第一話:静かなる魔女の忙しい(?)一日
オアシス連邦の郊外に佇む、一軒の大きなお屋敷。静木コノハの実家である。
その二階の一室。天蓋付きの巨大なベッドの上で、一人の女性が、ゆっくりと目を覚ました。陽光がレースのカーテンを通して、柔らかな光の筋を部屋に描いている。
コノハをそのまま少しだけ大人びさせて、完璧な美貌を授けたかのような黒髪の女性。彼女は静木カエデ。コノハの姉である。
彼女こそが、この平和な国であるオアシス連邦の影の守護者。
その公式な役職は『オアシス連邦・国立特殊事案対策室・室長代理(兼唯一の室員)』。そして、同時にこの国の精神的支柱である、聖女様を補佐する『聖女付き特別顧問』といった名誉職も兼任している。
表向きの顔は、誰もが憧れる『国のエリート中のエリート公務員』。その地位と権限は、国家の存亡に関わる最高レベルの危機に対応するためのものであり、大臣クラスに匹敵する。
だが、そんな彼女の朝はあまりにも穏やかだった。
自室のベッドで目を覚まし、寝ぼけ眼で枕元の魔法時計を見る。時刻は午前十時を指していた。
カエデは、一つ小さくあくびをすると呟いた。
「あら……。とっくに出勤時間を過ぎておりますわね」
その声には焦りの色など微塵もなかった。
カエデはゆっくりと、ベッドからそのしなやかな体を起こした。静木家には現在、両親とカエデの三人暮らし。
普通の貴族令嬢であれば、ここから侍女を呼び、着替えに三十分、髪を結うのに三十分、と慌ただしい時間が始まるだろう。だが、彼女は違う。
彼女はベッドの横に無造作に脱ぎ捨てられていた昨日の公務用のドレスにそっと手を触れた。
そして一言。
「洗浄」
その瞬間、ドレスは淡い光に包まれ、全てのシワと汚れが消え去り、まるで新品のように完璧な状態へと戻った。
次に、彼女は洗面台の前に立つと再び一言。
「整容」
その瞬間、彼女の少しだけ寝癖のついた美しい黒髪は、ひとりでに梳かされ、結い上げられて完璧な夜会巻きへと姿を変えた。肌は潤い、歯は磨かれ、完璧な化粧まで施されている。
全てが終わるのにかかった時間はわずか三十秒。これが彼女の日常だった。
首都の中央官庁の一室。その広大な部屋の中心に、ぽつんと置かれた巨大な執務机。その主である椅子に、カエデは音もなく空間転移で現れる。
ここは『王立特殊事案対策室』。国家の存亡に関わる、最高レベルの危機に対応するための最重要部署。
だが、そのあまりにも物々しい名前とは裏腹に、この部屋で勤務しているのは、実質彼女しかいない。
机には、昨日彼女が帰った後に部下(という名の各省庁の連絡係)が置いていったであろう書類が、山ほど積まれていた。その一つ一つに「緊急」「最重要」「至急」といった、物騒な赤いスタンプが押されている。
「あらあら。また面倒なことばかり増えておりますわね」
カエデは一つ深いため息をつくと、億劫そうにその書類の山に目を通し始めた。
一枚目『北部国境付近にて、所属不明の飛竜の目撃情報多数。騎士団の緊急出動を要請する』。
二枚目『南の港町にて、古代の海上遺跡が浮上。近隣の漁業に甚大な被害』。
三枚目『財務大臣と外務大臣が新しい貿易政策を巡って全面対決。国会が三日間、空転中』。
どれも普通の人間であれば頭を抱え、数週間は対応に追われるであろう国家レベルの問題。だが、カエデは動じなかった。彼女は、その美しい黒い瞳をすっと細めた。固有魔法『森羅万象の真理』が発動する。彼女の脳内に、それぞれの問題の本質と原因と、そして最も効率的で労力の少ない完璧な「答え」が流れ込んでくる。
「なるほど。そういうことでしたの」
彼女はまず、一枚の羊皮紙を取り出すと、そこにさらさらと数行の文章を書きつけた。
『その飛竜は迷子になった子供です。母親が探しています。刺激しないように。好物は山ブドウですわよ』
彼女は、そのメモにそっと手を触れると「転移」と呟いた。メモは一瞬でその場から消え、今頃北の国境で頭を抱えているであろう騎士団長の机の上に現れているはずだ。
次に、彼女は別の羊皮紙に、一枚の簡単な地図を描いた。『その遺跡は潮の満ち引きで動きます。このポイントに、古代の鎮静の魔石を沈めなさいな。三日でまた眠りにつきますから』これもまた転移させる。
そして最後に、一枚の真っ白なカードを取り出した。そこにはただ一言。『お二人共、頭を冷やしなさいな』とだけ書かれている。彼女は、そのカードを二つに引き裂くと、それぞれを今頃、国会で口汚く罵り合っているであろう二人の大臣の額へと寸分違わず転移させた。カードが額に張り付いた瞬間、二人は聖女の慈愛に満ちているが、目が笑ってない笑顔の幻覚を見ることになるだろう。
全てが終わるのにかかった時間は、わずか五分。山とあった緊急案件は全て片付いてしまった。
「ふう。やれやれですわね」
カエデは、一つ大きなあくびをした。彼女は執務机の引き出しから愛用のティーカップと最高級の茶葉を取り出すと、魔法でお湯を沸かし始めた。まだ始業から十分も経っていないが、彼女の今日の仕事はもう終わってしまったのだ。
(それにしても)
彼女は窓の外を見ながら思う。
(コノハは今頃、どうしているのかしら。あの子のことですから、またどこかで面倒事を起こしてはいないでしょうね)
その少しだけ心配そうなしかしどこまでも愛情に満ちた独り言。
カランと。ティーカップのソーサーが優雅な音を立てる。
オアシス連邦が今日も平和なのは、この世界で最も有能だが、最もやる気のない一人の天才公務員のおかげなのかもしれない。
彼女は、ただ愛する妹が作る最高のお菓子と、自らの穏やかなティータイムを守りたいだけ。
そのささやかな願いこそが、この国をそしてあるいは世界そのものを救っていることをまだ誰も知らない。




