第三十八話:深淵の魔女と、決意の髪飾り
自室に駆け込むなり、アイはベッドへと倒れ込んだ。枕に顔をうずめ、足をばたばたとさせる。
「……ああ、もう! なんなのですか、あの男は!」
彼女は一人、悶えていた。脳筋騎士のあの言葉が、頭の中でぐるぐると回り続ける。
『すげえ似合ってるぜ』
『綺麗だぞ』
『特別な儀式の時にしか見られないなんて、残念だな』
(……だ、だからといって! 両親の前で、あんなストレートに言う馬鹿がどこにいますの!?)
顔が熱い。心臓が、まだうるさい。
彼女はしばらくそうして一人、羞恥と怒り――という名の喜び――に身悶えていたが、ふと、脳裏に最後のガルムの言葉が蘇った。
『残念だな』
ぴくり、とアイの動きが止まった。
彼女はゆっくりと顔を上げる。鏡に映る自分の顔は、まだ少し赤い。
(……残念……ですって……?)
彼女のあまりにも天邪鬼な思考回路が、独特の解釈を始めようとしていた。
(……フン。あの脳筋戦士め。わたくしがこの聖遺物を身につけた真の姿を、もっと見たいと……そう申すか)
(……まさか、わたくしが恥ずかしがって、もう二度とつけないとでも思ったのかしら? ……見くびられたものですわね)
彼女の黒い瞳に、好敵手としての闘志の炎が再び宿った。すっくと立ち上がると、昨日大切にしまったはずの宝石箱を開ける。そしてその中から、あの星屑鋼の髪飾りを取り出した。
「良いでしょう」
彼女は鏡の中の自分自身に、不敵な笑みを浮かべた。
「そこまで言うのであれば、見せてあげるわ。この黒姫アイの、真の輝きを……。『残念』だなどと、二度と言わせないように! 今日一日中これをつけて、貴様の目の前で見せつけてやるわ!」
彼女はその髪飾りで、いつもは右目を隠している長い前髪をかき上げた。
現れたその情熱的な赤い瞳。いつもとは違う、少しだけ大人びて、そして驚くほど美しいその姿。
「あの男に、わたくしの本当の『美貌』を思い知らせてやるのですから!」
こうしてアイは、自らの羞恥心を一周回って闘争心へと変換させた。彼女は再び戦いの舞台へと戻るべく、部屋の扉を勢いよく開けた。その顔にもはや恥じらいはない。ただ、これから始まる美の戦いへの絶対的な勝利を確信した、女王の笑みが浮かんでいるだけだった。
その面倒くさくも、少しだけ可愛らしい宣戦布告を、階下でのんきにパンケーキのおかわりを待っている朴訥な戦士は、まだ知る由もない。
アイは自室の扉を、ゆっくりと、そしてドラマチックに開けた。一歩、また一歩とリビングへと続く階段を降りていく。その足取りは、まるで舞踏会へと向かう女王のようだった。彼女の心の中は、これから始まる美の戦いへの高揚感で満ち溢れていた。
(見るがいい、脳筋戦士よ。これが我が真の姿。お前のその陳腐な褒め言葉さえも霞んで見えるほどの、絶対的な美の暴力……!)
