第三話:聖女様はため息をつきたい
エバーグリーンのオアシス連邦において「聖女」とは、国民の敬愛を一身に集める清らかで慈愛に満ちた象徴である。
そして、現聖女である月宮サヤは、まさにその理想を体現した少女だった。真面目で勤勉、心優しく、国の平和と民の幸福を誰よりも真剣に願っている。そんな彼女には、一つだけ大きな悩みがあった。それは、国で最も敬われるべき伝説の家系「静木家」の長女カエデの存在だった。
コノハがアークランドへと旅立って、約一ヶ月が過ぎた頃。聖女サヤは緊張した面持ちで、静木家の門をくぐった。彼女が抱えてきたのは、国家の重大案件だった。
数年に一度行われる、四大精霊への感謝を捧げる最も神聖な儀式『精霊祭』の開催が、約一ヶ月後に迫っていたのだ。古のしきたりによれば、この儀式は聖女と勇者の血を引く静木家の代表者が、二人で執り行わなければならない。
(大丈夫。カエデ様は、あのコノハさんのお姉様。きっと彼女と同じように心優しく、そして、国を想う素晴らしいお方に違いないわ……!)
サヤは自分にそう言い聞かせた。彼女は聖女として共に教育を受けたコノハを深く尊敬していた。
「あら、聖女様。ようこそおいでくださいました。」
出迎えたのは母のコズエである。コズエに案内され、サヤは居間へと通された。そして、そこに広がる光景に彼女は自分の目を疑った。部屋の中央には、『こたつ』を魔法で再現した、謎の家具が鎮座している。こたつの中から、上半身だけをだらしなく出したカエデが頬杖をつきながら、うつろな目でこちらを見ていた。髪は少しボサボサで、その手には流行りの恋愛小説が握られている。
「あら、聖女様。こんにちは。何か、面倒なご用件かしら?」
聖女サヤのカエデに対する幻想は、その一言で音を立てて崩れ去った。
「か、カエデ様!来月は精霊祭です!国にとって、最も重要な儀式の一つ!つきましては、古のしきたりに則り、カエデ様に我が国の代表としてご臨席いただきたく……!」
サヤが必死に、恭しく頭を下げるとカエデははぁ……と、この世の終わりのような深いため息をついた。
「精霊祭……。ああ、ありましたわね、そんなものが。確か、一週間くらい色々な聖地を巡って、祈りを捧げたり舞を奉納したりするすごく面倒くさい行事でしたわね」
「め、面倒くさいなどと!これは我が国の平和を守るための神聖な義務です!」
「義務という言葉は人生で二番目に嫌いですわ。一番は『出勤』ですけれど」
カエデはそう言うと、こたつから五メートル程先にあるお茶を取るために、平然とテレポートを使った。
あまりにも怠惰な光景に、聖女サヤはめまいを覚えた。
「お願いです、カエデ様!あなた様のお力添えがなければ、儀式は成り立たないのです!」
サヤが涙ながらに懇願する。その必死な様子に、カエデは仕方がないといった表情で、少しだけ体を起こした。
「……分かりましたわ。そんなに言うのならやりましょう。ただし、わたくしのやり方でですけれど」
その瞳の奥が、一瞬だけきらりと光ったのをサヤは見逃さなかった。
儀式の当日。最初の聖地である『始まりの滝』。聖女サヤが、純白の儀式服に身を包み、滝壺の前で厳かに祈りを捧げている。その隣にはカエデがいるはずだった。しかし、そこにいたのはカエデの姿を完璧に再現した精巧な『幻影』だった。幻影は、サヤの動きに合わせて完璧なタイミングで頷いたり、微笑んだりしている。
一方その頃、本物のカエデは自宅のこたつの中でおせんべいをかじりながら「遠見のお茶碗」で儀式の様子をライブ中継で見ていた。
「あらあら、サヤちゃん真面目ねえ。見てるこっちが肩が凝りますわ」
次の聖地『沈黙の森』へ移動する際もそうだった。
