絵本時計
赤く染まった空が段々と圧縮されて黒く染まっていく。夜になっていく。それを見て、私は時計塔で待っている吸血鬼を見て思った。ああ、カーミラは夜の女王なのだ。昼の一幕を思い出して、私は思う。今も夕闇に陰る金色の姿は美しい。だがきっと赤の凝縮した黒色の体躯が夜の闇に馴染んで溶け出す様には敵わない。あの黒い姿こそがカーミラの本当の姿で、そしてカーミラは夜に生きているのだ。
何かの絵本で呼んだのか。私の頭に黒い威厳を纏って夜の空に立つ女王の姿が頭に浮かんでいた。それが時計塔の前に立つカーミラに重なっていた。
カーミラが私に気が付いた。
「やあ、依頼人さん」
「こんばんは、カーミラさん」
私が時計塔を見上げると、丁度時計塔の鐘が鳴った。夜を告げる鐘の音だ。まだ空の端は赤く輝いているが。たった今から夜が始まるのだ。
「まずは時計塔に上ろう。上から見た方が分かり易い」
「分かりました」
カーミラは私に背を向けると時計塔の中へと入って行った。勝手に入って良いのだろうか? 入り口は開け放された空洞で、見張りも何も居ない。私は幾分躊躇したが、カーミラが階段を上って消えそうになったので、時計塔に足を踏み入れ、カーミラを追った。
「勝手に入ってしまっていいのですか?」
「良いんだよ。誰が入ろうと自由さ」
そういえば、守衛もそんな事を言っていた。そういうものなのだろうか。
時計塔の回廊を歩きながら、四角く切り取られた穴から外を覗くと、闇に染まっていた。もうすっかりと夜の様だ。前を歩くカーミラは闇の中でも躊躇無く歩いていく。吸血鬼だからと考えればしっくりとする。吸血鬼は夜目が利くものだ。町にはぽつりぽつりと点の光が並んで幾筋もの光の線が伸びている。道に備えられた街灯の明かりだろう。それからやはり点々とそこかしこに小さな光が灯っている。良く見ていれば動いている。きっと誰かが灯りを持ってい歩いているのだ。大通りに面した場所には所々に一際輝く光の集まりがある。きっと人々が集まっているに違いない。お店でもやっているのかもしれない。家々は光を発していない。きっと密閉されて光を洩らさない様にしているのだ。密室の中で沢山の光が殺されている。出る事叶わずそこで終わる。そんな想像が湧いた。探偵の出番だろうか。
町には沢山の光が灯っているけれど、その割には少し暗い。何故かと考えると、それは建物が光を跳ね返さないからの様だ。月の光も人の光も壁に当たればそれで消える。光と光は完全に隔たって、間に闇が漂っている。町は大きな黒い海の様だ。その上にかろうじて浮かんだ灯り達が儚げに灯っている。航路を示す光と船が発する光、あの沢山集まっているのは港だろうか。
広大無辺な真空の海を私は神の様に上から眺めている。ならば私は神として理を守らねばならない。理の失われた世界に再び光を。その為には殺人を止めなければならない。そんな現実的な事を考えた瞬間、私の意識は一気に階段を歩く私の体へ引き戻された。前をカーミラが歩いている。光の無い回廊を躊躇せずに上がっていく。誰の許可も必要ない。何故なら彼女は夜の女王だ。
白いドレスが私の前に翻った。夜の女王だ。そして昼の王も居る。昼の王は必ず負けなければならない。そういう物語だったから。そういう命令だったから。負ける事は苦痛ではなく、とても楽しいものなのだ。勝った者と負けた者が二人は仲良く笑い合う。あれは一体何だったか。たしか夜の女王は薬師だった。薬を作るのが上手かった。
気が付くと一番上の階に着いていた。鐘の音が響いている。だが朝の音とどう違うのか。壁を傷付けた事で本当に音は変わったのか。それは分からなかった。カーミラが私の事を眺めている。私の疑問に答えてくれそうな、そんな雰囲気も持っていた。
「壁の傷で音が変わると聞きましたが、本当に変わっているのでしょうか?」
「ああ、もうここに来た事があるのかい。案内員が話してたんだろう? あれは本当だよ。普段暮らしているだけじゃ分からないけどね。それこそ百年単位の時間が経たないと。死んで、生まれ変わった時に聞いて初めて分かるんだ」
