第五話:静かなる魔女と古の黄金竜
その日、静木カエデの千年続くかと思われた、穏やかな日常に微かな、しかし、無視できない亀裂が入った。
原因は、妹のコノハが作り置きしてくれた頑丈な瓶詰めの『桃のコンポート』だった。どうしても蓋が開かなかったカエデは、いつものように部屋の隅に飾ってあった愛用の刀を手に取り、てこの原理でぐいっとこじ開けたのだ。
パキン、という乾いた嫌な音がした。
見ると、刀の刃の先が米粒ほど小さく欠けていた。
「あらあら……」
カエデは、特に気にする様子もなく、コンポートの桃を味わっていた。
しかし、その光景をたまたま部屋に入ってきた母のコズエが見逃すはずがなかった。
「カエデ」
母の声は穏やかだったが、その瞳は全く笑っていなかった。
「その刀、またお菓子の缶を開けるのに使いましたね?」
「……瓶の蓋が少し硬かったものですから」
コズエは、はぁ……と深いため息をついた。
彼女は伝説の白金級冒険者。道具を、特に、刃物をその本来の目的以外で使うことを何よりも嫌う。
「その刀はもう限界のようですわね。新しいのを買いなさい」
「面倒ですわ。まだ使えますもの」
コズエはきっぱりと言った。
「いいえ、あなたのような究極の面倒くさがり屋にはそこらの刀は似合いません。一生、手入れのいらない刃こぼれもせず、錆びることも、折れることもない本物の一振りが必要ですわね」
コズエは、一枚の紹介状をカエデに手渡した。
「輝石のドワーフ王国へ行きなさい。わたくしの旧知の最高の職人を紹介します。彼なら、あなたに相応しい究極の一振りを打ってくれるでしょう」
「ええ……面倒ですわ……」
「一度しか言いませんわよ?」
「……はい」
こうして、カエデは自らの怠惰な生活を守るための新しい道具を手に入れるため、重すぎる腰を上げる羽目になった。
輝石のドワーフ王国。その心臓部『天頂の鍛冶場』。
カエデはテレポートでドワーフの王の目の前に直接現れた。
「おお、コズエのもう一人の方の娘か!今度は何の用じゃ!」
「ごきげんよう、王様。母の紹介で参りました。わたくしに最高の刀を打っていただきたいのです」
カエデは母から言われた通り「折れず、錆びず、刃こぼれしない、一生手入れ不要の究極の刀」という無茶な注文を穏やかな笑顔で告げた。
ドワーフの王は、その無謀な要求に逆に職人としての魂を燃え上がらせた。
「面白い!やってやろうじゃないか!だが、小娘!それほどの刀を打つには、それ相応の伝説級の素材が必要じゃぞ!」
王が言うには、その刀を打つには『古竜の心臓石』という、幻の鉱石が不可欠だという。
それは、古のドラゴンが数百年の眠りにつく場所のその中心核でのみ、竜の魔力を吸って結晶化するという伝説の素材だった。
「その鉱石はこの国の北、天を突く『龍の顎』山脈の最高峰に眠ると言われておる。じゃが、そこには気難しい山の主がおるやもしれん。覚悟して行くことじゃな」
「はぁ……。やはり、面倒なことになりましたわね」
カエデは、ため息をつくとドワーフの王から受け取った地図の一番高い山の頂上へ一瞬でテレポートした。
『龍の顎』山脈の最高峰は、雲よりも高く万年雪に覆われた静寂の世界だった。
カエデはすぐに洞窟を見つけた。その奥は、王が言った通り美しい結晶『古竜の心臓石』が星空のようにキラキラと輝いていた。
「まぁ、綺麗ですわね。これを少し、いただけばいいのね」
彼女は重力魔法で一番大きくて、質の良さそうな結晶を壁から、ぐぐぐと引き剥がそうとしたその時だった。
『我が寝床でコソコソと、何をしておる小さき者よ』