彼女がリビングへとその姿を現した瞬間。食卓にいたクロガネ、チヨミ、そしてガルムの三人は、一斉に彼女の方を向いた。
アイはその視線を一身に浴びながら、ふっと挑戦的な笑みを浮かべた。新しい髪飾りは朝の光を浴びてキラキラと輝いている。いつもは隠されている右の瞳が、その強い意志を物語っていた。
いつもとは全く違う、娘の姿。三人は三者三様の反応を見せた。
まず、チヨミはその手に持っていたティーカップをそっとソーサーに置くと、うっとりとため息をついた。
「まあ、素敵……。アイちゃん、本当によくお似合いですわ……」
その声は心からの称賛に満ちていた。
次に、クロガネはコーヒーの入ったカップを置くと、眼鏡の奥の瞳を細めた。そして深く、深く頷いた。
「うむ。我が娘ながら完璧だね。これで我が家の因果律のバランスは完全に調和した。素晴らしいぞ、我が娘よ」
いつも通りの、少しだけズレた最大級の褒め言葉をかける。
そして最後に。この茶番劇の全ての元凶である、ガルムは、口いっぱいにパンケーキを頬張っていたが、アイのその姿を見るとごくりとそれを飲み込んだ。
そして彼はなんのてらいもなく、心の底から思ったことをそのまま口にした。その顔には、太陽のような満面の笑みが浮かべていた。
「そっちの方がずっと良いぜ、アイ! やっぱりすげえ似合ってる!」
両親の褒め言葉にはふふんと、自慢気にしていたが、ガルムの称賛の言葉に、アイは完全に固まってしまった。
彼女が予想していた反応はこうではなかった。
自分のあまりの美しさに相手が言葉を失い、うろたえ、そして赤面するという展開を期待していたのだ。
だが、目の前のこの男はただ子供のように嬉しそうに、にこにこと笑っているだけ。まるで、「ほら、俺の言った通りだっただろ?」とでも言いたげに。
彼女の渾身の宣戦布告は、相手が土俵に上がってこなかったことで完全に不発に終わった。彼女は戦う前から負けていたのだ。この男の底なしの天然と、鈍感力(という名の誠実さ)の前に。
「……あ……う……」
アイは何か言い返そうとしたが、もはや言葉が出てこなかった。彼女はただ顔を真っ赤にしながら、その場に立ち尽くすしかない。
その気まずい(とアイだけが思っている)空気を救ったのは、チヨミの優しい一言だった。
「あらあら、アイちゃん。いつまでもそこに立っていないで。あなたのパンケーキが冷めてしまいますわよ?」
「……はい……」
アイはとぼとぼと自分の席に着いた。そして少しだけ不貞腐れたようにパンケーキを頬張る。
だがその味は、なぜかいつもよりほんの少しだけ甘く感じられた。
自分の髪でキラリと輝く髪飾りのせいだろうか。
あるいは目の前で相変わらず豪快に食事を続ける、この朴訥な戦士のせいだろうか。
その答えを見つけるのは、まだ少しだけ先の話である。
アイが真っ赤な顔で、しかしどこかまんざらでもない様子でパンケーキを頬張っている。
そのあまりにも微笑ましい光景に、クロガネはくっくっと喉を鳴らして笑い、チヨミは穏やかな聖母のような笑みを浮かべていた。
そして彼女は、この甘酸っぱい茶番劇の最後の仕上げに入った。チヨミは優雅に紅茶を一口飲むと、まるで何気ない世間話でもするかのように二人に問いかけた。
「さて、アイちゃんも落ち着いたことですし」
彼女はにっこりと笑った。
「今日、お二人はどうするのかしら?」
そのあまりにも自然で、あまりにも核心を突いた問い。アイはびくりと肩を震わせ、ガルムはきょとんとして顔を上げた。
「え? どうするって……」
ガルムは本気で分かっていなかった。
今日の予定は、昨夜アイとスミレと『ギルド本部の暗黒リフォーム計画の設計図を完成させる』という話だったはずだ。
だが、チヨミの目はアイを見ていた。その目はこう語っていた。
(さあ、どうするの、アイちゃん? 昨日ガルムさんにあんなに素敵な髪飾りを買ってもらったではありませんか。そのお礼をしないという、無粋な娘ではありませんわよね?)
その母からの無言の、しかし絶対的な圧力。
アイはぐぬぬ……と言葉に詰まった。
そうだ。このまま何事もなかったかのように家で設計図を描くなど、昨日あれほどの贈り物(と屈辱的な褒め言葉)をくれたこの男に対して、あまりにも礼を欠くではないか。
(……仕方ありませんわね……!)
アイは意を決して立ち上がった。
そしてリーダーとして完璧な威厳をその身に纏い(必死で取り繕い)、ガルムに告げた。
「聞くがいい、第一騎士よ」
「お、おう」
「本日、貴様には新たなる任務を与える!」
彼女はビシッとガルムを指さした。
「我が深淵の美学を、その脳筋の脳みそに叩き込むための『芸術鑑賞の旅』に出るのだ! わたくしが直々にこの街の美術館や骨董品店を案内してやる! 光栄に思うがいい!」
アイの大げさで、取ってつけたような口実に、ガルムはきょとんとしていたが、すぐに快活に笑った。
「おお! 美術館か! よく分かんねえが、面白そうだな!」
こうしてアイの人生で初めての、そして最も不本意な(しかし少しだけ楽しみな)デートの予定がここに決定した。クロガネとチヨミは顔を見合わせ、満足げに頷き合う。
(まあ、アイちゃんも素直じゃありませんこと)
(うむ。あれが、あの娘なりの精一杯の誘い文句なのだろう)
全てはこの二人の手のひらの上で完璧に転がされていることを、アイとガルムはまだ知らない。
彼らの少しだけぎこちない休日は、まだ始まったばかりである。




