第二十九話:和解のシチュー
戦場に似つかわしくないほど芳醇で優しく、抗いがたいほどに美味しそうな香りが立ち上り始めた。
レオンとガルムの決死の覚悟も、フェンリル率いる獣人戦士団の鋭い敵意も、その香りの前ではまるで意味をなさなかった。
それは、ただ空腹を刺激するだけではない。魂のもっと深い部分に直接語りかけてくるような、根源的な安らぎの香りだった。
あれほど荒れ狂っていたキメラの動きがぴたりと止まる。憎悪に燃えていた獅子の瞳、苦痛に歪んでいた山羊の瞳、怒りに満ちていた蛇の瞳……そのいくつもの瞳が一点が、コノハが掲げる巨大な鍋へと注がれた。
その瞳に宿っていたのは、もはや憎悪や苦痛ではない。ただひたすらな純粋な『飢え』だった。それは肉体の飢えというよりも、もっと切実な魂の渇望のように見えた。
「大丈夫ですよ。もう苦しまなくても良いのですから。」
コノハはその混沌の化身に向かって、まるで傷ついた小鳥に語りかけるように優しく言った。
「さあ、どうぞ。たくさん召し上がれ」
コノハは完成した『生命と調和の薬膳シチュー』を巨大な器に盛り、キメラの前にそっと置いた。
キメラは一瞬ためらうようにその場に佇んでいたが、やがておずおずとその獅子の頭を器に近づけ一口、また一口と夢中でシチューを食べ始めた。
最初は警戒していた他の頭たちも、次々と器に顔を寄せ、その温かい恵みを貪るように味わい始める。
その光景は奇妙で、しかし、どこまでも神聖だった。
一口食べるごとに、その巨体から黒い瘴気が朝霧のようにハラリと消えていく。互いに反発し、争い合っていた体のパーツは、穏やかにその活動を鎮め苦痛に歪んでいた顔には安らかな表情が浮かんでいく。
それは食事というよりも、浄化の儀式のようだった。
「……信じられん……」
誰かがぽつりと呟いた。
やがて、キメラの体は眩い光に包まれた。それは、夕日よりも温かく月光よりも優しい生命そのものの輝きだった。
光が収まった時、そこには既に悪夢の魔獣の姿はなかった。いたのは獅子、山羊、蛇、鳥……キメラを構成していた、数多くの動物たちが傷つきながらも、穏やかな顔でコノハの足元に静かに寄り添っている姿だった。
彼らは感謝するように、その小さな料理番の服の裾をそっと舐めていた。
この奇跡の光景を遠くから見ていた獣人たちは、言葉を失っていた。
彼らが最強の戦士団を以てしても、傷一つ負わせられなかった混沌の化身を、この小柄な人間の少女はたった一杯の料理で救ってしまったのだ。
狼族のリーダーであるフェンリルが、その場にガクリと膝をついた。
彼のその誇り高い瞳から一筋、涙がこぼれ落ちる。
「……我々は間違っていた。憎しみを憎しみで制しようとしていた。力だけが全てではなかったのか……」
彼はゆっくりと立ち上がると、武器を置き、レオンとガルムの元へと歩み寄った。そして、その誇り高い頭を深く深く下げた。
「……すまなかった。俺はお前たちを、その国の名だけで判断していた。だが、お前たちは真の『戦士』だ。仲間と、我らの大地をその身を挺して守ってくれた。…どうか、許してくれ」
彼の不器用な、しかし心からの謝罪。
レオンとガルムは顔を見合わせた。そして、彼らもまたその誇り高い長に、敬意を込めて頭を下げた。
「いや、顔を上げてくれ。フェンリル殿」
レオンが言った。
「謝るべきは我々の方だ。聖アウレア帝国が過去に獣人であるあなた方の同胞に、どれほど非道な仕打ちをしてきたか俺は知っている。同じ帝国の民として、俺からも謝罪させてほしい。すまなかった」
「そうだぜ。狼の兄ちゃん」
ガルムも続けた。
「俺の故郷、ウルク連邦も力こそが全てだと信じて疑わなかった。だが、俺はこの旅で学んだんだ。本当の強さってのは誰かを打ち負かすことじゃねえ。……腹を空かせた奴に飯を分けてやれる優しさのことなんだってな。俺たちの祖国が犯した過ちを許してくれ。」
三人はそれぞれの背負ってきた歴史と過ちを認め合いそして許し合った。
フェンリルは何も言わずその大きな手を二人に差し出した。レオンとガルムもその差し出された大きな手を強く握り返した。
長年にわたる憎悪の壁が一杯の温かいシチューによって溶かされた瞬間だった。
その夜、獣人たちの国では、一行を新たなる英雄として称える盛大な宴が開かれた。
そこにはもはや、人間も獣人もなかった。ただ、同じ大地に生きる仲間たちの陽気な笑い声だけが響き渡っていた。
レオンとガルムは昨日まで自分たちを罵倒していた獣人たちと肩を組み酒を酌み交わし笑い合っていた。
宴の最高潮。
議長のボリーが、一行の前に立ち高らかに宣言した。
「皆、聞いてくれ!ここにいる英雄たち『至高の一皿』はもはやただの客人ではない!彼らは我らが魂の友だ!」
議長のボリーは、一行に心からの感謝を告げると一つの約束をした。
「我ら『大地の盟約』は、今日この日よりお前たち『至高の一皿』の永遠の盟友となることを誓おう。今後、お前たちの旅路に何か困難があればいつでも我らを呼ぶがいい。この大地の全てがお前たちの力となろう」
こうして一行は、世界の歪みが生んだ一つの悲劇を救い、何よりも力強い新たな仲間を手に入れた。
トラブルから始まった寄り道。
だが、それは彼らの旅にとって何物にも代えがたい宝物となった。
一行は、獣人たちからの熱狂的な見送りを背に、今度こそ最後の目的地である輝石のドワーフ王国へとその舳先を向けた。
彼らの心の中には新たなる友情と、そしてコノハが作ったあのシチューの温かい思い出がいつまでも輝いているのだった。