「死ななければ分からないのですか?」
「精密に測定すれば分かるんだろうけど、まあ、普通の人には分からないよ。だから生まれ変わって初めてこの鐘の本当の音を聞く事が出来る。この鐘の音は生を思ってるのでも死を思ってるのでもない。生まれ変わりを願って鳴っているのさ」
「そういう事なんですか」
ほんの僅かなだけでは気付かない。意味も無い。長い年月を掛けて、初めて音色の変化に気付き、ようやく意味を持つ。その微かな変化を思って、外側に居る神は一人ほくそ笑むのだろうか。
「まあ、今となっちゃ誰も気にしちゃいないよ。一度聞けば十分さ。観光名所にはなっているけどね」
そう言って、カーミラは飛び上がり、天井に開いた大穴を抜けた。見上げると、カーミラが天井の穴からこちらを覗き込み、その上で歯車ががらりがらりと回っている。
「上がって来れるかい?」
「はい」
私も飛び上がって、上の階、カーミラの横へと着地した。鐘の音が小さくなった。代わりに歯車の音が良く聞こえる。歯車は小さいのから大きいのまで様々だ。歯車は重なり合い、噛み合って回り続けているが、どれ一つとして鐘に繋がる物は無い。歯車は鐘を鳴らさず、ただ無為に回っているだけだ。重なり合う歯車の隙間から辺りを見回すと、壁の四辺にそれぞれ、丸い大穴が開いている。下にも開いている。さっき通り抜けた穴だ。もしかしてと思って上を向くと、やはり穴が開いていた。
「ちょっとこっちにおいでよ」
いつの間にか壁の大穴から外の景色を眺めていたカーミラが私を手招いた。私が近付くと、歯車の音はそのままに鐘の音がどんどんと小さくなっていく。鐘は四辺の大穴に向けて鳴っているのではないのだろう。だから外側に行く程、音が小さくなっていく。端に立てば消えてしまう。かと思いきや、外から鐘の音が聞こえてくる。鐘の音は穴を抜けて上の階を通り、そうして窓の下へと響いていく。
カーミラの横に立って穴から下界の黒海を見た。光の筋の間を点々とした光が幾つか進んでいる。
「あれをごらんよ」
カーミラが遠くを指差した。目を凝らすと、そこには灯りを付けずにうずくまる人が居た。
「こんな夜に灯りも付けずに何をやっているんだろうね」
「あの辺りは街灯がありますから、手持ちの灯りがいらないのでは?」
「夜は灯りを持たなくちゃいけない事になってるのさ。あれは怪しいねぇ」
「灯りが壊れたのでは?」
「滅多に壊れる物じゃないし。壊れたんなら近くの家で貰えば良い」
「そういうものですか?」
「こんな夜に灯りを点けないのは並べて怪しい事をしている奴って事さ」
そう言って、灯りを持たない吸血鬼は灯りを持たない私へ向かって笑った。
「探偵さんはどうでしょう?」
「さあね。見当たらないから町中で顔を晒していないのは確かだけど」
「家に居るのですか?」
「さあね。どうせあの家は秘密の出入り口ばかりだし、見張っていてもしょうがない」
「では、どうしますか?」
「とりあえずあの怪しい奴をとっ捕まえようか」
「分かりました」
吸血鬼の髪が赤く黒く染まっていく。瞳もまた同様だ。吸血鬼は白い手で黒い髪を掻き揚げて、私を見て笑った。
「夜の女王ですか?」
思わずそう聞いていた。
「ああ、そんなおとぎ話があったねぇ。何、私の事?」
「はい、あなたは夜の女王に見えます」
「まいったなぁ。そんな大した器ではないんだけど」
そう言って夜の女王はくつくつと笑った。
「話を憶えているのですか?」
「話を憶えていないのかい?」
「はい、よろしければ教えてください」
「依頼人さんが生きてた時代のと同じかどうかは分からないけど」
その国には夜の女王と昼の王が居た。夜の女王は色々な知識と大きな力を持っていたけれど、皆から嫌われていたので外に出ない様にしていた。昼の王は何の知恵も力も持っていなかったけれど、皆から好かれていたので国を治めていた。でも昼の王は何も出来ないので、夜の女王の所へ通った。夜の女王は昼の王に知識と力を与えて、昼の王はそれを使って国を治めた。皆はそれを全て昼の王のお蔭だと信じていた。昼の王はそれで得意になった。夜の女王はそれで良かった。嫌われ者の自分が皆の役に立てるだけで嬉しかった。そんな日が長く続いた。
