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Waltz In BLACK  作者: 響子
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『影』 その1

『面』から少し時間が戻ります。

「おや?」

 その呟きは明らかに、聴診器の先の音を聞いたときではなく、受診者の名を書いた帳面の方を向いたときになされた。

「……ふうむ」

 カルテには、『肺浸潤有、要精検』と書き込む。医者はわざとらしく咳払いをした後、レントゲン写真を眺めてみせる。

「肺に、影があるようだね。ここでは診断は無理だ。大きな病院……と言っても、今はなかなか難しいが……。取り敢えずは、転地をして養生することを勧める。そこで何か、御国のために君ができることをしなさい」

 たとえ不真面目なうちに繰り上げ卒業となった身でも、医学部に籍を置いていたのだ。自分の身体のことくらいは知っている。身内や周囲に肺病はいないし、父親が軍需にかかわる商売をしている関係か、このご時世というのに、欧米の輸入食品すら手に入る程で、栄養が足りない訳ではない。恐らくは父親の差し金で、どうしても徴兵を逃れられないのなら、いったんは応じさせ、その後手を回したのだろう。まだ国内にいるうちに、自宅に戻れるように。有難いことだ、と、皮肉交じりに思ったりもする。

「……わかりました。ありがとうございます」

「君は日本の将来を担う人間だ。命は大切に、」

 顔色の悪い医者は左右を見回して、声をひそめる。そのときに眼鏡が光ったことが、何故か心に残った。

「この戦争は負ける。だから……」


 乗り込むはずだった軍艦を港で見送り、彼は自宅に戻る。東京の、山の手の、大きな屋敷だ。そこには、成り上がり者の強欲な父親と、華族出身の気位ばかり高い母親が、たくさんの召使と共に暮らしていた。

「病気で返されたって? わははははっ」

 父親は豪快ぶって笑った。似合わないなと思い、彼は目を逸らす。

「肺病なら、転地療養だな。いっそ、皆で行こうか。疎開にもなって良かろう」

「冗談ではありませんわ」

 生まれてこの方、旧市内から外に出たことのない母は、顔色を変えて首を振る。

「わしだって、商売あがったりじゃ。だが一応、世間体もあるしな。しばらくは田舎で、不自由だろうが一人で暮らすことだ」

 父親の言葉に頷き、彼は荷物をまとめる。大学の友人に薦められ、とある山奥にしばらく引きこもることにしたのだが……。


 何しろ、金に困ったことなどないので、将来の不安も何もないのである。当座の蓄えがない訳ではないし、深く考えもせずに、村の外れ……、ほぼ山の中の一軒家に落ち着いた。

「先生、大丈夫かね」

「何が?」

「もう少し、里に住みゃいいのに」

 案内をしてくれた村人も、怪訝そうだ。なお、この場合の『先生』に、深い意味はない。東京の学校を出た偉い人らしいので、そう呼んでいるだけのことだ。

「熊か狼でも出るのかい」

「いやあ、そりゃねえと思うけんど」

 この村の中でだけは、違う時が流れているようだった。その昔は、藩の隠し田だったとも聞く。畑の収穫も豊富で、人々の心根も穏やかだ。

 少なくとも、外から来た者にはそう見える。時折、都会の者が遠くから買い出しに来るらしいが、何しろ道も悪いため、数は多くない。嘘か本当か、戸籍もいい加減なために、村では兵隊にとられた者もないのだという。

「ここは、良いところだね」

「……そうかねえ? 外に出たことがねえからなあ」

 首を傾げる村人に、彼は笑って見せる。

「のどかで、良いところだよ。そうそう、頼みがある。ひと月も僕が里に下りなかったら、様子を見に来てくれるかい」

「縁起でもねえ。食い物は、どうなさるんで」

「軍に貰った缶詰や、乾パンもあるし。水は豊富だから、何とかなるだろう」

「米や野菜も食わにゃあ」

「食べたくなったら、下りていくよ。たまには東京にも出ないと、生活出来ないしね」

「はあ」

 村人たちは呆れ気味だったが、きっと、学のある人は違うんだろうと考え直す。所詮は、他所者(よそもん)だ。どうせ、疎開みたいなもんだろう。そのうちここを離れる、ただの通りすがりだ……。


 彼がいない間に、東京は大きな空襲に遭った。下町を中心とした攻撃ではあったが、彼の実家の、母屋の一部にも焼夷弾が直撃したのだという。

「旦那様と、奥様が……」

 知らせは聞いたが、彼は動かなかった。どこか、さっぱりしたような気もする。

この地を勧めた友人は信頼に足り、東京に残っていた。育ちの良い者の図々しさで、全てを押し付けてしまう。『焼け残った家財道具などは使用人にくれてやってもいいし、君の生活のために売り食いしてくれてもかまわない。君を信じている』……そんな手紙を見た友人は、歯噛みをした。それでも、悪心などはない真面目な性格なので、結局、面倒事はこの友人が背負い込むことになる。

 やがて戦争も終わったが、そのまま、彼は戻らない。自然に囲まれた山の中で、気ままに暮らし続けていた。大きな屋敷は進駐軍に接収されることになったが、例によって友人に任せきりで、『うまくやってくれ』と言うばかり。

 豊かなアメリカにも、決して存在せず、どこかしら憧れの対象となっているものがある。たとえ欧州の真似といえども、日本にも爵位はあった。母方の血筋は、堂上貴族だったという。上手く使えば、交渉の道具になっただろう。英語も話せたし、いくらでも仕事はあったはずだが……。面倒になった彼は、田舎に住み続けることに決めたのだ。

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