第三十八話:アークランドへの帰還
三つの伝説の食材が、今コノハの手の中にあった。
ドワーフ王国の火山で精錬された『太陽の大豆』。
ウルク連邦の凍てつく聖堂で手に入れた『氷河の岩塩』。
そして、聖アウレア帝国の庭園で輝いていた『黄金の小麦』。
『ラ・キュイジーヌ・シュプリーム号』は全ての旅を終え、決戦の地である始まりの街アークランドへと帰還の舵を切った。
船の上は、嵐の前の静けさに包まれていた。
誰もが口には出さない。だが、これから始まる世界の運命を懸けた儀式の重圧をひしひしと感じていた。
重く湿った空気が肌にまとわりつくようだ。
レオンは甲板の片隅で黙々と剣と盾を磨いていた。
黄金の輝きの中に、自らの決意を映し出している。
「父さん見ていてくれ」
彼の心の中で、静かな声が響く。この旅で幾度となく絶望を味わい、それでも立ち上がってきた。その全てがこの一瞬のためだった。
アリアは船首に立ち、目を閉じて静かに風の精霊たちに祈りを捧げている。彼女の緑の髪が決意を帯びた潮風に揺れていた。
「どうか私たちの想いが届きますように」
彼女の祈りは、ただの言葉ではない。大気の流れ風の囁き、その全てに彼女の切なる願いが込められていた。
その張り詰めた空気の中。
甲板で愛用のハルバードの手入れをしていたガルムが、ラウンジで山のような古文書を睨みつけているクラウスに声をかけた。
「なぁ、クラウス」
ガルムの声はいつもより少しだけ真剣だった。
クラウスは眼鏡の奥の瞳を羊皮紙から離さずに答えた。
「…なんですかな、ガルム殿。今は少し集中したいのですが」
「食材を三つ集めてアークランドの中央広場で大地に捧げると古文書には書いてあったが、正直、俺にはまだピンとこねえ…どういうことだ?ただ供え物をするだけで本当にこの世界は救われるのか?」
彼の素朴で根本的な疑問は、ガルムだけが抱いているものではなかった。この船に乗る、コノハ以外の誰もが心のどこかで抱いている不安でもあった。
クラウスは読んでいた本を、ぱたりと、閉じるとガルムの隣に座った。
そして、彼はこの心優しき脳筋の戦士にも分かるように、ゆっくりとその儀式の本当の意味を語り始めた。
「…ガルム殿、まず我々が直面している『世界の歪み』とは何か。それを我らが料理番風に説明するならば、それは言わばこの世界という巨大な鍋で作られた最高の『シチュー』に、ほんの少しだけ『アク』が浮いてしまっているような状態なのです」
ガルムは、大きな目をきょとんとさせた。
「シチューにアク?」
「ええ。1000年前に、初代勇者たちが魔王を封印した際!あまりにも強大な力を使った。その代償として世界の理のバランスがほんの少しだけ、崩れてしまった…そのほんの僅かなバランスの崩れこそがこの世界の『アク』であり『歪み』の正体です。普段は、そこまで問題はない。だが、何かの拍子でそのアクが鍋全体に広がると、エデンで起きたような大災厄を引き起こしてしまう」
クラウスは言葉を選びながら続けた。
「そして、我々が命がけで集めた三つの食材。あれはただの食べ物ではありません」
彼の声が熱を帯びる。
「黄金小麦は『生命』そのもの。大地に芽吹き育ちそして次の世代へと命を繋ぐ循環の象徴です」
「氷河の岩塩は『浄化』そのもの。万物を清めそして、本来のあるべき姿へと戻す始まりの象徴です」
「そして太陽の大豆は『創造』そのもの。何もない大地から太陽の光を浴びて豊かな実りをもたらす恵みの象徴です」
「言わば、あれらはこの世界のシチューの味を完璧に調えるための究極の『調味料』なのです」
「…なるほどな。それでそれを大地に捧げるってのは…」
「ええ。ですが、ただの調味料ではありません。そして、ただ捧げるだけでは意味がない。その三つの究極の調味料を正しく調理し、世界という巨大なシチューのアクを取り除き再び完璧な一皿へと仕上げることができる唯一の存在」
クラウスは厨房の方を見つめた。そこからは、コノハの楽しそうな鼻歌とパンが焼ける香ばしい香りが漂ってきていた。
「それこそが、初代勇者と聖女の血を最も色濃く受け継ぎ、そして神の舌を持つ我らが料理番――コノハさんなのです」
クラウスのその言葉に、ガルムは初めて全てのパズルが完璧にハマる音を聞いたような気がした。彼の胸の中にあった、最後の不安の霧がすっと晴れていく。
そして代わりに腹の底から燃え上がるような一つの感情が湧き上がってきた。
(…なるほどな…つまりだ)
彼はにやりと笑った。
(俺の役目は、コノハが最高の料理を作るのを邪魔するハエどもを全部叩き潰すことか…ハッ!それならいつものことじゃねえか!)
彼の心は一気に軽くなった。武者震いにも似た高揚感が全身を駆け巡る。
その頃厨房では。
コノハが三つの伝説の食材を、目の前に腕を組んでいた。
「うーん…この三つをどうやって一つにまとめましょうか…」
彼女は悩んでいた。だが、その顔は世界の運命を背負った悲壮なものではなかった。ただひたすらに最高のレシピを思いつこうとする、一人の幸せな料理人の顔だった。
彼女の目はキラキラと輝いている。彼女にとって食材は単なる素材ではなく、共に最高の作品を創り出す大切なパートナーだった。
「…そうだ!」
彼女は、ぽんと手を打った。その音はまるで彼女の脳内で新しい扉が開いたかのようだった。
「この三つの食材のそれぞれの良さを最大限に引き出し、そして一つにまとめる最高の調理法…!」
彼女の脳内に、奇跡のレシピが舞い降りる。それはまるで天から授けられた啓示のようだった。
「―――『創世のスープ』!」
小麦粉を清らかな水でゆっくりと溶いて、そこに砕いた氷河の岩塩をそっと混ぜ合わせる。そして、丁寧に裏ごしした太陽の大豆をすりつぶして加えることで、ポタージュのようなとろみのある黄金色のスープにするのだ。
大豆のなめらかな舌触りと、小麦粉による自然なとろみが特徴的なクリーミーな仕上がりにして世界に捧げる。
彼女は完璧なイメージに打ち震えていた。
(…絶対に美味しいスープができますわ…!)
心臓がドキドキと高鳴る。それは、未知の料理に挑む興奮と期待に満ちた鼓動だった。
一行の運命を乗せた船は進む。決戦の地アークランドはもうすぐそこだ。
それぞれの想いを胸に、英雄たちの最後の戦いが始まろうとしていた。




