第6話 あなたも、いずれこちら側に来る
その女は、最初から場違いだった。
午後のサロン。
紅茶と菓子と、穏やかな会話。
完璧に整えられたその空間に、たった一人だけ、異質な存在が混ざっている。
「……久しぶりね、この空気」
女はそう言って、無遠慮に椅子へ腰を下ろした。
ドレスは着ている。
だが、着こなしがどこか崩れている。
姿勢も、仕草も、すべてが“ほんの少しだけ”逸れている。
それだけで、分かる。
この女は。
ここに属していない。
「どなたかしら」
誰かが小さく呟く。
無理もない。
この学園に、こんな女はいない。
――本来なら。
「マルグリット・ヴァレンシュタイン」
女は自分で名乗った。
軽く、あくびでもするような調子で。
「……ああ」
私は、ようやく思い出す。
その名。
そして、その意味。
――元・公爵令嬢。
――元・婚約者。
――そして。
“断罪された女”。
周囲の空気が、一瞬で凍る。
誰もが、その言葉を理解している。
だが、口には出さない。
出せない。
それが、この世界の礼儀だから。
「あなたが……」
誰かが、かすれた声で言った。
「生きていたのね」
失礼な言葉。
だが、誰も咎めない。
マルグリットは、くすりと笑った。
「ええ、しぶといの」
軽い口調。
まるで、他人事のように。
「まあ、“死んだことにされた”方が都合が良かったみたいだけど」
空気が、さらに冷える。
誰も笑わない。
笑えない。
だが。
マルグリットだけは、気にしていなかった。
むしろ、楽しんでいるようにさえ見える。
「で?」
彼女は視線を巡らせる。
そして。
止まった。
――私に。
「へえ」
その目が、細められる。
観察するように。
値踏みするように。
「あなたが、今の“それ”?」
“それ”。
その言葉に、わずかに空気がざわつく。
だが、私は動じない。
「ごきげんよう」
私は立ち上がり、完璧な礼を取った。
「リリアーナ・フォン・クラウゼンと申します」
形式通りに。
何一つ乱さずに。
「そう」
マルグリットは、興味深そうに私を見ていた。
「綺麗ね」
唐突な言葉。
だが、その声音には、どこか別の意味が含まれている。
「ありがとうございます」
私は微笑む。
完璧に。
「でも」
彼女は続けた。
「つまらない顔してる」
沈黙。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
空気が止まる。
「……何かしら」
私は穏やかに返す。
声は揺れていない。
完璧だ。
「そのままの意味よ」
マルグリットは肩をすくめる。
「作り物みたいな顔。息が詰まりそう」
周囲の令嬢たちが息を呑む。
無礼。
明確な無礼。
だが。
私は、笑った。
「そう見えるのなら、そうなのでしょうね」
否定はしない。
意味がないから。
「へえ」
彼女は少しだけ楽しそうに目を細めた。
「怒らないの?」
「なぜ?」
「馬鹿にされたのに」
「事実かどうかはともかく」
私は静かに言う。
「感情を表に出す必要はないわ」
「……ああ」
マルグリットは、何かに納得したように頷いた。
「なるほどね」
そして。
ほんの少しだけ、笑みを深くする。
「そうやって、作られたのか」
その言葉に。
私は、ほんのわずかに目を細めた。
「何のことかしら」
「別に」
彼女はあっさりと流す。
「独り言」
嘘だ。
明らかに、意図している。
だが、それを追及する必要はない。
――まだ。
「それで」
マルグリットは、紅茶に手を伸ばした。
勝手に。
誰の許可も得ずに。
「最近はどうなの?」
「どう、とは?」
「うまくやってる?」
曖昧な問い。
だが、意図は分かる。
「ええ」
私は即答する。
「問題はありません」
「そう」
彼女は一口、紅茶を飲んだ。
そして、顔をしかめる。
「まずいわね」
誰かが小さく息を呑む。
だが、誰も何も言わない。
「まあいいか」
カップを置く。
そして。
もう一度、私を見る。
今度は、先ほどよりもはっきりと。
