第三十五話:深淵の魔女と、黒薔薇の喫茶店
アイがガルムを連れて行った先。それは、首都の少し入り組んだ裏路地にひっそりと佇む、一軒の店だった。
黒を基調とした禍々しい構え。扉には美しい鉄細工の黒薔薇の紋章が飾られ、窓はステンドグラスで中の様子を窺うことはできない。看板には、流麗な筆記体で『黒薔薇の館』とだけ記されていた。
「……おい、アイ」
ガルムは、そのあまりにも個性的すぎる店の外観に、少しだけたじろいだ。
「……ここが、あんたのお気に入りなのか?」
「ええ、そうよ」
アイの口元に、自信に満ちた笑みが戻っていた。
「ここは、この国で唯一、わたくしの深淵の美学を理解している、名店ですわ」
彼女は、その重い扉をゆっくりと押し開けた。
店の中は、外観のイメージを裏切らない、ゴシック調の美しい内装だった。薄暗い店内を照らすのは、アンティークの燭台の光だけ。だが、不思議と居心地の悪さはない。むしろ、静かで落ち着いた大人の隠れ家のようだった。
「あら、アイちゃん。いらっしゃい」
カウンターの奥から、穏やかな声がした。そこに立っていたのは、黒い上品なドレスを身にまとった、初老の美しい女性だった。彼女がこの店の店主らしい。店主は、アイを見かけると、まるで常連の姪にでも話しかけるかのように、気軽に声をかけてきた。
「まあ、今日は珍しい。屈強な騎士様もご一緒なのね」
彼女はガルムの姿を認めると、悪戯っぽく笑った。そして、彼女はアイの新しい髪型に気づいた。
「……それに、アイちゃん。なんだか今日は雰囲気が違うわね。その髪飾り、とても素敵よ。いつもより、ずっと表情が優しく見えるわ」
店主の的確な指摘に、アイは少しだけ顔を赤らめながらも、嬉しそうにはにかんだ。そして、彼女は席に着くと、いつもの尊大な態度ではなく、驚くほど上品で丁寧な話し方で注文をした。
「マスター。いつもの『真夜中のブレンド』をいただけますか。それと、ケーキは……そうねえ。今日は気分なので、『漆黒のガトーショコラ』をお願いするわ」
アイのお淑やかで、お嬢様然とした振る舞い。ガルムは、目の前の少女が本当に、いつも自分と言い争いをしているあのアイと同一人物なのか、分からなくなっていた。
店主が注文を受け、厨房へと消えていく。店の中には、静かな音楽だけが流れていた。
ガルムは、そのあまりにも落ち着いたアイの姿に戸惑いながら、尋ねた。
「おい、アイ。なんだか、あんた、ここではいつもと違うんだな」
その問いに、アイは少し驚いたように顔を上げた。そして、彼女は少し寂しそうに、そして少し誇らしげに微笑んだ。
「……そう、見えるかしら?」
彼女は言った。
「この店は特別なのですわ。ここでは、わたくしは『深淵の魔女』を演じる必要がありませんから」
「演じる?」
「ええ」アイは頷いた。
「わたくしのこの趣味(ゴシックな美学)は、普通のお店では少しだけ浮いてしまう。だから、わたくしは自分を守るために、少しだけ大げさな鎧を身につけるのです。ですが、ここは違う。ここのマスターは、わたくしのこの美学を完全に理解してくれている。だから、ここではわたくし、ただの少し変わった趣味を持つ、一人の女の子でいられるのですわ」
初めて聞く彼女の本音。ガルムはハッとした。彼女のあの尊大な態度は、彼女なりの不器用な「武装」だったのだ、と。
そして、この店は彼女がその武装を解き、心を休めることができる、唯一の安息所なのだ、と。
やがて、運ばれてきた極上のコーヒーと濃厚なガトーショコラ。二人はそれ以上、難しい話はしなかった。ただ、静かにその美味しいひとときを味わうだけ。
『黒薔薇の館』の静かで薄暗い店内。二人の間には、先ほどまでの気まずさはもうなかった。
ガルムは、目の前で幸せそうに、そして少しだけ上品にガトーショコラを頬張る、アイのそのいつもとは違う穏やかな素顔を見つめていた。尊大な魔女でもなく、福音団のリーダーでもない。ただの少し変わった趣味を持つ、年頃の女の子。その無防備な姿は、彼がこれまで見てきたどんな屈強な戦士の鎧よりも、なぜか、ずっと眩しく見えた。
(……へへ)
彼は心の中で笑った。
(なんだよ。無理して難しい言葉、使ってねえ方が……)
「こっちのお前の方が、よっぽど可愛いじゃねえか」
その、あまりにも自然に口からこぼれた独り言。それは彼にとって何の他意もない、ただの純粋な「感想」だった。だが、その一言は店内の穏やかな全ての空気を破壊するのに十分すぎた。
カシャン!
アイの手から銀のフォークが滑り落ち、皿の上で甲高い音を立てた。彼女は、食べたばかりのケーキを喉に詰まらせそうになりながら、わなわなと震え始めた。そして次の瞬間、彼女の顔は熟したトマトのように真っ赤に染まっていた。
彼女は勢いよく椅子から立ち上がると、震える指先でガルムをビシッと指さした。その声は完全に裏返っていた。
「な、な、な、なんてことを言うのですか、あなたはっ!!!!」
そのあまりにも唐突な絶叫。今度はガルムの方が、きょとんとする番だった。
「……ん?どうしたんだよ、急に。腹でも痛えのか?」
彼は、まだ自分が何をしでかしてしまったのか、全く理解していない。アイはもはや言葉にならず、「あ、う……」と金魚のように口をぱくぱくさせている。
ガルムは首を傾げた。
(……なんだ?俺、何か変なことでも言ったか……?……可愛いじゃねえかって、思っただけで……)
(……思った、だけで……?)
(…………)
彼の脳内で、先ほどの自分の発言がゆっくりとリピートされる。
そして、彼は悟った。
「あれ?声に、出てたか!?」
そのあまりにも間抜けな確認。アイはもはや怒りを通り越して、羞恥のあまりその場に崩れ落ちそうになっていた。
「き、貴様!我が深淵の魂を、そのような陳腐な言葉で侮辱するとは!万死に値しますわ!」
アイは必死でいつものペルソナを取り戻そうとするが、その声は完全に上ずってしまっている。
「わ、悪ぃ!いや、その、思ったことがつい……!他意はねえんだ!」
ガルムもまた慌てて弁解しようとするが、それは火に油を注ぐだけだった。
その初々しくもカオスな二人のやり取り。それを見ていた店のマスターが、くすくすと喉を鳴らして笑った。そして、彼女は完璧なタイミングで二人に助け舟を出した。
「あらあら、お二人とも。うちのガトーショコラは、時々人の心を素直にしすぎる魔法がかかっておりますので。どうか、お気になさらず」
マスターの粋な一言。
アイとガルムは顔を見合わせることもできず、ただ真っ赤になったまま、もごもごと残りのケーキを口に運ぶ。先ほどまでの穏やかな空気はどこかへ消え去り、そこには心臓の音がうるさいくらいに響き渡る、甘くて苦い沈黙だけが残されていた。
店主の粋な計らいの言葉も、もはや二人の耳には届いていなかった。アイとガルムは残りのケーキを味わうどころか、ただ無心で口の中に詰め込むと、顔を火照らせながらそそくさと会計を済ませ、店を出た。
カラン、と。店のドアベルが、どこか物悲しい音を立てた。




