第三十七話:深淵の魔女と気まずい朝
翌朝、アイは若干の寝不足だった。
窓から差し込む朝日が、いつもより少しだけ目に染みる。
彼女は昨夜、ベッドに入ってからもずっと、あの髪飾りのことと、あの脳筋戦士の真っ直ぐすぎる言葉を思い出してしまい、なかなか寝付けなかったのだ。
(不覚だわ。このわたくしが、たかが髪飾り一つで安眠を妨げられるなど……)
彼女は深いため息をつくと、重い体を引きずりリビングへと向かった。
そして彼女は、その光景を見て一瞬、足を止めた。
リビングの食卓では、既に父クロガネ、母チヨミ、そしてなぜか、すっかりこの家の一員のように馴染んでいるガルムが、和やかに朝食を食べていた。
「おお、アイ。おはよう」
父が魔導書から顔を上げる。
「あら、アイちゃん。おはようございます。昨夜はよく眠れましたこと?」
母が、全てをお見通しといった顔で優しく微笑む。
そして、ガルムは口いっぱいにパンを頬張りながら、アイの姿を認めると、いつもと全く変わらない太陽のような笑顔で手を上げた。
「おう、アイ! おはよう! 母ちゃんのこのオムレツ、すげえ美味えぞ! お前も早く食えよ!」
昨夜のあの甘酸っぱい気まずい空気を、微塵も感じさせない彼の天真爛漫さに、アイは毒気を抜かれた。
そして同時に、自分の小さな心臓がまた少しだけ速く鳴っていることに、気づいてしまった。
(……この男……! 全く気づいていないというのか……! わたくしが、一晩中どれだけその無神経な言葉に心を乱されていたかを……!)
彼女はその高鳴りを隠すようにぷいっと顔をそむけると、いつもの自分の席へとついた。
「……おはよう、ございます」
その声は、いつもより少しだけ小さく、そして少しだけ不機嫌だった。だが、そんな彼女の乙女心など全くお構いなしにガルムはにっと笑うと、衝撃の一言を放った。
「そういやアイ。昨日の髪飾り、今日はつけねえのか?」
ガルムの、その何の他意もない純粋な質問。それは若干の寝不足と気まずさで不機便だったアイの心に、クリティカルヒットした。
ゴホッ!
彼女は飲んでいた紅茶を、盛大に噴き出しそうになる。クロガネは「クックックッ」と肩を震わせ、チヨミは「あらあら」と楽しそうに笑っている。
「なっ……!?」
アイは顔を真っ赤にしながら叫んだ。
彼女は必死で言い訳を考えた。
(そ、そうですわ! あれはただの髪飾りではありません! 神聖なるアーティファクトなのですから!)
アイは咳払いを一つすると、できるだけ尊大な、いつもの「黒姫アイ」のペルソナをその身に纏った。
「……フン。愚かな脳筋戦士よ。何も分かっておらぬようだな」
「……は?」
ガルムはきょとんとしている。
アイは熱っぽく語り始めた。
「あれはただの装飾品では断じてない! あれは星屑鋼と深海の黒真珠から生み出された、強大な魔力を秘めた『聖遺物』なのだ!」
「そ、そうなのか!?」
アイは頷いた。
「そうだ!あれほどの力を秘めた聖遺物を、無造作に身につけることなど許されん! あれを身につけるには、月と星の配置を読み、自らの魔力の流れが最も澄み切った、特別な儀式の日でなければならないのだ!」
彼女はビシッとガルムを指さした。
「今日のような平凡な朝に、軽々しく身につけて良いものでは断じてない! ……分かったか、貴様!」
壮大でもっともらしい(ように聞こえる)言い訳に、純粋な戦士であるガルムは、その迫力に完全に呑まれてしまった。
「お、おう……! そうだったのか! すげえな、あの髪飾り! ……悪かった、アイ。俺が無知だったぜ……」
彼は本気で感心し、そして謝罪した。
(……ふふふ。どうですの、この完璧な切り返しは……!)
