第三十ニ話:深淵の魔女、己の心に戸惑う
翌朝、アイは自室のベッドで目を覚ました。
窓の分厚いベルベットのカーテンの隙間から差し込む、一筋の朝日。
そのあまりにも平和で穏やかな光が、なぜか今日の彼女にはひどく眩しく感じられた。彼女はゆっくりと身を起こすと、ふと我に返った。
(……おかしいですわ)
彼女は、この数日間の自らの行動を冷静に振り返り始めた。
(一体、わたくしは、何を……?)
まず、あの脳まで筋肉でできているはずの戦士に、リーダーとしての威厳を示そうとした。……はずだった。
なのに、気づけば酒場で飯を奢り、挙句の果てには、あの筋肉ダルマを我が家の神聖なる客室に泊めてしまった。
それだけではない。
わたくしの、あの完璧な美学を持つ両親が、なぜかあの男をすっかり気に入ってしまった。
父は彼を「王の器」と称え、母は彼をモデルに新作の衣装をデザインし始めた。
そして、極めつけは。
街を歩けば親子と間違われ、レストランでは記念写真を撮られ、昨日に至っては彼と一緒に公共事業(公園改造)を成功させてしまい、その達成感に悪くない気分になっていた自分がいる。
(……おかしい。何もかもがおかしいですわ!)
アイは頭を抱えた。
これは、わたくしではない。
深淵の闇を統べる孤高の魔女、黒姫アイの行動では断じてない。
(そうだわ。これはきっと戦略。彼という単純で強力な駒を手懐けるための、高度な心理的駆け引き……!)
彼女は必死にそう自分に言い聞かせようとした。だが、彼女の心は正直だった。父と母がガルムを褒めた時、自分のことのように誇らしい気持ちになったのは、なぜ?
親子だと間違えられた時、あのどうしようもない羞恥心と同時に、胸の奥が少しだけ温かくなったのは、なぜ?
そして、何よりも。
彼女はベッドの枕元に置かれた一枚の羊皮紙を見た。それは昨夜、ガルムと二人で眠い目もこすらず夢中で描きなぐった、『ギルド本部・暗黒リフォーム計画』の設計図だった。
「玉座は黒曜石で」「柱にはドラゴンの彫刻を」「そして酒場には、エールが無限に湧き出る泉を設置するのだ!」
そんな馬鹿馬鹿しくも楽しかった会話が蘇る。
彼女は気づいてしまったのだ。
今日、彼とその馬鹿げた計画の続きをするのが、楽しみで楽しみで仕方がないと思っている自分に。
「……なっ……!?」
アイはわなわなと震え始めた。
この感情はなんだ?
この胸の奥でぽかぽかと温かく、そして少しだけくすぐったい、この感覚は。
これは、リーダーとして部下を思う気持ちとは違う。
これは、好敵手として相手を認める気持ちとも違う。
これは……。
ドン!ドン!ドン!
その時、部屋の扉が控えめに、しかし力強くノックされた。
「おーい、アイ!起きてるかー?朝飯、できたってよ!」
扉の向こうから聞こえてくる、あの脳天気で力強い声。アイはびくりと肩を震わせた。
そして彼女は、生まれて初めてどう返事をすればいいのか分からなかった。
いつものように「うるさいわね、脳筋戦士!」と尊大に言い放つべきか。
それとも……。
彼女は真っ赤になった顔を両手で覆い、ベッドの上でごろごろと転げ回り始めた。
「……ああ、もう!わたくしは、一体、どうしてしまったのかしらーっ!!」
その乙女の悲痛な叫びは、もちろん扉の向こうの朴訥な戦士に届くはずもない。
深淵の魔女、黒姫アイ。
彼女の人生における最大の、そして最も面倒で、最も手に負えない「バグ」は、案外すぐそばにいたのかもしれない。
「おーい、アイ!寝てるのかー?」
扉の向こうからのその脳天気な声に、アイははっと我に返った。
(……いかん、いかん!わたくしとしたことが、この脳筋戦士ごときに心を乱されるなど……!)
