第四十一話:砕けた刃と砕けない絆
黒騎士が苦悶の声を上げる間もなく、霧のように消え去った後祠の広間には一瞬の静寂が訪れた。
遠くでは、まだ仲間たちが無限に湧き出る黒い影たちと死闘を繰り広げている激しい音が響いている。だが、この祭壇へと続く道だけは確かに開かれていた。
「はぁ……はぁ……」
レオンは荒い息をつきながら、その場に片膝をついた。アドレナリンが全身を駆け巡り、先ほどまでの死の恐怖がじわじわと蘇ってくる。
(危なかった……あそこで死ぬところだった……)
自分の心の、ほんの僅かな隙が命取りになるところだった。そして、その致命的な隙を救ってくれたのは、あの小さな料理番の奇跡のような一投だった。
彼は、はっと我に返った。
「コノハさんの短刀は?!」
彼は辺りを見回し、コノハの投げた短刀を探す。石畳の上に、カランと転がっている銀色の輝き。
落ちている短刀を拾うと、レオンはその刀身を確かめ、驚く。月の光に似た清らかな輝きを放つ、美しい刀身。だが、その先端のほんの一部が折れていたのだ。黒騎士の禍々しい魔剣と正面からぶつかり合ったその代償。
レオンの顔からさっと血の気が引いた。
彼は、その短刀と破片を、まるで自分の罪の証のように両手で包み込んだ。そして、祭壇へと向かおうとしていたコノハの元へと駆け寄った。彼の声は、罪悪感で震えていた。
「コノハさん」
「はい、どうしましたか、レオンさん?早く行かないと……」
「すまない……本当に、すまない……」
レオンは、コノハの前に深々と頭を下げた。
「この短刀は、あなたの母上から譲り受けた大切な物なのに、俺が不甲斐ないばかりに……俺のせいだ……」
レオンの痛切な謝罪。だが、コノハは全く気にしていなかった。
彼女は、レオンのその大きな手の中から、そっと短刀の破片を受け取った。そして、その折れた箇所を愛おしそうに指でなぞった。彼女の顔には、悲しみの色など微塵もなかった。それどころか、彼女はどこまでも優しく、誇らしげに微笑んでいた。
「レオンさん、顔を上げてくださいな」
彼女の穏やかな声に、レオンはおずおずと顔を上げた。
「わたしの家の教えに、こういうものがあります。『道具は使われてこそ魂が宿る』と」
「魂……」
「はい。わたくしにとって、包丁はただの鉄の塊ではありません。美味しい料理を作るための大切な相棒です。使えば刃はこぼれますし、柄も古くなります。ですが、その一つ一つの傷こそが、その包丁がどれだけたくさんの美味しいものを生み出してきたかの『勲章』なのです。」
彼女はその欠けた短刀を、レオンに見せた。
「この短刀も同じです。お母様からいただいた時、この子はただの綺麗な短刀でした。ですが、今の、この子は違います」
彼女は、その短刀の傷跡をもう一度優しく撫でた。「この傷は、わたしの一番大切な仲間を、命がけで守ったという証です。わたし、この傷を誇りに思います。」
彼女は、レオンの青い瞳をまっすぐに見つめ返した。
「最後に、あなたの命を守れて本当に良かった」
あまりにも温かく、気高い言葉。レオンは、もはや何も言えなかった。罪悪感も後悔も、全てが彼女のその太陽のような笑顔の中に溶かされていく。代わりに胸の奥から熱い熱い、何かが込み上げてきた。それは感謝であり、尊敬であり、そして生まれて初めて感じるどうしようもなく愛おしいという感情だった。
「そうですね」
レオンはようやく、それだけを絞り出した。彼は自分の心の整理をするように、一度大きく息を吸った。
そして、彼は騎士の顔に戻った。
「短刀のことは後にして、祭壇に向かいましょう。我々にはまだやるべきことがありますから」
「はい」
コノハも力強く同意する。二人は再び祭壇へと歩き始めた。
レオンはコノハの半歩前を歩く。その背中は、先ほどよりもずっと大きく、頼もしく見えた。彼はもはや迷わない。父の名誉のためではない。ただ、この温かい光を守るため。そのただ一つの誓いを胸に、彼は最後の戦場へと歩を進める。
世界の運命をそして最高のスープをその手に掴むために。