洞窟の奥の闇から、地響きのような威厳に満ちた声が響き渡った。そして、闇の中から巨大で眩い黄金の鱗を持つ、一頭のドラゴンがゆっくりと姿を現した。
その瞳は、溶かした黄金のように輝きその全身からは、神々しいまでの魔力が溢れ出ている。
何百年もの眠りを邪魔されたのだ。その瞳には明確な不快と怒りの色が宿っていた。
(……ああ、やっぱりいましたか。面倒な主が)
カエデは、心の中で深いため息をついた。
戦う?目の前の古竜は、圧倒的な存在感を放っている。本気で戦えば勝てるだろうが、山脈ごと消し飛ばすことになりかねない。それは、あまりにも面倒くさい。
カエデは、穏やかな完璧な微笑みを浮かべた。
「あら、ごきげんよう竜神様。わたくし、あなたの寝床を荒らすつもりは毛頭ありませんのよ。ただ、このキラキラした石を、ほんの少しだけ分けていただきたいだけですの」
『その石はワシの安眠を守る揺りかごの一部。分け与える理由はない。速やかに立ち去れ』
「まあ、そんなつれないことをおっしゃらずに」
カエデは、すっと懐から一つの美しい漆塗りの小箱を取り出した。
「わたくし、遠い遠い別の世界から取り寄せた珍しいお菓子を持っておりますの。あなた様のような偉大なる存在にこそふさわしい一品ですわ。一口、いかがかしら?」
黄金竜は、その人間を訝しげに見た。菓子?そんなもの食したことはない。
カエデが小箱を開けると、中には寸分の狂いもなく切り分けられた艶やかな小豆色の美しい羊羹が、静かに鎮座していた。日本の老舗が作り上げた最高級の逸品である。
ふわりと、竜が今まで嗅いだことのない上品で複雑でそしてどこまでも甘い香りが漂った。
『……なんだその黒くて光る塊は……?』
「これは『煉獄の黒曜石』を七日七晩月の涙で煮詰めて作った幻の……」
カエデはドラゴンにも分かりやすいように、適当な説明を付け加えた。
黄金竜は、その小さな塊を巨大な爪の先でおそるおそるつまみ上げ口に運んだ。
そして、その瞳が驚愕に大きく見開かれた。
……なんだこの味は!?
岩や鉱石の単調な味しか知らなかった彼の舌。その上に滑らかに広がる、深く複雑でそしてどこまでも上品な甘さの奔流。
数千年という、彼の長い長い退屈な生涯の中で初めて体験する衝撃的な『美味』だった。
『う、美味い……!なんという美味さだ……!』
竜は生まれて初めて食の喜びに打ち震えていた。
カエデはその様子を見て微笑んだ。
「お気に召しましたか?このお菓子とあの石ころ。交換していただけませんこと?」
「小娘。名前は何という?」
「わたくしは、静木カエデ。人はわたくしを静かなる魔女と呼ぶ人もいるわ。」
「ふむ。魔女か……確かに、この菓子とやらは魔法のようじゃ。おっと、我も名乗らねばな。我が名はアウラム。数千年生きている化石のような存在よ。」
数十分後。
カエデは山のような『古竜の心臓石』と共にドワーフの鍛冶場へと戻ってきた。
「……どうやってこれほどの量を……。山の主はどうしたのじゃ……」
驚くドワーフの王に、カエデは穏やかに答えた。
「ええ、少しお話をしましたら快く譲ってくださいましたわ。その代わり、月に一度、異世界の美味しいお菓子をお届けすることになりましたけれど」
こうしてカエデは、一人の竜の友(おやつ友達)と究極の刀の素材を同時に手に入れた。
数週間後、完成した折れず、錆びず、刃こぼれしない完璧な一振りを手にした彼女は、その足で街一番のケーキ屋へと向かった。そして、その究極の刀の最初の「試し斬り」として買ってきたばかりのバウムクーヘンを完璧な薄さにスライスしたという。
全ては彼女の快適で怠惰でそして美味しい日常のために。
彼女の外交(?)は今日も完璧だった。




