『面』 その3
二人は手をつないで歩き、そのまま集落を抜け、やがて山道に入った。しばらく歩くと、木々が開け、短い草の生えた野原になる。
「尻尾が出たままだぞ」
「あ……」
父親に指摘され、子供は頭をかいた。作りものの尻尾を外した、のだろうか? 見えなくはなったが、さて、どこへ上手に隠したものか。懐に入れた訳でも、手に持っている訳でもない。不思議な手妻のようだ。
「見つかったら、母さんに叱られるだろう」
「うん、そうだね。ひとさわがせないたずらをしたって、しかられる。……おとうさん、いいつける?」
「そうしたら、どうしてこういうことになったかって説明しなきゃならなくて……、私も叱られるじゃないか。黙っていよう。男と男の、約束だぞ」
「うん。ふふっ」
子供は楽しそうに笑い、夜空を見上げた。
「やくそくだよ、おとうさん」
一人前に扱って貰ったのが、嬉しいのだ。今度こそ、年相応の子供らしく、元気で可愛らしい声だった。父親もつられて、顔を上げる。
「大きな月だな」
「まんまるだ」
「おかえりなさい」
父子は少し驚いて、そちらを向く。確かにもうすぐ、家に着くはずではあったが……。そこには月の光を全身に浴びて、一人の女が立っていた。
「おかあさん、ただいま!」
子供が飛びついていき、その女はもう一度、同じ言葉を口にする。
「おかえりなさい」
「……一人で出ては、危ないじゃないか。家の中で、待っておいで」
男が注意する。ここは、里よりはもう山に近い。夜には何か、獣でも出るのかもしれない。
「ごめんなさい。でも、早く帰ってこないかしらと思って……」
「そうか。心配させて、悪かったね」
女は首を振り、俯いた。
「さあ、家に入ろう」
男が肩に手を置くと、ふっと頬を染める。あんな大きな子供がいても、まるで初心な娘だ。
「おかあさん、みて! おとうさんにかってもらったんだよ!」
先に立つ子供が、額の面を指さして見せた。
「まあ。可愛らしい子狐さんだこと、ほほほ」
手の甲を口元に当て、どこか古風に女は笑った。男は優しい視線で、それを見つめる。どこにでもある、仲の良い一家の暮らしにしか見えない。
野原の隅に、小さな家がある。そこが、三人の住まいらしい。
「お出かけして、疲れたのでは。梨も冷えているけれど、今夜は早めに寝むでしょうから、明日のお八つに、」
「たべる!」
「子供に食べ物の話をしてしまってから、待ったは効かないだろう……」
男が苦笑いし、子供に諭す。
「だが、少しだけだぞ。三人で、一つだけにしよう」
「うん」
「剥いてくるわ。少し待っていてね」
そう言って女が台所に向かった後、子供が彼の袖を引いた。
「おかあさん、きいてたかなあ」
「どうだろうな。確かめてみたいが、藪蛇で叱られるのも嫌だな」
「おこると、こわいもんね」
「うむ。怖い怖い」
そこへ、皿を持った女が戻ってくる。
「まあ、何のお話? 怖いって、何が?」
「ないしょ。ねえ、おとうさん」
「うむ」
「……もう、酷いわ」
やがて子供は、梨の一切れを手に持ったまま、眠ってしまった。男がそれを取り上げて、自分の口に入れる。女は子供の口元を拭いてやり、二人は顔を見合わせて、ふっと笑った。
「食べきれないのに、欲しがるんだからな」
「頑是ない、子供ですもの。あの……、ごめんなさい、さっき」
「うん? 一人で、外に出たこと?」
女は首を振る。
「私たちの、内緒の約束のことかい?」
それには、小さく頷く。男が逆に、頭を下げた。
「いや。ちゃんと君に話すべきだった」
「貴方が良いと考えたことです。私が口を挟む筋では……」
「君はあの子の母親だ。私たちは家族なのだから、当然のことだよ」
そして男は、今夜の出来事を話して聞かせる。話が進むにつれ、女は目を丸くし、やがて先ほどと同じように、くすくすと笑った。
「誰が悪いのかと言えば、私が一番悪い。できれば、あの子を叱らないでやって欲しい」
「ええ。貴方に狐のお面を買ってもらって、あんなに喜んでいるのですもの。人が大勢いる、お祭りに出かけるなんて、心配だったけれど」
「何故だい。心配することなど、何もないよ」
「でも……。私のせいで、あの子も……、貴方まで、あまり外に出られなくて……」
悲しそうに目を伏せて、女が呟いた。男は手を伸ばし、その唇に指を当てて黙らせる。
「私は、私の意志でここにいる。もしも君が都会に住みたいと言うのなら、いくらでも連れて行くが?」
「……まさか」
「そう。それだけのことだ。だが百年も前には、麻布にも狸が出たというよ。父の屋敷がまだあるのなら、もう誰も住まないあばら家になっているだろうし、ここと大差ないのかもしれないな」
「まあ。ほほほほほ……」
(第一話『面』 了)