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Waltz In BLACK  作者: 響子
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『影』 その2

 鳥の声と共に目覚め、昼間は家の周りの森を歩き回る。夜にはランプの下で本を読んで、早めに眠った。一日じゅう、誰とも口を利かない日もあるが、毎日がとても新鮮だった。

 そんな、ある日のこと。いつものように散歩をしていた彼は、ガサガサと動くものに目を留める。近づいてみると、粗末な罠に、一匹の狐が脚を挟まれていた。

 どうしたんだろう……? 村には、猟師などいないはず。多くの家で鶏や豚を飼っていて、獣を獲る必要などないのだ。それにこれは、素人の細工だ。きっと他の村か、あるいは都会の者が、何か獣が獲れるのではないかと考えて、仕掛けて行ったのだろう。そこへ通りかかった運の悪い狐が、生まれてこの方、罠など見たこともないものなので、簡単に引っかかってしまったと考えられる。

「今、外してあげるからね」

 落ち着かせようと考えて手を伸ばし、撫でてやろうとしたが、その狐は牙を剥き、彼の手を噛んだ。

「痛っ……」

 驚いて一度は引っ込めたけれど、相手は獣だ。腹を立てる方が間違っている。服の袖で手を庇い、わざと噛みつかせたままで、罠を外してやった。傷めた脚を縮め、歩き方も危なっかしいのを見て、素早く抱きかかえ、家に連れていく。狐はじたばたと暴れたが、何日もあの場にいて弱っていたらしく、そのうち大人しくなった。

「良い子だ」

 手当と言っても、消毒して薬を塗る程度しかできない。だが幸いに、骨には異常ないようだ。他の場所にも、怪我は見当たらない。

「そういえば僕は、医者の卵だったんだ。君は最初の患者だね。……最後かも知れないが」

 狐には意味が分からないだろうが、楽しそうに言って笑う。食べるものといったら、脱脂粉乳と乾パンしかない。試しにふやかして与えてみると、狐は少しだけ飲みこんだ。

「うん。何でも食べるのは良いことだ。早く元気におなり」

 数日で傷は塞がり……、やがて、狐は姿を消した。


 朝の散歩から帰ってくると、戸口の前に、実の付いた小枝が置いてある。

「何だろう?」

 不思議に思ったが、折れた枝が風で飛んできたのかもしれない。拾い上げてガラス瓶に挿し、卓の上に置いた。食べられるものかどうか調べる間、飾って置こうと思ったのだが、熟した甘い香りに誘われて、結局は口に入れる。

「不用意だなあ、僕も。……だが、まあ良いか」

 山の木の実で、命を落とすこともあるまい。それに、万一のことがあったとしても……。寂しい話だが、迷惑をかける者も、大していないのだ。

 次の日には、どんぐりが置いてあった。これは、このままでは食べられそうにない。それでも、もしかしたら狐の恩返しかも知れないと思えば、楽しい。

 そして、その翌朝。早く起きて待ち伏せしていた彼の目に、一匹の狐が映る。

「やあ、お早う」

 急に声をかけられ、驚いた狐は飛び上がり、咥えて来たものを落した。今日はどうやら、野ネズミのようだ。あまり有難くない。

「ごめん、ごめん。悪かったね。だけど、お礼を言いたくて待っていたんだよ。……おいで」

 呼び寄せて、傷跡を確かめてみる。痛々しい跡はあったものの、傷自体は治っていた。

「うん。化膿もない。大丈夫だ」

 首の横を撫でてやれば、大人しくしている。可愛いものだと思う。

「気持ちは嬉しいけど、君と僕では食べられるものが違うんだ。君が元気になって、ときどきでも顔を見せてくれれば、それでいいよ」

 言っていることが分かるのか、狐は神妙に座って、尻尾を揺らしていた。もう一度撫でてやろうと手を伸ばしたとき、急に身体を固くして、後ずさる。

「どうしたんだい? ああ、これか」

 最初に噛みつかれた傷跡が、手のひらにうっすらと残っている。狐は申し訳なさそうに、そこをぺろりと舐めた。

「君の脚ほど、大きな傷じゃないし。きっとそのうち、消えてしまうさ。何でもないよ。……そうだ、これが消えたかどうか、毎日様子を見に来ると良い。わかったね」

 狐はぱさぱさと尻尾を振り……、そして、去っていく。だが言いつけ通り、それから毎朝、姿を見せるようになった。

 互いに、何をする訳でもない。第一、会話も成立しない。彼が一方的に話しかけ、狐は黙って聞いていた。触れても、もう逃げはしない。僅かな時を過ごし、そして、去っていく。山の生き物と親しくなれたような気がして、彼は嬉しかった、のだが……。


 あるとき、散歩の足を延ばして、少し遠くまで出かけてみた。まだ日も高いし、方向も見失ってはいない。知らぬ場所に出てしまったが、何の問題もなかった。それでも、数匹の獣が走ってくる気配に、彼は身を隠す。こちらに害意はなくても、気づかれぬに越したことはない。人間の姿に驚いて混乱したり、あるいは防御のために、襲いかかってくる可能性もあるだろう。

 やってきたのは、狐だった。追いかけっこでもしているのかと微笑ましく思ったくらいだが、どうも、一匹を他のものが排斥しているらしい。近寄れば唸り、威嚇のために飛びかかろうとする。逃げればまた、もっと向こうへ行けとばかりに追いかける。どちらにも怪我はないようだが、縄張り争いだろうか?気の毒なものだとも思いつつ、ふと、追われているものの脚に気づいた。遠目でも見える傷跡は……、いつもの狐だった。そのうちに、しょんぼりと尻尾を巻いて、逃げていく。

しかし、翌朝も狐は彼に会いに来て、どこにも変わった様子はなかった。自然の営みに、人間が首を突っ込むべきではない。可愛い動物が遊びは来ては欲しいが、面倒事には関わりたくない……、ということを、都合の良い言い訳にすり替えて、男も、何も言わなかった。


「今日は里に出かけなくては」

 出かける支度をしながら、彼は狐に話しかける。

「そろそろ財布も心細くなってきたのでね、為替を頼んでおいた。郵便局に行って、帰りに何か買ってこよう。油揚げでいいかい?」

 山の狐には意味不明の言葉だが、彼が楽しそうなので、狐も尻尾を振った。だが、この日の出来ごとが、一人と一匹の生活を変えてしまう契機となる。

「通信欄に、『ジヨウキヨウサレタシ。レンラクヲコウ』って書いてありますよ」

 上京されたし。連絡を乞う、だろう。

「葉書を一枚、貰えるかな」

 今しばらくはこの地を離れる気はない旨を簡単に書きしたためて投函し、すぐに忘れてしまう。いくばくかの現金を得たので、日持ちのする食糧などを買い求め、彼は家に帰った。大人しく待っていた狐に言葉をかけ、また、元のような暮らしに戻る。

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