第三十三話:巨人の背骨と風のいたずら
『静寂の湖』での試練を終えた一行は、巫女ルミナの導きに従い、大陸の遥か北方、天を衝くかのように連なる巨大山脈『巨人の背骨』を目指していた。
火の力で体を温め、水の恵みで喉を潤す。一行の旅は、精霊の力を得るごとにより盤石なものとなっていた。
船で大陸の北岸まで移動し、そこからは再び徒歩での旅となる。穏やかだった南の気候とは打って変わり、北の大地は厳しく、空気は常に張り詰めていた。
標高が上がるにつれ緑は姿を消し、ごつごつとした岩肌と万年雪が広がる荒涼とした景色が続く。
「空気が薄いな。呼吸が苦しい」
ガルムがぜえぜえと息を切らす。そんな彼を見てアリアが道端に生えていた高山植物を摘み、手渡した。
「『天の息吹』と呼ばれる草だ。これを噛めば少し楽になる」
その知識と経験は、この過酷な環境において生命線だった。
高地には、この地に適応した独自の魔物が生息していた。鋭い爪を持つ翼猿『ゲイル・モンキー』の群れに襲われた時は、アリアの的確な指示で風下の死角を取り、レオンとガルムが前衛で群れを分断。
クラウスが魔法で動きを封じ、コノハの放つ火球が、正確にリーダー格の個体を撃ち抜いた。
五人の連携は、もはや鉄壁の域に達していた。
ちなみに、ゲイル・モンキーの肉は、コノハ曰く「少し筋っぽいですが、香辛料で煮込めば、とても良い出汁が出そう」とのことだった。
数日間にわたる過酷な登山の末、一行はついに『巨人の背骨』の最高峰へと到達した。そこは、常に雲海が眼下に広がる世界の天井だった。そして、山頂の中央には、巨大な水晶がいくつも天に向かって突き出し、それらが複雑に絡み合って形成された、壮麗な『天空の祭壇』が存在していた。
祭壇の周囲は、立っていることすらままならないほどの絶え間ない暴風が吹き荒れている。
「ここが……風の精霊の祭壇……!」
一行が祭壇に足を踏み入れた瞬間、楽しげで、そして少し意地悪そうな、少女の笑い声が風に乗って響き渡った。
『あらあら、久しぶりのお客様ね。こんな世界のてっぺんまで、よく辿り着いたじゃない。褒めてあげるわ』
風の精霊『シルフ』の声だった。しかし、その姿は見えない。風そのものが、彼女なのだ。
『世界樹のため、ですって?いいわ、力を貸してあげても。でも、タダじゃつまらないでしょう?だから、私とゲームをしましょうよ』
シルフはくすくすと笑いながら告げた。
『私を捕まえてごらんなさいな。この暴風の中で、目に見えない私を。それができたら、あなたたちの勝ち。力を貸してあげるわ』
それは、あまりにも理不尽な試練だった。
「ふざけやがって!出てこい!」
ガルムが力任せにハルバードを振り回すが、刃は空を切るだけ。彼の雄叫びさえも、暴風にかき消されてしまう。
レオンとアリアが、風の流れを読んでシルフの位置を特定しようと試みるが、風は気まぐれにその向きを変えて二人を翻弄する。
「駄目だ!こちらの動きが完全に読まれている!」
「風の壁!」
クラウスが魔法でシルフの動きを制限しようとするが、その壁はより強大な風の渦によって、いとも簡単に吹き飛ばされた。
なすすべがない。一行はただ吹き荒れる風の中で、体力を消耗していくだけだった。
皆が疲弊し、諦めかけたその時だった。
コノハは暴風の中で目を閉じ、くんくんと鼻を鳴らしていた。
「……この風、なんだか、すごくいい香りがしますね」
「匂い?こんな状況で、何を言っているんだ、コノハ!」
「いえ、本当です!標高の高い場所でしか咲かない、『天空の蜜花』の香りです。きっと、この風の精霊さんは甘いものが大好きなんだと思いますよ!」
その、あまりにもコノハらしい発想に、仲間たちは一瞬何を言っているのか理解できなかった。
しかし、コノハは確信に満ちた顔で背負っていた鞄から調理器具を取り出し始めたのだ。
「皆さん、少しだけ時間をください!私が、風さんを捕まえる、とっておきのご馳走を作りますから!」
彼女は暴風の中でも決して倒れないよう、土魔法で足場を固めると、その場で料理を開始した。取り出したのは、船から持ってきた小麦粉、木の実、そしてエデンで採れた蜂蜜。
サラマンダーの『永遠の種火』が、コノハの手元で安定した熱を放つ。コノハは、手際よく生地を作ると、熱した鉄板の上で次々とパンケーキを焼き上げていった。
やがて暴風に混じってバターと蜂蜜の抗いがたいほど甘く、香ばしい香りが漂い始めた。
すると、あれほど気まぐれに吹き荒れていた風の流れが明らかに変化した。全ての風が、まるで引き寄せられるようにコノハが焼くパンケーキの周りに、渦を巻いて集まり始めたのだ。
『な、なんなの、この匂いは……!抗えない……!なんて、甘美な誘惑なの……!』
シルフのうっとりとした声が響く。
風は一点に収束し、その中心に今まで見えなかった、半透明で緑色の髪を持つ美しい少女の姿がふわりと浮かび上がった。彼女の目は、完全にパンケーキに釘付けになっていた。
「はい、どうぞ。『天空のパンケーキ、蜜花スペシャル』です!」
コノハが焼きあがったパンケーキを差し出すと、シルフはふらふらとそれに引き寄せられ夢中で食べ始めた。
『おいしい……!こんな美味しいもの、何千年と生きてきて、初めて食べたわ……!』
その顔は幸せそのものだった。
『もう、降参!降参です!こんなに素敵なものを作れるあなたたちに、私の力を喜んで貸してあげます!』
こうして、風の精霊の試練は、「武力」ではなく、「食欲」によって、見事に打ち破られたのだった。
シルフは約束通り、祭壇の力を解放した。天空の祭壇から、エメラルドグリーンの風の奔流が、竜巻のように天へと昇り、遥か彼方の世界樹へと飛んでいく。
そして、彼女はコノハに白く輝くスカーフを手渡した。
「これは『そよ風のスカーフ』。身につけていれば、どんな暴風の中でも、春の陽だまりの中にいるように穏やかでいられるわ。おまけに、食べ物の鮮度を永遠に保つ効果もあるから、あなたにぴったりでしょう?」
こうして、一行は風の精霊の祝福を得て、最後の祭壇へと向かうことになった。