アイは心の中でガッツポーズをした。
だが。
その完璧なはずだった言い訳の化けの皮を、いとも簡単にはぎ取る存在が二人いた。父と母である。
「――ほう」
クロガネが面白そうに言った。
「それは初耳だな。では、その『特別な儀式の日』とはいつなのかな? 我が古文書で、星の配置を占ってやろうか?」
「ええ、素敵ですわね」
チヨミもにこやかに続く。
「その儀式の日のためには、きっと特別なドレスも必要になりますわね。お母様が最高の一枚を仕立てて差し上げますわよ?」
その両親からの、完璧なアシスト(という名の追い打ち)。
アイは「ぐぬぬ……!」と言葉に詰まった。
もうこれ以上、嘘を上塗りすることはできない。
彼女はぷいっと顔をそむけると、やけ食いのように目の前のトーストを頬張り始めた。
「……わ、わたくしは、もう存じません!」
アイのあまりにも分かりやすい照れ隠し。黒姫家のリビングは、温かく、そしてくすぐったいような笑い声に包まれるのだった。
ガルムだけが一人、「儀式の日はいつなんだろうな」と真剣な顔で首を傾げていた。
唐突に、ガルムは呟いた。彼は心の底から残念そうな顔をすると、正直にその気持ちを口にしてしまったのだ。
「でも、そいつは残念だな」
「……は?」
アイがきょとんとする。
ガルムは大きな体を、少しだけしょんぼりとさせながら言った。
「いや、だってよ。あんたがその髪飾りをつけてるとこ、すげえ綺麗だったからよ。特別な儀式の時にしか付けているのを見られないなんて、もったいねえなあって思っただけだ」
彼の真っ直ぐで悪意のない、純粋に残念がる気持ち。それは、アイの必死で作り上げた理論武装の最後の壁を、いとも簡単に打ち砕いてしまった。
「なっ……!?」
先ほどまでの尊大な魔女の仮面はどこかへ消え去り、そこにはただ顔を真っ赤にしてうろたえる、一人の女の子がいた。
「そ、そそそ、そのような俗な目で、我が聖遺物を見るでないわ!」
彼女はしどろもどろに叫ぶ。娘のあまりにも初々しい反応に、クロガネはついに堪えきれず、「ぶはっ!」と噴き出し、チヨミは、「まあまあ!」と楽しそうに微笑んでいる。
アイはもはや、その場にいられなかった。
「わたくしは、もう部屋に戻りますわっ!!!!」
アイの、その悲鳴に近い捨て台詞と、ばたばたと階段を駆け上がっていく足音。それが完全に聞こえなくなった後。黒姫家のリビングには、三人の大人たちだけが残された。
クロガネ、チヨミ、そして完全に状況が理解できていないガルム。
「……あの」
ガルムは、おそるおそるといった様子で二人に尋ねた。
「……俺、また何かやっちまったか……?」
クロガネとチヨミは顔を見合わせ、そして同時に声を上げて笑い出した。それは心からの、温かく、そして楽しそうな笑い声だった。
「はっはっは! いやいや、君は何も悪くない、ガルム君!」
クロガネは涙を拭いながら言った。
「君はただ、少しだけ『正直』すぎただけだ。……そして我が娘は、そのあまりにも真っ直ぐな言葉の『受け身』の取り方を、まだ知らんだけなのだよ」
「ええ、本当に」
チヨミもまた、くすくすと笑いながら頷いた。
「あの子はああ見えて、昔から本当に不器用な子でしてね。……褒められるのが一番苦手なのですわ」
彼女はガルムの、その大きな体を、母親のような優しい目で見つめた。
そして彼女は悪戯っぽく笑うと、そっとお願いをした。
「だから、ガルムさん。どうか、うちの娘にはもう少しだけ、手加減してやってはくださいませんか?」
その温かい親としての願いを聞いたガルムはきょとんとして、そしてようやく全てを理解した。
(なんだ。……怒ってるんじゃなくて、ただ照れてただけなのか……)
彼は、アイのあの真っ赤になった顔を思い出した。
そして思わず、ふっと笑みをこぼした。
「おう。分かったぜ、父ちゃん、母ちゃん」
その自然な呼びかけに、クロガネとチヨミは一瞬目を丸くし、そしてさらに嬉しそうに顔を綻ばせた。
こうして、黒姫家の朝の食卓は、またしても温かい笑い声に包まれた。
一人の不器用な戦士と、一人の不器用な魔女。
その二人のぎこちない距離感を、一番楽しんでいるのは、もしかしたらこの全てをお見通しの両親なのかもしれない。




