第四十二話:祭壇に捧げるスープ
黒騎士が消え去り、祭壇へと続く最後の道が開かれた。
背後ではまだ仲間たちが、無限に湧き出る黒い影と死闘を繰り広げている。一刻の猶予もなかった。
「コノハさん行きましょう!」
「はい!」
祭壇にたどり着いたレオンとコノハ。
そこは不思議なほどに静かで、清らかな空気に満ちていた。
千年前に、魔王が封印されたというその場所は、禍々しい気配など微塵も感じられない。ただ、ひんやりとした石の祭壇が静かに二人を待っているだけだった。
「ここに、あの『創世のスープ』を捧げるのですね」
コノハは、ごくりと喉を鳴らし、背負っていた革の鞄をそっと祭壇の上に置いた。
そして、彼女は慣れた手つきで鞄の中から簡易の携帯用調理器具を取り出す。
小さな魔法のコンロ。銀色に輝く小さな片手鍋。そして一本の木製のお玉。
それはあまりにも質素で、世界の運命を決めるにはあまりにもささやかな道具たちだった。
コノハは深呼吸を一つすると、レオンの方を振り返った。
彼女の大きな黒い瞳は、どこまでも真っ直ぐで、そして絶対的な信頼に満ちていた。
「レオンさん。わたくしのこと、ちゃんと見守っていてくださいね?」
そのあまりにも健気な一言。
レオンの胸の奥が熱くなった。
彼は力強く頷いた。
「ああ。もちろんだ。今度は俺が、君を何があっても守るよ」
彼は誓った。
自らが誓いを立てた、この騎士剣にかけて。
コノハは微笑むと、祭壇へと向き直った。
彼女の世界を救う調理が始まった。
まず、彼女は懐から小さな革袋を三つ取り出した。
一つ目の袋から現れたのは、太陽の光をそのまま固めたかのような『黄金の小麦』。
彼女はそれを魔法の力で丁寧に粉にしていく。
二つ目の袋から現れたのは、星屑を閉じ込めたかような『氷河の岩塩』。
彼女はそれを指先で、そっと砕き清らかな魔力を解放させる。
そして、三つ目の袋から現れたのは生命力に満ち溢れた『太陽の大豆』。
彼女はそれを丁寧にすりつぶし、クリーミーなペースト状にしていく。
全ての準備が整った。
彼女は鍋に聖なる泉の水を注ぎ、魔法のコンロに火を灯した。
そこに、まず小麦粉をゆっくりと溶かしていく。
次に岩塩をそっと混ぜ合わせる。
最後に、大豆のペーストを加え、木のお玉で優しく優しくかき混ぜていく。
鍋の中の液体は徐々にその姿を変えていった。
最初は、ただの白い液体だったものが、やがて夜明けの空のような、温かい黄金色に輝き始めたのだ。
そして、祭壇にはこれまでに嗅いだことのない、どこまでも優しくそして懐かしい香りが満ちていく。
それは生命の始まりの匂い。
世界の夜明けの匂いだった。
「できました……!」
コノハは、そっと呟いた。
鍋の中には、黄金色に輝く『創世のスープ』が完成していた。
彼女は、そのスープをお玉でそっとすくい上げると、古びた石の祭壇のくぼみへとゆっくりと注ぎ込んだ。
その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴ……!
祠全体が、地響きを上げて揺れ始めた。
祭壇に注がれたスープは、黄金の光となり石のひび割れを伝って大地へと吸い込まれていく。
その光は、地下深く眠っていた世界の「歪み」の中心へとたどり着いた。
それは、まるで乾ききった大地に初めて恵みの雨が降り注ぐかのようだった。
次の瞬間。
祠の天井を突き破り、一本の巨大な光の柱が天へと昇っていった。
その光は、アークランドの黒い雲を吹き飛ばし街、全体を、そして、世界中を温かい黄金の光で包み込んでいく。
祠の中で暴れ狂っていた黒い影たちは、その光を浴びて悲鳴を上げる間もなく、霧のように消え去っていった。
戦っていた仲間たちの傷も、疲労も、その光の中でみるみるうちに癒えていく。
世界が息を吹き返したのだ。
全てが終わった。
レオンは、そのあまりにも神々しい光景にただ息をのんでいた。
そして、彼は隣に立つ小さな料理番の横顔を見た。
彼女は、その光景を満足げに眺めながらぽつりと呟いた。
「ああ、とっても良い香りのスープができました……」
どこまでも料理人な一言に、レオンは思わず吹き出してしまった。
そうだ。
この世界を救ったのは、伝説の勇者でも聖女でもない。
ただひたすらに美味しいものが大好きな、一人の食いしん坊の少女だったのだ。
彼は、その小さな英雄の頭を優しく撫でた。
「ええ。……最高の一皿でしたよコノハさん」
レオンの温かい手のひらの感触に、コノハは少しだけはにかむと、レオンにそっと話しかけた。
「……レオンさん……わたし、お腹が空いてしまいましたわ」
彼女らしい一言に、レオンは再び笑った。
「ええ、私もです……帰りましょうか、我々の家に」
二人の穏やかな会話を遮るように、背後から賑やかな足音が聞こえてきた。他のメンバーが、祠の中の全ての影が消え去ったことで、儀式が成功したのだと分かり祭壇へと集まってきたのだ。
「―――コノハっ!」
一番に駆け寄ってきたのは、意外にもアイだった。
彼女は、いつもは決して見せない子供のような満面の笑みで、コノハに飛びつくとその小さな体を力強く抱きしめた。
「すごい、すごいわコノハ!流石は、このわたくしが認めた魂の友ね!!」
あまりにも素直で、素に戻った心からの賛辞だったが、その愛情表現は少しだけ強すぎた。
「ア、アイさん!く、苦しいです……!」
コノハは幸せそうに、しかし、必死にもがいていた。そこへ、ガルムも豪快に笑いながら走ってきた。
「はっはっは!おい、アイ!お前、もう完全に素になってるじゃねえか!嬉しいのは分かるが、コノハが潰れちまう。少しは離してやれよ」
彼はコノハの頭をわしわしと優しく撫でた。
「コノハ。本当に、よくやってくれたな。お前は最高の料理番だぜ」
温かい仲間たちの祝福の言葉に、コノハはその輪の中心で、少しだけ照れくさそうに、幸せそうな笑顔を浮かべていた。
「―――皆さん!帰りましょう!わたくしたちの船へ!そして世界で一番美味しい勝利の祝賀会を始めましょう!」
「「「おおおおおっ!!」」」
仲間たちの雄叫びが一つになって、光に満ちた地下の祠に響き渡った。




