第三十三話:深淵の魔女と、騎士の不器用な善意
黒姫家の温かい(そして、少しだけお節介な)両親に、笑顔で送り出され、アイとガルムは二人きりで、街の職人通りへと向かっていた。
アイは、恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。だが、自分の両親とあの脳筋戦士の純粋な善意を前にして、悪気がないのが分かるがゆえに怒るに怒れない。
一方、ガルムもまたこの予想外の展開に困惑していた。
(……なんで俺、こいつと二人で髪飾りなんか買いに行くことになってんだ……?)
二人の間には気まずい沈黙が流れる。
その沈黙を破ったのは、やはりガルムの方だった。
彼はその大きな体を少しだけ小さくしながら、ぽつりと謝罪の言葉を口にした。
「……あのよ、アイ」
「……なんですの」
「……ごめんな。俺が朝飯の時に変なこと言ったせいで、こんな面倒なことになっちまって」
彼のあまりにも真っ直ぐな謝罪を聞き、アイはふいっと顔をそむけた。その頬はまだ少しだけ赤い。彼女はぶっきらぼうに、しかしその声には棘がない。
「……確かに、元はと言えば貴様のそのデリカシーのない一言が原因ですわ」
「……うっ」
「ですが、それに乗っかって勝手に話を進めた我がお母様が一番いけないのですから。……だから、あなたは気にすることではありませんわ」
その不器用な、しかし確かな「許し」の言葉に、ガルムは少しだけ安堵した。二人の間の空気は、ほんの少しだけ和らいだ。
やがて二人は、チヨミが紹介してくれたという髪飾り専門の工房へとたどり着いた。そこは小さいながらも、気品のある美しい店だった。
店主である年老いたドワーフの職人は、話を聞いていたのか二人を温かく迎え入れた。
「おお、お待ちしておりましたぞ。黒姫様のお嬢様と、そのお連れの騎士様」
店の中には、宝石や貴金属で作られた目も眩むような美しい髪飾りが、ずらりと並んでいた。だが、アイはそのどれにも興味を示さなかった。
「フン。光り輝くだけの俗な装飾品には興味はありませんわ。もっと、こう……我が深淵の魂を表現するような、禍々しくも美しいものはないのかしら」
アイのあまりにも面倒な注文に、職人は困った顔をした。
ガルムは、その二人のやり取りを黙って見ていた。
そして彼はふと、店の隅に飾られていた一つの髪飾りに目を留めた。
それは派手な宝石はついていない。ただ、夜空のように深い青色の希少な金属『星屑鋼』を、茨の蔓のように編み上げた、繊細で美しい一品だった。
その中央には一粒だけ、小さな黒真珠が月の光のように静かな輝きを放っている。それはまるで、アイ自身のようだった。気高く孤高で、しかしその心の奥底には優しい光を秘めている。
「――親父さん。あれを見せてくれ」
ガルムが指さしたその髪飾りに、職人は目を丸くした。
「おお、お客さん、お目が高い! そいつはウチの最高傑作の一つだ! だが、値段もちと張るが……」
職人が差し出したその髪飾りを、アイは見た。そして彼女もまた、その美しさに息をのんだ。それはまさしく、彼女が心の奥底で求めていたデザイン、そのものだった。
だが、彼女はその値札を見てすっと顔をそむけた。
(……金貨十枚……。無理ですわ。わたくしの今月のお小遣いでは到底……)
彼女が諦めて「帰りましょう」と言いかけた、その時だった。
「――親父さん。そいつ、貰うぜ」
ガルムの、そのあまりにもこともなげな一言。カウンターの上に無造作に置かれた、十枚の金貨。
店主とアイは、そのあまりにも見事な即決ぶりに驚いていた。
「……お、お客さん……本気かい……?」
ドワーフの職人は目を丸くする。
「これほどの逸品を値切りもせず即決とは……。はっはっは! 気に入った! あんた、最高の男前だな!」
ドワーフは腹を抱えて豪快に笑った。だが、アイは笑えなかった。彼女は自分の手の中に握らされた、そのずしりと重い髪飾りをただ見つめていた。
金貨十枚。それは自分たちの劇団の、数ヶ月分の活動資金に匹敵する大金。
(……こ、こんな高価なものを……わたくしに……?)
彼女の心臓が、どくん、どくんと速い鼓動を打ち始める。それは恐怖でも、緊張でもない。生まれて初めて経験する驚きと、そして胸がいっぱいになるような嬉しさだった。
「さあ、お嬢ちゃん!」
ドワーフの店主がにっと笑った。
「せっかく旦那が買ってくれたんだ。さっそく付けていったらどうだ?」
「えっ!? い、今、ここでですの!?」
「おうよ!」
アイは戸惑いながらも、その美しい星屑鋼の髪飾りを、自らの黒髪へとそっと挿した。長い前髪が少しだけ横に流され、いつもは隠れている右の美しい瞳があらわになる。
ガルムは、その姿をじっと見つめていた。そして彼は、思ったことをそのまま口にした。どこまでも真っ直ぐに、そして裏表なく。
「――やっぱりな。俺が思った通りだ」
彼はにっと歯を見せて笑った。
「すげえ似合ってるぜ、アイ。……綺麗だぞ」
その、あまりにもストレートな褒め言葉。アイはもう、いっぱいいっぱいだった。彼女の頭の中は、完全にショート寸前だった。
「……あ……う……」
彼女は意味のなさない言葉を呟くと、顔を真っ赤にしながらくるりと背中を向け、店の外へと駆け出してしまった。
「お、おい、アイ!?」
ガルムは慌ててその後を追いかけるのだった。
店を出てしばらく歩くが、まだ日は高い。
アイは黙ったまま、自分の少しだけ変わった髪型を気にしながら、とぼとぼと歩いている。その心臓は、まだ破裂しそうなほどドキドキしていた。
ガルムはそんな彼女の様子に、ようやく気づいた。
(……あれ? もしかして俺、また何かやっちまったか……?)
彼は気まずい空気を変えようと、必死に話題を探した。
「……あ、あのよ、アイ。もう昼だな。昼食はどうしようか?」
その問いに、アイはぴたりと足を止めた。彼女の興奮は、まだ冷めない様子だった。彼女は今の自分に必要なものを、瞬時に判断した。
「そうね……」
彼女は振り返ると、少しだけ潤んだ瞳でガルムを見上げた。
「少しだけ……頭を冷やす必要がありそうですわね……」
彼女は通りの向こうにある、お洒落なカフェを指さした。
「まずは、冷たい飲み物を飲みに行きましょう」
それは彼女なりの、不器用な「もう少しだけ一緒にいたい」というお誘いの言葉。
ガルムはもちろん、そんな乙女心の機微に気づくはずもなく。
「おお! いいな! 俺、喉がカラカラだったんだ!」
と、快活に笑うだけだった。
ただ、アイの髪で輝く黒真珠だけが、その甘酸っぱい午後の全てを見ているかのように、静かに輝いていた。




