第三十六話:深淵の魔女のささやかな抗議
店の外の涼しい夕暮れの風が、二人の火照った顔に心地よかった。しばらく二人とも何も言えず、気まずい沈黙のまま並んで歩いていた。その沈黙を破ったのは、意を決したアイの、小さなしかし芯のある声だった。
彼女は、ガルムの方をまっすぐに見ることはできず、少しだけ前を歩きながら言った。その声は、まだ少しだけ上ずっていた。
「……あのですね、ガルム」
「……お、おう」
「……その……ああいうこと(可愛いとか、綺麗とか)を、あまり面と向かって言われると……その、わたくしも心の準備というものが……! ……恥ずかしい、です……!」
それは、怒っているというよりは、むしろ軽い抗議に近かった。彼女なりの、精一杯の照れ隠し。
彼女の、あまりにも可愛らしい本音の抗議。ガルムは、ようやく自分がどれだけ彼女を混乱させてしまったのかを理解した。彼は、ばつが悪そうにその大きな頭をがしがしと掻いた。そして、彼は心からの謝罪の言葉を口にした。
「……ああ。……その、なんだ。……声に出してたとは、気づかなかったんだ。……すまねえ」
ガルムの不器用な謝罪を聞いたアイは、ふいっと顔をそむけた。
「……別に。……もう、良いですわ」
その、小さな呟き。彼女の耳は、夕焼けよりも真っ赤に染まっていた。二人の間には、また沈黙が戻った。
だが、それはもはや先ほどまでの気まずいものではなかった。どこか、くすぐったくて温かい、不思議な沈黙。二人の不器用な距離は、ほんの指先一本分だけ近づいたのかもしれない。その甘酸っぱい夕暮れの帰り道を、オアシス連邦の一番星だけが静かに見守っていた。
アイとガルムは、結局あれからほとんど言葉を交わすことなく、黒姫家の玄関へとたどり着いた。二人の間には、気まずさと、そしてほんの少しの、これまでにはなかった温かい感情が混じり合った、不思議な空気が流れていた。
(……はぁ。疲れた……。色々な意味で……)
アイは深いため息をつくと、自宅の重い扉を開けた。
「おかえりなさい、アイちゃん、ガルムさん」
扉を開けたその瞬間。そこに立っていたのは、にこにこと満面の笑みを浮かべた母チヨミだった。まるで二人の帰りをずっと待ち構えていたかのような、完璧なタイミング。そして、彼女のそのデザイナーとしての鋭い慧眼は、娘のほんのささやかな変化を見逃さなかった。彼女の視線は、アイのいつもとは違う、少しだけ前髪が横に流された髪型。そして、そこに静かな輝きを放つ、新しい髪飾りに釘付けになった。
次の瞬間。チヨミは、これまでで一番嬉しそうな、そして興奮した声を上げた。
「あらあらあら!? まあ、アイちゃん!」
彼女は娘の元へと駆け寄ると、その美しい髪飾りを、目を輝かせながら覗き込んだ。
「なんて可愛らしい髪飾りなのでしょう! その星屑鋼の繊細な細工! 中央の黒真珠の気品のある輝き! ……そして何よりも!」
彼女は娘の顔を両手で優しく包み込んだ。
「あなたのその美しい黒髪と瞳に、最高に似合っているわ! ああ、なんて素敵なのかしら!」
母のストレートな賛辞に、ようやく落ち着きかけていたアイの心臓が、再び警鐘のように鳴り響き始めた。顔がカッと熱くなるのが分かった。
「お、お母様! そ、そんな大声で……!」
「あら、ごめんなさいな。あまりにも素敵だったものですから」
チヨミはくすくすと悪戯っぽく笑うと、隣で気まずそうに立っているガルムに、ウインクを一つ送った。
「ガルムさんも、なかなかお目が高いですこと」
「えっ!? い、いや、俺は、ただ……!」
もはや、アイに逃げ場はなかった。彼女は母によってリビングの大きな鏡の前へと連れて行かれ、そこから数十分にも及ぶファッションショー(という名の、母のお着替えごっこ)に付き合わされることになる。
「この髪飾りには、やはりもう少し首元が開いたドレスが合いますわね」
「ああ、いっそ新しいドレスを、今から仕立ててしまいましょうか!」
あまりにも楽しそうな母と、されるがままになっている娘の姿。ガルムは、その光景をただ呆然と見つめていたが、やがてふっと笑みをこぼした。そして、彼は心の中でそっと呟いた。
(まあ、なんだ。あんな嬉しそうな顔されるんなら、買ってやった甲斐もあったってもんだな)
そして、その全ての一部始終を、書斎の陰から父クロガネが満足げな笑みで見守っていたことも、まだ誰も知らない。
