閑話休題 その十:深淵の魔女と美食倶楽部の甘い支配
世界の歪みを救った一行。
『ラ・キュイジーヌ・シュプリーム号』は、次なる目的地も定まらぬまま、穏やかな海の上を気ままに進んでいた。
その日の午後。福音団の三人は、自分たちの部屋でそれぞれの時間を過ごしていた。スミレはベッドの上で楽しそうに、新しい衣装のデザイン画を描いている。シオリはその横で、小さなウサギのぬいぐるみのほつれた耳を丁寧に繕っていた。どこまでも平和な光景だった。
だが、その平和に一石を投じたのは、リーダーであるアイだった。彼女は読んでいた魔導書をばたん!と、大きな音を立てて閉じると立ち上がった。その赤い瞳には、いつになく真剣な炎が宿っていた。
「―――このままで良いのだろうか?」
「えっ?」
シオリとスミレは顔を上げた。アイは、仁王立ちで二人を見下ろした。
「考えてもみなさい!我々は『深淵の闇魔法の布教』という、崇高な目標があったはず!それが、どうですの!この体たらくは!毎日、美味しいご飯を食べて、ふかふかのベッドで眠るだけ!こんな怠惰な生活で良いのだろうか?!」
アイの唐突な熱い演説。だが、シオリはきょとんとして首を傾げた。
「うーん。良いのではないでしょうか?」
「なっ!?」
「だって考えてもみてくださいな、アイ。何だかんだで、『至高の一皿』の皆さんとの関係は良好ですし、コノハちゃんの食事は毎日美味しいですし、クラウスさんが資産管理をしてくださるので、お金にも困っていません。……何も文句は無いのでは?」
シオリの真っ当で現実的な意見。スミレもまた、うんうんと頷いた。
「そうだよね!お姉ちゃんの言う通り!それに、居候って立場なのに、すっごく甘やかされてるよね!私たち!」
その悪気のない一言が、アイの心に火をつけた。
「スミレ!それがいかんのだ!」
彼女は叫んだ。
「その甘えこそ、我らの魂を堕落させる甘美な毒なのだと!なぜ、分からんのだ!このままでは我々は、『美食倶楽部』の可愛い闇のペットに成り下がってしまう!」
アイの悲痛な叫びを聞いて、シオリは深いため息をつくと静かに呟いた。
「自分で可愛いって言うのですね……」
「そこではありませんわ!」
その夜の夕食。アイは決意していた。このぬるま湯のような日常に終止符を打つのだと。
コノハが作った、絶品のシーフードパエリアを食べ終えたその時。アイはバン!と、テーブルを叩いて立ち上がった。
「―――皆の者!静粛に!」
その唐突な一言に、仲間たちはきょとんとして彼女を見た。アイは椅子から立ち上がると、高らかに宣言した。
「本日を以て、我ら『深淵の福音団』は『至高の一皿』との従属関係を解消し、再び独立を宣言する!」
あまりにも唐突な独立宣言。レオンが慌てて立ち上がった。
「ア、アイ殿!?一体何を……!」
アイはレオンの言葉を手で制した。
「もう決めたのです、レオン!我らは、もはやあなた方のペットではない!独立した一つの組織として、再び闇の布教の旅へと出るのです!」
彼女はシオリとスミレを見た。
「良いですわね二人共!」
シオリとスミレは、顔を見合わせ困ったように頷くしかなかった。
そのアイのあまりにも熱く、悲壮な決意表明。だが、その決意はものの数分で粉々に打ち砕かれることになる。
最初の一撃を放ったのは、コノハだった。彼女は厨房から一つのホールケーキを運んできた。それは、黄金小麦をふんだんに使い、表面には宝石のように輝くフルーツが惜しげもなく飾られたショートケーキだった。
「アイさん!今日のデザートは特別ですよ!アイさんが一番お好きなイチゴをたくさん使ってみました!」
抗いがたい甘い香り。アイの決意の表情がぐらりと揺らいだ。
「ぐっ……!な、なんて卑劣な手を……!」
二の矢を放ったのは、クラウスだった。彼は一枚の羊皮紙をアイに見せた。
「アイ殿。君が以前から探していた、古代の闇魔法に関する禁断の魔導書。そのありかが分かりましたぞ。まあ、君がこの船を出て行くというのなら、この情報は我々だけで有効活用させてもらうがな」
「なっ……!そ、それは反則ですわ!」
そして最後のとどめを刺したのはガルムだった。彼はアイに対して、寂しげに呟いた。
「……アイ。……行っちまうのか……?」
そのあまりにも寂しそうな声。
「……俺は!お前がいないと寂しいぜ……!」
思いも寄らない一言。アイの心のダムは完全に決壊した。
「―――うううううううううっ!!!!」
彼女はその場で崩れ落ちた。
「分かりましたわ……!分かりましたから!……独立はその……もう少しだけ様子を見てからにしますわ……!」
あまりにもあっけない敗北宣言。食堂は、温かい笑い声に包まれた。レオンは深いため息をつき、「……全く世話の焼ける……」と、言いながらもその顔は笑っていた。
深淵の魔女が起こした、ささやかな反乱は仲間たちの圧倒的な愛情(と美味しいケーキと貴重な情報と少しだけの甘い言葉)の前にわずか数分で鎮圧された。
彼女がこの甘く温かい支配から抜け出せる日は、まだまだ遠いようである。




