第三十九話:暗雲のアークランド
三つの伝説の食材をその手に『ラ・キュイジーヌ・シュプリーム号』は、中央大陸のアークランドへと帰還した。
だが、一行が目にしたのは、自分たちが旅立った時とは全く違う故郷の姿だった。
港に降り立った瞬間、誰もが言葉を失った。街は閑散としていた。いつもなら活気ある商人の声や、子供たちの笑い声で満ちているはずの大通りに、人影はまばらだ。
家々の窓は固く閉ざされ、まるで街全体が息を潜めているかのようだった。時折、遠くから甲高い金属音と人々の短い悲鳴が聞こえてくる。
そして、何よりも異様だったのは、黒く分厚い雲が渦を巻くように広がり、まるで巨大な生き物が空を覆っているかのようだった。その雲の隙間からは、世界が終わってしまうかのような、不吉な紫色の光が漏れ出している。昼間なのに薄暗い。
「なんだこれは……」
レオンが息をのむ。彼のその青い瞳が、信じがたい光景に見開かれていた。
「空気が重い……まるで、世界そのものが悲鳴を上げているようだ」
アリアのエルフならではの鋭い感覚が、この異変の本質を捉えていた。彼女は弓を握る手にぎゅっと力を込めた。森の精霊たちが、恐怖に震えているのが伝わってくる。
ガルムは、そのたくましい腕の血管を怒りに浮き上がらせていた。
「……ちぃっ。俺たちがいない間に、一体何があったってんだ。気に食わねえ空気だぜ」
一行は不安な気持ちを胸に、ギルド本部へと足を速めた。ギルドの中もまた静まり返っていた。いつもは荒くれ者の冒険者たちの酔った怒号や、高笑いで満ちているはずの一階の酒場が、まるで墓場のように静かだ。壁には新しい亀裂が走り、いくつかのテーブルは無残に破壊されていた。
そして彼らがギルドマスターの執務室の扉を開けた時、そこにいたバーナビーが血相を変えて一行を振り返った。その顔には数日間眠っていないであろう、深い疲労と絶望の色が濃く浮かんでいた。
「おお!君たちか戻ってきてくれたか!よくぞ無事で!」
彼は震える声で言った。その声は安堵とそれ以上の焦燥に満ちていた。
「街の惨状を見ただろうが、三日前からなのだ。急に街のあちこちの空間から、このような闇の化身が次々と出てきており、街に甚大な被害が出ている。現在、街にいる全ての冒険者が総出で防衛に当たっているが、もはや時間の問題だ!」
バーナビーが指さした窓の外。そこでは、冒険者たちが影のような不定形の魔物たちと必死の攻防を繰り広げているのが見えた。影の魔物は剣で斬っても手応えがなく、魔法を当ててもすぐにその姿を再構築してしまう。じわじわと、冒険者たちが消耗させられていくのが分かった。
「世界の歪みか……」
クラウスが呟いた。彼のいつもは冷静な紫の瞳が、初めて焦りの色に染まっていた。
「……禁書庫の記述は正しかった。ついに臨界点に達したか!」
レオンはバーナビーに向き直った。
「ギルドマスター!奴らが現れる中心地はどこなのですか!?」
「……分からん。街の至る所からランダムに出現している。だが、一番その密度が濃いのは……」
バーナビーは地図の一点を指さした。
「……中央広場の地下。千年前に魔王を封印したという古い祠の周辺だ」
「-決まりですね!皆さん!」
絶望的な空気の中でコノハだけが、いつもと変わらない穏やかな、しかし、芯の通った声で言った。彼女は仲間たちの顔を一人ずつ見回した。
「行きましょう。わたくしたちの始まりの場所に。そして、この悲しい戦いを終わらせる最高の『一皿』を作りに行きましょう!」
彼女の一言が、仲間たちの心に再び火を灯した。そうだ、自分たちはこの日のために旅をしてきたのだ。
メンバーは顔を見合わせ、力強く頷くと急いで、魔王の封印してある地下の祠へと向かうことにする。
「ギルドマスター、後は私達に任せてください!」
レオンのその力強い一言を残し、一行は執務室を飛び出した。彼らがギルドの一階に降り立った時、ちょうど空間の裂け目から、数体の闇の化身が現れたところだった。周りの冒険者たちが「くそっキリがねえ!」と舌打ちをする。
だが、その影たちは次の瞬間、一瞬で消滅していた。レオンの光の剣の一閃が闇を切り裂き、ガルムの大地を揺るがすハルバードの一撃が、空間の裂け目ごと粉砕し、アリアの風の矢が逃げ惑う残骸を正確に射抜いた。
そしてその全てを、コノハの張った完璧なバリアが仲間たちを守っていた。
「……な!?」
周りの冒険者たちが息をのむ。それは、もはや戦いではなかった。絶対的な強者が行う、ただの「蹂躙」。金級冒険者『至高の一皿』の本当の力が今、初めて中央ギルドの同業者たちの前で、示された瞬間だった。
一行は振り返らない。彼らが目指すのは、ただ一つ。世界の歪みの中心。そしてその先にある本当の「平和」という名の食卓だけだった。
英雄たちの戦いが今始まろうとしていた。