その夜も、黒姫家の食卓は温かい笑い声に包まれていた。もはや普通にこの家に泊まっているガルムは、チヨミが作った絶品のグラタンを、大きな口で頬張っている。その、あまりにも見慣れた光景。
アイは、もういちいち突っ込むのも面倒になったのか、黙って自分の食事を進めていた。
食事が一段落し、クロガネが食後酒のグラスを傾けていた、その時だった。彼は、それまで読んでいた魔導書をぱたりと閉じると、ガルムに向き直った。その学者のような穏やかな顔には、父親としての真摯な表情が浮かんでいた。
「ガルム君」
クロガネが静かに切り出した。
「改まって礼を言う。娘に、あのような素敵な贈り物をありがとう」
クロガネの真っ直ぐな感謝の言葉に、ガルムは、少しだけ驚き、そして照れくさそうに頭を掻いた。
「い、いや……! 頭を上げてください、クロガネさん!」
彼は慌てて言った。
「俺の方こそ、宿泊と毎日の美味い飯のお礼を言わなきゃならねえ!」
そして、彼は少しだけ言いづらそうに付け加えた。
「それに……その、なんだ。日頃、あんたの娘さんには色々と世話になってるからな。俺みてえな脳筋の面倒も、なんだかんだで見てくれてるしよ」
初々しく、温かい二人のやり取り。そのすぐ隣で。アイは何も言えず、ただ顔を真っ赤にしながら、黙って俯いていた。自分の知らないところで交わされる、自分についての会話。それは、彼女にとってこれ以上ないほど恥ずしく、そしてくすぐったい時間だった。
母のチヨミは、そんな娘と実直な若者の二人の様子を、まるで、お気に入りの恋愛小説でも読んでいるかのように、うっとりとした満足げな表情で見つめていた。
クロガネは、ガルムのその誠実な言葉に、満足げに頷いた。
「そうか。ならば良い。君のような男が娘の傍にいてくれるのなら、我々も安心だ」
彼は、にやりと笑った。
「これからも、我がこの少し偏屈な娘のことを、よろしく頼むぞ。……未来の第一騎士殿」
その、あまりにも意味深な一言。
「み、未来の……!?」
ガルムは顔を真っ赤にし、そしてアイは、ついに堪えきれず、「わたくし、もうお部屋に戻りますわ!」と叫びながら、リビングを飛び出していってしまった。
自室に戻ったアイは、ベッドの上にどさりと身を投げ出した。天井には、スミレが描いてくれた禍々しいドラゴンの絵が、闇の中で静かにこちらを見下ろしている。いつもの、落ち着く自分だけの深淵の城。だが、今夜はなぜか少しだけ落ち着かなかった。心臓がまだ少しだけ速い。顔の火照りも、まだ完全には引いていない。
「……あの脳筋戦士め……」
アイはぶつぶつと呟きながら、ゆっくりと体を起こした。そして、机の上にそっと置かれていた、昼間にガルムから贈られたあの髪飾りを手に取った。
月明かりが窓から差し込み、その髪飾りを照らし出す。夜空のように深い青色の星屑鋼。その中央で、静かな輝きを放つ黒真珠。それは、彼女がこれまで見てきたどんな宝飾品よりも、美しく、そして気高く見えた。
アイは、そのもらった髪飾りをただじっと眺めていた。
(こんな素敵な物を、もらってしまって……)
彼女の胸の中に、様々な感情が入り混じる。彼が自分のためにこれを選び、そして気前よく金貨を払った、あの時の驚き。
「綺麗だぞ」と真っ直ぐに言われた時の、心臓が跳ね上がるような恥ずかしさ。そして今、この美しい贈り物を独り占めしている、このくすぐったいような嬉しさ。
「……フン。わたくしはチョロい女ではないのよ……」
彼女は誰に言うでもなく呟いた。だが、その声は全く力がなかった。
彼女は鏡の前に立つと、もう一度その髪飾りを自分の黒髪にそっと挿してみた。やはり、驚くほどしっくりと馴染む。まるで最初から自分のために作られたかのようだった。彼女は、その鏡の中のいつもとは少しだけ違う自分の姿を見つめた。そして、つい思ってしまった。
(……こんなに綺麗な髪飾り……。汚してしまったらどうしましょう……。なんだか、付けて外に出るのがもったいないですわ……)
それは、彼女が生まれて初めて抱いた、大切で愛おしいものを、そっと宝箱にしまっておきたいという、少女のような感情だった。彼女は慌ててその髪飾りを外すと、自分の一番大切な宝石箱の中にそっとそれをしまった。そして、その箱をぎゅっと抱きしめた。
その夜、深淵の魔女は少しだけ眠れなかった。胸の中に芽生えてしまった、この温かくて面倒で、そしてどうしようもなく心を乱す新しい「感情」の名前を。彼女はまだ知らなかった。ただ、その宝石箱だけが、彼女の秘密の宝物として、月明かりの下で静かに輝き続けているのだった。




