第三十六話:天へと続く最後の道
最後の夜が明け、エデンの空はまるで新たな世界の誕生を祝福するかのように、どこまでも澄み渡っていた。
世界樹の麓に立った一行は、その巨大な幹を見上げる。四大精霊の力を得て完全に輝きを取り戻した世界樹は、その内部に頂上へと続く光の道を開いていた。
「行こう」
レオンが、静かに、しかし力強く言った。仲間たちは無言で頷き、光の螺旋階段へと足を踏み入れる。
一歩、また一歩と登るごとに、体が軽く、力がみなぎっていくのを感じる。世界樹が、彼らに力を貸してくれているのだ。
しかし、道半ばを過ぎた頃、その神聖な雰囲気は一変した。周囲の光が揺らぎ、壁や床から黒い泥のような影が染み出し始めた。それは、滅びゆく邪神が放つ、最後の怨念だった。
「来るぞ!」
アリアの警告と同時に、影は形を成し、一行の前に立ちはだかった。それは、かつて彼らが戦った守護者たちの姿をしていた。
だが、その姿は禍々しい影に覆われ、瞳には憎悪の光だけが宿っている。影のイフリート、影のウンディーネ、影のシルフ、影のノーム。
「邪神め……我々の記憶を利用して、こんなものを!」
クラウスが忌々しげに呟く。
「相手にとって不足はねえ!まとめてかかってこいや!」
ガルムが雄叫びを上げて突進する。影のイフリートが炎の剣を振り下ろすが、ガルムはそれを真正面からハルバードで受け止めた。
「お前の熱は、本物じゃねえ!サラマンダーの聖なる炎に比べりゃ、線香花火みたいなもんだぜ!」
かつて苦しめられた灼熱の攻撃に、ガルムは一歩も引かなかった。
「レオン、水の幻影は私たちがやりますよ!」
クラウスがレオンに呼びかける。
コノハが聖なる炎で影のシルフの風を焼き払い、その隙にアリアが影のノームの動きを射抜く。
レオンとクラウスは、かつて心の弱さを突かれた影のウンディーネに相対する。
『お前の心には、まだ闇がある……』
影がレオンのトラウマを呼び覚まそうとする。だが、レオンは揺るがなかった。
「確かに、私には弱さがある。だが、今の私には、その弱さごと支えてくれる仲間がいる!お前のような偽物の言葉に、惑わされるものか!」
彼の剣が、迷いなく影を切り裂く。クラウスの魔法が、幻影を打ち砕く。
彼らはもう、かつての彼らではなかった。旅を通じて得た絆と経験が、過去の幻影を打ち破る力となっていた。
怨念の魔物たちを次々と打ち破り、一行はついに、光り輝く頂上へと続く、最後の扉の前に立った。
世界樹の頂上。そこは、言葉を失うほどに美しい場所だった。
眼下にはエデンの全景が広がり、空には星々が、まるで手を伸ばせば届きそうなほど近くに瞬いている。世界の天井。神々の庭。
その中央に、巨大な水晶の蕾が、静かに脈動していた。邪神の封印の核。
一行がゆっくりと近づくと、その蕾がまるで長い眠りから覚めるかのように、ゆっくりと開き始めた。
中から現れたのは、特定の形を持たない、不定形の『闇』だった。それは、星々の光さえも吸い込んでしまうような、絶対的な『虚無』。
生きとし生けるものが持つ、希望、愛情、喜びといった全てのポジティブな感情を喰らい、それを糧とする存在。大いなる災厄。古の邪神『アペイロン』。
『……来たか。我が永劫の眠りを妨げる、小さき光の粒よ』
アペイロンの声は、男でも女でもなく、老いても若くもなかった。それは、魂に直接響く、冷たい虚無の声だった。
その姿は、見る者によって異なって見えた。
レオンには、彼を帝国から追放した、冷酷な上官の姿に。
ガルムには、故郷で唯一敗北を喫した、好敵手の不遜な笑みに。
アリアには、穢れに蝕まれる世界樹の、最も痛ましい姿に。
クラウスには、父の死の真相を知りながら、それを隠蔽した帝国の重鎮たちの顔に見えた。
それぞれが抱える、最も深い恐怖と絶望の具現化。それがアペイロンの第一の攻撃だった。
しかし、コノハにだけはその姿が全く違って見えていた。
(うわあ……なんだろう、この黒いの。真っ黒に焦げ付いて、苦くて、硬くて……なんだか、ものすごく不味そうな何か、ですね……)
彼女の目には、邪神はただの「失敗した料理」のようにしか映っていなかった。
『我は虚無。我は終焉。万物は我に帰す。友情?希望?愛?笑止。そのような儚い光は、我が無限の闇の前では、瞬きする間に消え去るわ』
アペイロンは、精神攻撃と同時に、物理的な攻撃を開始した。虚無のエネルギーでできた黒い球体が、雨のように降り注ぐ。
「惑わされるな!あれは我々の心が生み出した幻影だ!」
レオンが叫ぶ。仲間たちは互いに背を預け、最後の戦いに挑んだ。
「お前が誰に見えようが関係ねえ!俺がぶっ飛ばすのは、目の前の敵、ただ一人だ!」
ガルムが巨大な盾のように仲間たちの前に立ち、虚無のエネルギー弾をその身で受け止める。その気迫は、かつての『絶対防御』を彷彿とさせた。
「クラウス、奴のエネルギーには周期がある!凝縮する瞬間、中心核が一瞬だけ無防備になる!」
アリアが、エルフならではの鋭い動体視力で、虚無の核の動きを見抜く。
「了解した!レオン、ガルム、奴の注意を引け!」
レオンとガルムが左右から猛攻を仕掛け、邪神の意識を逸らす。
その隙に、クラウスが詠唱を完了させた。
「四大精霊の力、我が魔力と合わせ、今こそ邪を討つ光となれ!――テトラ・エレメンタル・バースト!」
火、水、風、土の力が渦を巻き、一つの巨大な光の奔流となってアペイロンの核を直撃した。
『ぐ……おおおおっ!小賢しい……!』
初めて、邪神から苦悶の声が漏れた。
だが、アペイロンはまだ倒れない。
『ならば、お前たちの世界そのものを喰らってくれるわ!』
邪神はその不定形の体を、世界樹の頂上全体に広げ始めた。世界そのものを無に帰そうとする、最後の攻撃。天と地が揺れ、星々の光が消え、絶対的な闇が全てを覆い尽くそうとしていた。
「ここまでか……!」
誰もが、その圧倒的な力の前に、絶望を感じかけた。その時だった。