聖女サヤが神聖な輿に乗って、何時間もかけて森の奥へと進んでいく。その隣を歩いているのももちろんカエデの幻影だった。
「カエデ様、この森の空気は心が洗われるようですね」
「ええ、本当にそうですわね(早く終わらないかしらこの茶番は)」
幻影と本人の心の声が、完璧にシンクロしている。
そして、儀式の最終日。四大精霊に同時に感謝を捧げる最も重要な儀式。さすがにこの日ばかりは、本物のカエデが祭壇に姿を現した。
しかし、彼女は儀式が始まるなり、あくびを一つするとこう言った。
「聖女様。この儀式は本来なら丸一日かけて四つの聖地を巡るのが正式な手順ですわよね?」
「は、はい!それが古くからのしきたりです!」
「……効率が悪すぎますわ」
カエデはそう呟くと、指を一本ぱちんと鳴らした。
次の瞬間、彼女とサヤの体が淡い光に包まれる。
「きゃっ!?」
彼女たちは、一瞬にして火の精霊の祭壇へテレポートした。カエデはそこで儀式に必要な祈りを30秒で済ませる。
「はい、次」
ぱちん。今度は水の精霊の祭壇へ。祈り30秒。
「次」
ぱちん。風の精霊の祭壇へ。祈り30秒。
「最後よ」
ぱちん。土の精霊の祭壇へ。祈り30秒。
本来なら、数日かかるはずの最も神聖な儀式。それをカエデは空間転移を駆使し、わずか数分で完璧に(手順だけは)終わらせてしまったのだ。
出発地点の祭壇に戻ってきた時、聖女サヤはあまりの超高速移動に目を回してその場にへたり込んでいた。
「……終わりましたわね」
カエデは満足げに頷くと、疲れてふらふらの聖女サヤの肩を優しく叩いた。
「聖女様。伝統やしきたりも大切ですわ。でも、時にはもっと楽をする方法を考えることも大切ですよ。でないと体が持ちませんから。では……わたくし、お昼寝の時間ですので、これで失礼いたしますわね」
そう言い残し、彼女はテレポートで自宅のこたつへと帰っていった。一人祭壇に残されたサヤ。儀式は完璧に、史上最速で終わった。国中の民も精霊たちもきっと満足しているだろう。だが、彼女の心の中には尊敬でも感謝でもない、全く新しい感情が芽生えていた。
(……あの人。もしかしたら魔王よりもタチが悪いかもしれない……)
国の平和を祈る清らかな聖女の心に初めて一人の人間に対する「畏怖」とほんの少しの「殺意」にも似た感情が芽生えた瞬間だった。
数日後。聖女サヤは再び静木家を訪れていた。
「カエデ様!先日はありがとうございました!」
彼女は深々と頭を下げた。だが、その顔には以前のような緊張はなかった。カエデは相変わらずこたつから顔を出している。
「あら、聖女様。改まってどうしましたか?」
サヤはきっぱりと言った。
「カエデ様のおっしゃる通りでした。わたくし、伝統やしきたりに縛られすぎておりました。もっと物事を合理的で、効率的に考えるべきなのです!」
サヤの極端な心変わりに、カエデは少しだけ眉をひそめた。
「……まあそうね。でもあまり極端に考えるのも……」
だが、サヤの暴走は止まらない。
「そこで考えました!次回の精霊祭ですが、四大精霊を一箇所にテレポートで集めてしまえば、移動時間ゼロで儀式が行えるのではありませんか!?」
「……え?」
「そして国民への感謝祭も『カエデ様の幻影によるバーチャル握手会』を開催すれば、聖女の稼働時間を大幅に削減できます!」
「ちょ、ちょっと待ちなさい、聖女様?」
あまりにもカエデの思想に染まりきってしまった聖女の姿。カエデは思った。
(あらあら。わたくしとんでもないモンスターを生み出してしまったのではありませんこと……?)
清らかな聖女の心に「効率化」という名の悪魔が宿った瞬間だった。彼女がこの国で最強の「合理主義者」として名を馳せることになるのは、また別の話である。