昼の王は夜の女王の所へと通い、夜の女王は知恵を与えて、昼の王はそれで国を治め、夜の女王はそれで嬉しかった。ずっとずっとそんな日が続いた。夜の女王は昼の王がたった一人の話し相手だった。誰かと会うのも昼の王とだけだった。だから昼の王と会うのが楽しくて、毎日の夜が待ち遠しかった。昼はいつも昨日の会話を思い出すか、次の会話を思って過ごした。夜はいつも昼の王と話した。一日中が楽しかった。
でもある時、昼の王が来なくなった。何かしてしまったのだろうか。嫌われてしまったのだろうか。そんな不安で一杯になったけれど、自分から昼の王の所へ会いに行く事なんて出来なくて、夜の女王は自分のお城で不安な日々を過ごした。何日も不安になって、もう耐えられなくなった時に、城の門が叩かれた。夜の女王は喜び勇んで台座から飛び上がった。昼の王に会いたい一心で門を開けると、そこには人間達が居た。夜の女王が怖がって物陰に隠れると、人間達も恐れながら言った。
「王が病気で臥せっている。どうか力を貸していただきたい」
夜の女王は驚いて物陰から飛び出した。そうして脇目も振らずそのまま昼の王の所まで駆けて行った。夜の女王が辿り着くと、人々は恐れ慄いて物陰へと隠れた。昼の王は今にも命を消しそうな程弱り切って眠っていた。でもそれはとても簡単に治せる病気で、夜の女王には何故昼の王が死にそうになっているのか分からなかった。それ位、夜の女王と世界の知識は掛け離れていた。夜の女王が薬を与えると昼の王はたちまち元気になった。人々はそれを見て喜んだ。昼の王は嬉しさのあまり夜の女王に抱きついて喜んだ。夜の女王は感激のあまり涙を流して喜んだ。
宴が開かれて、人々の誤解は解け、夜の女王は皆に好かれる様になった。けれど夜の女王は引き留める人々の手を振り切って、城に戻ってまた固く門を閉ざした。それからも決して外には出ず、昼の王がやって来る時だけ門を開ける。そんな日がそれからずっと続いた。
「確かこんな話だったっけな」
そうだ。確かそんな話だった。でも、
「でも、周りの評判は悪かったな。確かにお話として出来は悪いけど。でも私はとても好きだったね」
また別の結末があったはずだ。あれは確か、昼の王が──
「どうしてですか?」
「夜の女王の気持ちが良く分かったから。私も昔は嫌われ者だったしさ」
そうだ。そうして言ったんだ。この夜の女王は私なの。そう誰かが言ったのだ。
「それにこの話って、丁度あの頃のあいつと私の関係にそっくりで──」
そこで言葉を切ると、気まずそうな顔で私から目を逸らした。そうして俯いたカーミラは気恥ずかしげに顔を赤らめて私へと手を伸ばした。いつの間にか黒色の羽が生えている。
「さあ、掴まって」
私がカーミラの手を取ると、カーミラの黒い羽が闇の中で大きく撓んだ。
「羽が生えているなんて羨ましいです」
「何、歩くよりちょっと早い位だよ」
そう言って、羽を解き放った。生温い風が顔に当たったと思った時には、私達は夜空に飛び出していた。星明かりと町明かり。丁度同じ位の明るさだ。まるで天地が逆になった様な気がした。そう思っていると、風が止んだ。辺りが一瞬の内に暗くなった。気が付くと、道の上に立っていた。一瞬の出来事だった。
「ね? あんまり早くはないよ」
それでも羨ましい。私がカーミラの羽を見ていると、カーミラは羽を消して、視線を私から外した。視線の先を追うと、そこには物陰でこそこそしている男が居た。男はこちらに気付いて、立ち上がってこちらを睨みつけてきた。
「誰だあんた等」
私とカーミラは一瞬、目を見合わせて、
「私は夜の女王だ」
カーミラがそう言った。だから私もそれに合わせた。
「私は昼の王です」
何となくしっくりと来る。遥か前にも同じ事を言った気がする。
男は一瞬虚を突かれた様だったけれど、奇声を発して向かってきた。その眼は涙を溜めて、恐怖に歪んでいた。