第三十一話:静寂の湖と沈黙の民
『ラ・キュイジーヌ・シュプリーム号』は、エデン大陸の雄大な海岸線に沿って西へと進路を取っていた。『永遠の種火』を得て、船内の雰囲気はこれまで以上に活気に満ちている。
数日間の航海の末、一行はついに大陸の西の果てである『静寂の湖』へと到達した。そこは、海と巨大な淡水湖が奇跡的な地形によって隣接する場所だった。湖の水はまるで磨き上げられた黒水晶のように静まり返り、周囲の霧深い山々や、鉛色の空を鏡のように映し出している。
その名の通り、風の音さえも吸い込んでしまうかのような絶対的な静寂が支配していた。
「ここが……静寂の湖。なんと、魔力の流れさえも穏やかだ」
クラウスが船のへさきに立ち、その異様な雰囲気に息をのむ。
「巫女ルミナの話では、水の精霊の祭壇は、この湖の底深くに沈んでいるという。しかし、どうやって潜る?」
アリアが湖面を睨む。見た目は穏やかだが、その底知れない深さは見る者に原始的な恐怖を感じさせた。
一行が湖への進入方法を思案していると、霧の向こうから一艘の小さな丸木舟が音もなく近づいてきた。舟を漕いでいたのは、灰色のローブを深く被り、顔を見せない一人の人物だった。
「『外の者』よ。この湖に、何用かな」
その声は、水面を渡るささやきのように直接脳内に響いてきた。テレパシーによる対話だった。
「我々は、世界樹を救うため、湖の底にあるという水の精霊の祭壇を目指している。どうか、道を開けてはいただけないだろうか」
レオンが、代表して丁寧に答える。
舟の人物はしばらく沈黙していたが、やがてゆっくりと頷いた。
『……世界樹のため、とあらば、止めはすまい。我らは『沈黙の民』。古より、この湖と水の精霊様をお守りしてきた者。祭壇へ至るには、精霊様の試練を乗り越えねばならぬ。覚悟があるのなら、ついてくるがよい』
そう言うと、丸木舟は再び音もなく霧の中へと滑り込んでいった。一行は『ラ・キュイジーヌ・シュプリーム号』を入り江に停泊させ、小舟に乗り換えてその後を追った。
『沈黙の民』に導かれ、一行は湖の中央にそびえる、苔むした巨大な石の祠へとたどり着いた。
『ここが、湖底神殿への入り口。これより先は、我らも立ち入れぬ聖域。精霊様は、汝らの心を試されるだろう。決してその静寂を乱してはならぬ』
忠告を残し、『沈黙の民』は姿を消した。
祠の中は水で満たされた螺旋階段が、どこまでも深く続いていた。
「水中呼吸の魔法が必要だな」
クラウスが魔法を全員にかける。一行は覚悟を決め、冷たい水の中へと身を投じた。
湖の底は想像を絶するほど美しかった。光苔が放つ淡い青色の光に照らされ、巨大な水草が揺らめき、水晶のような魚たちが群れをなして泳いでいる。まるで異世界の星空を旅しているかのようだった。
しかし、その美しさとは裏腹に、湖底には奇妙な圧力が満ちていた。それは物理的な水圧ではない。精神に直接働きかけてくる、静寂の圧力だった。
少しでも気を抜くと過去の辛い記憶や、心の奥底に潜む不安が、幻覚となって目の前に現れるのだ。
「くっ……!」
レオンの目の前には、帝国を追われることになった、かつての同僚たちの嘲笑が浮かび上がる。
ガルムは、故郷で一度だけ敗れた、好敵手の幻影に歯ぎしりした。
アリアは、穢れによって枯れていく森の姿に、悲痛な表情を浮かべた。
クラウスは、父の無念の死の場面がフラッシュバックし、呼吸が乱れる。
「皆さん、しっかりしてください!これは幻です!」
コノハの声が、皆の心に響く。不思議なことに、彼女だけは全く幻覚の影響を受けていないようだった。彼女の心は、これから出会うであろう未知の食材への期待で満たされており、不安や恐怖が入り込む隙間が、そもそも存在しなかったのだ。
「大丈夫ですよ。どんなに辛いことがあっても、美味しいご飯を食べれば、元気になりますから!」
その、あまりにも単純で、あまりにも力強い言葉に、仲間たちは我に返った。そうだ。自分たちは一人ではない。
四人は互いに顔を見合わせ頷き合うと、精神を集中させ、幻覚を振り払った。心の弱さを克服した彼らの前には、壮麗な湖底神殿の入り口が、その姿を現していた。




