第2話 正しさは、いつも遅れてやってくる
中庭のざわめきは、すぐには消えなかった。
当たり前だ。
たった一人の令嬢が、ほんの数分で“終わった”のだから。
噂は風より早く広がる。
そして、この学園の生徒たちは、その風を何よりも愛している。
「……ひどい」
ぽつりと、誰かが呟いた。
けれどそれが、誰に向けられた言葉なのかは分からない。
ミレイユに対してか。
それとも――
「リリアーナ様」
再び、その声がした。
振り返らなくても分かる。
けれど今度は、あえて視線を向けた。
セラフィナ・ルミエールは、先ほどと変わらぬ穏やかな表情でそこに立っていた。
ただ、その瞳の奥には、わずかな揺らぎがある。
「少し、お話してもよろしいでしょうか」
丁寧な言葉。
だが、それはお願いではない。
逃げるつもりは、最初からなかった。
「ええ、構わないわ」
私は頷き、周囲に軽く視線を送る。
それだけで、令嬢たちは察したように距離を取った。
この空気の読み方は、嫌いではない。
「……あちらへ」
セラフィナが示したのは、中庭の端。人目はあるが、声は届きにくい位置だ。
絶妙な場所。
やはり、ただの善人ではない。
私は静かに歩き出し、彼女の隣に並んだ。
数歩の沈黙。
やがて、セラフィナが口を開く。
「先ほどの件ですが」
「ええ」
「少し、やり過ぎではありませんでしたか」
予想通りの言葉。
だが、その言い方は柔らかい。
責めるのではなく、確かめるような響き。
私はわずかに笑った。
「どこが?」
「……あの方は、確かに規則を破りました。ですが、それだけであのように追い詰める必要は――」
「必要はない?」
私は言葉を重ねる。
「では、必要がなければ、規則は守らなくてもいいのかしら」
「そういう意味ではありません」
「同じよ」
きっぱりと言い切る。
セラフィナの瞳が、わずかに揺れた。
「規則というのはね、“守らなかった場合どうなるか”まで含めて成立するものなの」
私は指先で空気をなぞるように、小さく動かした。
「違反しても何も起こらないなら、それはもう規則ではないわ」
「ですが――」
「あなたは優しいわね」
また同じ言葉を使う。
今度は、少しだけ意味を変えて。
「けれど、優しさは責任を代替しない」
セラフィナは黙った。
沈黙が落ちる。
けれどその沈黙は、先ほどのような重さではない。
彼女は、考えている。
逃げずに。
「……では、リリアーナ様は」
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「罰を与えることが、正しいとお考えなのですか?」
面白い問いだ。
私は少しだけ目を細めた。
「いいえ」
即答する。
セラフィナが、はっきりと驚いた顔をした。
「正しいかどうかなんて、どうでもいいのよ」
「……どうでも?」
「ええ」
私は一歩だけ前に出て、花壇に咲く薔薇を見下ろした。
美しく整えられた花。
棘を持ちながら、それを隠すことすら許されない存在。
「大事なのは、“そうするしかない”ということ」
ゆっくりと続ける。
「誰かがやらなければ、秩序は崩れる。なら、その役は誰かが引き受けるしかないでしょう?」
「それが……リリアーナ様だと?」
「そう見えるかしら?」
振り返って、軽く首を傾げる。
セラフィナは、迷った。
ほんの一瞬だが、はっきりと分かる。
その迷いが、少しだけ面白い。
「……いいえ」
彼女は首を振った。
「あなたは、自らその役を選んでいるように見えます」
――ああ。
なるほど。
思わず、息が漏れた。
この少女は、やはり。
「鋭いのね」
くすりと笑う。
だが、その言葉の裏にあるものには、触れない。
まだ、早い。
「でも、それは違うわ」
静かに否定する。
「選んでいるように見えるだけよ」
セラフィナは、じっとこちらを見ている。
その視線が、少しだけ――
鬱陶しい。
「……あなたは」
彼女が、ゆっくりと口を開く。
「苦しくないのですか?」
その言葉は、あまりにも真っ直ぐだった。
一瞬、呼吸が止まる。
けれど、それを悟らせるほど、私は愚かではない。
「何が?」
平静を装って問い返す。
「人を追い詰めることが」
「必要なことよ」
「それでも」
彼女は一歩、近づいた。
「それでも、心は痛むはずです」
――痛む。
その言葉が、どこか遠くで反響する。
私は、ほんのわずかだけ目を伏せた。
そして。
「……そうね」
認める。
「痛まないわけではないわ」
セラフィナの表情が、少しだけ緩む。
安堵したのだろう。
馬鹿らしい。
「だからこそ」
私は続ける。
「それを見せてはいけないのよ」
彼女の表情が、固まった。
「痛みを見せた瞬間、それは弱さになる。弱さは、利用される」
静かに。
はっきりと。
「この世界ではね」
セラフィナは、何も言えなかった。
きっと、理解できないのだろう。
それでいい。
理解される必要はない。
「……あなたは」
彼女は、ようやく絞り出すように言った。
「間違っていると思います」
ああ。
それでいい。
私は、ゆっくりと微笑んだ。
「ええ」
軽く頷く。
「そうでしょうね」
否定はしない。
できないのではなく、する必要がない。
「でも」
私は踵を返す。
「それで回っているのなら、それが“正解”よ」
背を向ける。
もう、話は終わりだ。
「リリアーナ様!」
呼び止める声。
けれど、振り返らない。
「あなたは……それでいいのですか!」
いいのですか、か。
私は、ほんの一瞬だけ足を止めた。
答えは、簡単だ。
とても簡単で。
そして、どうしようもなく――
「ええ」
振り返らずに、そう答えた。
「これが、私だから」
それ以上は言わない。
言う必要もない。
私はそのまま歩き出す。
中庭の喧騒は、すでに元に戻りつつあった。
誰かが笑い、誰かが囁き、誰かが忘れていく。
すべてが、いつも通り。
――いつも通りのはずなのに。
「……妙ね」
私は小さく呟く。
胸の奥に残る、わずかな違和感。
それは、先ほどよりも少しだけ、はっきりしていた。
まるで。
何かが、ほんの少しだけ――
遅れているような。
そんな感覚。
「……くだらない」
首を振る。
こんなもの、気にする必要はない。
私は、正しく振る舞っている。
この世界で求められる通りに。
完璧に。
――だから。
そのはずなのに。
どうして、あの少女の言葉が、こんなにも耳に残るのだろう。
“苦しくないのですか?”
私は、ゆっくりと目を閉じた。
そして、すぐに開く。
「……本当に」
小さく息を吐く。
「遅れているのは、どちらかしらね」
その答えは、まだ分からない。
けれど確かに、何かがずれている。
そしてそれは、きっと――
もうすぐ、形になる。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
主人公が「正しくない側」にいることに、少しでも違和感や興味を感じていただけたなら、この物語は合っています。
次話では、王太子が登場し、物語の“歪み”がさらに明確になります。
そして少しずつ、「ただの学園ものではない」と分かってくるはずです。
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