「楽しい?」
その問いは。
あまりにも唐突だった。
「……何が?」
「全部」
短い答え。
だが、それで十分だった。
私は、ほんの一瞬だけ考える。
楽しいか。
この生活が。
この役割が。
この完璧さが。
「必要なことよ」
私はそう答えた。
それ以外の言葉は、出てこなかった。
「……ふふ」
マルグリットは、小さく笑った。
どこか、諦めたような。
それでいて、面白がるような。
「やっぱり、まだなのね」
「何が?」
「自覚」
その一言で。
空気が、わずかに変わる。
「あなた、自分が何をしてるか分かってないでしょう」
「……分かっているわ」
「本当に?」
軽く首を傾げる。
挑発するように。
だが、私は揺れない。
「ええ」
即答する。
「私は、必要な役割を果たしているだけ」
「役割、ね」
マルグリットは、その言葉を繰り返す。
そして。
「じゃあ聞くけど」
少しだけ身を乗り出した。
「その役割、誰が決めたの?」
――。
一瞬。
言葉が、止まる。
だが、それは本当に一瞬だけ。
「当然、環境が」
私は答える。
「貴族社会の中で、求められる形がある」
「へえ」
彼女は、じっと私を見た。
その視線は、鋭い。
まるで。
すべてを見透かしているかのように。
「じゃあさ」
静かに。
はっきりと。
「その“形”が、最初から用意されてたって考えたことは?」
沈黙。
その言葉は。
どこかで、聞いた気がする。
――“そうなるように用意されてた”。
カインの言葉。
そして。
母の言葉。
――選ばれる。
私は、ゆっくりと目を細めた。
「……興味深い話ね」
それだけを言う。
それ以上は、踏み込まない。
踏み込めない。
「でしょう?」
マルグリットは笑った。
「でもね」
そして。
最後に。
「あなたも、いずれ分かるわ」
静かに言った。
「こちら側に来れば」
――こちら側。
その言葉の意味を。
私は、まだ完全には理解していない。
けれど。
直感だけはあった。
それは。
決して、戻れない場所だと。
「……忠告、ありがとう」
私はそう言った。
形式的に。
完璧に。
だが。
胸の奥に、何かが残る。
違和感。
不快感。
あるいは――
予感。
「どういたしまして」
マルグリットは軽く手を振る。
まるで、これで終わりだと言うように。
実際。
それ以上、何も起こらなかった。
会話は続かず。
空気は戻り。
すべてが、元通りになる。
――そのはずだった。
「……面白い女だろ?」
隣で、カインが囁く。
いつの間にいたのか。
私は気づいていなかった。
「ええ」
私は短く答える。
「危険でもある」
「それがいいんじゃない」
彼は笑う。
本当に楽しそうに。
「で?」
続けて言う。
「どうする?」
「何を」
「決まってるだろ」
カインは肩をすくめる。
「踏み込むか、引くか」
単純な選択。
だが。
その先は、単純ではない。
私は、少しだけ考える。
そして。
「……まだ、いいわ」
そう答えた。
「賢明だね」
「当然よ」
私は視線を前に戻す。
整えられた空間。
整えられた関係。
完璧な世界。
――そのはずなのに。
「……でも」
小さく呟く。
「遅いわね」
「何が?」
カインが聞く。
私は、答えない。
答えられない。
ただ一つ、分かることがある。
それは。
何かが、近づいているということ。
確実に。
ゆっくりと。
そして。
逃げ場は――
最初から、用意されていない。
第6話まで読んでいただきありがとうございます。
ここでついに、「過去の悪役令嬢」が登場しました。
主人公とは違う形で、この世界の“先”を知っている存在です。
そして少しずつ、「これは個人の問題ではなく、構造の話だ」という空気が見えてきたと思います。
次の3話では、いよいよ“断罪イベント”に向けて空気が変わっていきます。
違和感がはっきりとした形になり始めます。
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