彼女は数回深呼吸をすると、いつもの完璧な「黒姫アイ」のペルソナをその身に纏った。
そして、できるだけ尊大に、そして不機嫌そうに返事をした。
「――フン。……聞こえておるわ。今、行く」
アイがリビングに降りてくると、そこにはいつも通りの、しかし彼女にとってはもはや少しだけ直視しがたい光景が広がっていた。
両親とガルムが和やかに朝食を食べており、アイもまた黙って自席に座った。食卓の空気は穏やかだったが、それは嵐の前の静けさに過ぎなかった。
ガルムは、チヨミが焼いた完璧なパンケーキを幸せそうに頬張っていた。そして彼は、ふと隣に座るアイの顔を見た。
彼女はいつものように、長い前髪でその美しい顔の右半分を隠している。彼は、何の下心も悪意もなく、ただ純粋に思ったことを口にした。
「なあ、アイ」
「……なんだ」
アイは不機嫌そうに答えた。
「あんた、その前髪。いつも右目を隠してるけどよ。……もったいなくねえか?」
「……は?」
「いや、だってよぉ。お前、すげえ美人なんだから、顔の右側が隠れてるより、出した方がもっと可愛いんじゃねえか?って思っただけだ」
しーーーーーーん……。
黒姫家のリビングの時が止まった。
クロガネは、読んでいた魔導書のページをめくる手を止め、その眼鏡の奥の瞳で面白そうに笑いを堪えている。
チヨミは「あらあら、まあまあ」と口元に手を当て、その美しい顔がこれ以上ないほど嬉しそうに綻んでいた。
そして、アイは。
ゴホッ!ゲホッ!!
彼女は飲んでいたコーヒーを盛大に噴き出しそうになり、激しくむせた。
「き、ききき、貴様っ!!」
アイは涙目で顔を真っ赤にしながら、ガルムを指さした。その声は完全に素に戻っていた。
「な、な、何を言い出すのだ、貴様は!この前髪は、我が魔眼の暴走を抑えるための神聖なる封印であって、断じてお洒落などでは……!」
そのあまりにも分かりやすい狼狽ぶり。
だが、ガルムは全く気づいていない。
彼はきょとんとして首を傾げた。
「だってよぉ。昨日、あんたの親父さんと母ちゃんに見せてもらった、小さい頃のアルバム。……そこん中のお前、前髪短くて両目出てたけど、すげえ可愛かったぜ?……だから、もったいねえなあって思っただけなんだが……」
その無邪気で、あまりにも破壊力のある追い打ちに、もはやアイに反撃する術はなかった。
狼狽えるアイ。
「……うふふふ」
それまで楽しそうに成り行きを見守っていたチヨミが、ついに助け舟(という名の、さらなる燃料投下)を出した。
彼女はパン、と手を叩いた。
「それなら、良いことを思いつきましたわ!今日はこの後、アイちゃんに似合う新しい髪飾りを、皆で買いに行くというのはどうかしら?」
「お母様!?」
「ええ、ええ。そして、その可愛い髪飾りで、その素敵な前髪を少しだけ上げてみるのです。きっと新しい魅力が開花しますわよ?」
チヨミは悪戯っぽくウインクした。
「ああ、そうだわ!スミレちゃんが迎えに来ても、今日はアイは特別な用事があるから一日中出かけているって、わたくしの方から上手く言っておきますからね」
母の完璧すぎるアシストに、アイは逃げ場がないことを悟った。彼女はただ顔を真っ赤にしながら、うつむくしかない。
そしてチヨミは、ふふふ、と楽しそうに笑うと、さらに余計な一言を付け加えた。
それは娘の全ての逃げ道を完全に塞ぐ、愛情に満ちた最後の一手だった。
「ああ、そうだわ。ちょうどこの街に、わたくしの古くからの知り合いで、国一番の腕を持つ『髪飾りの職人』がいるのよ」
彼女はパン、と手を叩いた。
「今からわたくしが連絡を取って話をつけておくから、二人で行ってきなさいな!」
「お母様っ!!」
アイの悲痛な叫びも、もはや母の耳には届かなかった。
クロガネは「クックックッ……」と肩を震わせ、笑いをこらえきれていない。
こうして、その日の留守番組の予定が、唐突に決まった。
それは、一人の不器用な戦士の天然の一言から始まった、『深淵の魔女・イメチェン大作戦』。
アイの人生で最も恥ずかしく、そして最も心臓に悪い一日が、今始まろうとしていた。
ガルムだけが何が起こったのか分からず、「髪飾り、か。まあ、いいんじゃねえか?」と、のんきにパンケーキを頬張っているのだった。




