せかける事も出来たかもしれない。あの時は警察の捜査なんかも発展していたが、同時に犯罪の方だって発展していた」
「それを警部に言ったのですか?」
「いいえ、長年の付き合いで分かっていましたが、明らかに警部ははぐらかしていた。これは何か隠している。けれど簡単には答えそうにない。だからこそ半年分の野宿の用意をしに帰ったんですよ。これは長丁場になりそうだって。あの警部は頑固ですから」
五か月目位の長雨の時にようやく警部は参ったと言った。全てを話すと言って、僕を家の中に入れてくれた。そうして、僕の死の真相を教えてくれました。
「ここからは他言無用でお願いします」
「他の方に喋ってはいけないのですか?」
「はい、絶対にです。これは絶対に秘密にしなくてはいけない」
「秘密にするのは構いませんが、それなら私などには教えなければ良いのでは?」
「いえ、今回の連続殺人にも関わる事ですし、これは単なる勘ですが、あなたの事件にも関係している気がする。あなたは事件を追うでしょう? これは確信ですが、あなたはきっとその秘密に辿り着く。だから今話して秘密の共有をしたいのです」
そこでようやく探偵は笑顔を作ると、机の上の籠の中からレモンを取り出して大きくかぶりつき、眉を顰めて酸っぱそうな顔をして壁の外に投げると、また私を見て微笑んだ。窓の外から男性の困惑する声が聞こえた。