第二十一話:楽園の味、森の掟
幽霊船との遭遇からさらに数日後。船内の誰もが、世界の異変を感じ始めていた。
空の色が見たこともない深い藍色に変わり、夜空に浮かぶ星々の配置は、既知のどの星座とも異なっていた。空気中に含まれる魔力の濃度が日に日に高まり、体が軽く、力が漲るような感覚があった。
「見てください!」
コノハが指さす先、海面から巨大な魚が飛び出し、その背中に生えた翼で、優雅に空を滑空していく。
「間違いない。我々は、世界の理が異なる海域に入ったんだ」
クラウスが興奮した面持ちで言う。
そして、その日はついに訪れた。
見張り台にいたガルムが、雷のような大声で叫んだ。
「見えたぞ!大陸だー!」
全員が甲板に駆け出す。
水平線の彼方にそれはあった。
天まで届くのではないかと思われるほどの巨大な木々。山頂から海へと直接流れ落ちる、虹のかかった幾筋もの巨大な滝。緑、赤、金、見たこともない色とりどりの植物に覆われた大地。
あまりにも雄大で、神秘的で、そして神々しい光景に、誰もが言葉を失った。ここが、古海図に示された、始まりの地『エデン』。
一行は、巨大な滝の脇にある鏡のように穏やかな入り江に『ラ・キュイジーヌ・シュプリーム号』を停泊させた。上陸の準備を整え、ついに未知なる大陸の土を、その足で踏みしめた。
「すごい……!空気そのものが、美味しいです!」
コノハは大きく深呼吸し、その全身でエデンの生命力を感じていた
上陸後、一行は船を拠点とし、まずは周辺の探索から始めることにした。鬱蒼と茂る森はまさに宝の山だった。
「レオンさん、見てください!この果物、切ったら中から蜂蜜が溢れてきます!」
「ガルムさん、そっちのキノコは食べると体がポカポカして力が湧いてきますよ!でも食べ過ぎは注意です!」
「クラウスさん、この葉っぱ、ものすごく良い香りがします!きっと素晴らしいスパイスになります!」
コノハは森に入るなり、次々と未知の食材を発見し、その瞳は好奇心でキラキラと輝いていた。その知識と嗅覚は、この未知の大陸でも健在だった。
「よし!少し早いですが、ここで昼食にしましょう!この七色に輝く鳥を捕まえて、丸焼きに……」
コノハがやる気満々で腕まくりをした、その瞬間だった。
ヒュンッ、と鋭い風切り音と共に、一本の矢がコノハの足元の地面に突き刺さった。
「!?」
全員が即座に武器を構える。いつの間にか、一行は周囲を完全に包囲されていた。木々の上や茂みの中から、緑色の衣服をまとった鋭い目つきの一団が姿を現す。尖った耳、しなやかな体つき、そして全員が弓を構えている。
「エルフ……!」
クラウスが驚きの声を上げる。
エルフの一団の中から、リーダーらしき女性が静かに前に進み出た。
「聖なる森を荒らす『外の者』よ。何をしに来た」
その声は、凛として美しかったが、明確な敵意が込められていた。言葉は、クラウスがかろうじて聞き取れる古代語に近いものだった。
「我々は森を荒らすつもりはない。ただ、この大陸を調査するために来た、しがない冒険者だ」
クラウスが慎重に言葉を選び、対話を試みる。
「言い訳は無用。このエデンは、汝らのような穢れた存在が足を踏み入れて良い場所ではない。ましてや、森の聖なる生き物に手をかけようとは……万死に値する」
エルフたちの弓が一斉に引き絞られ、空気が張り詰める。一触即発。まさにその時だった。
「あの……」
緊迫した空気の中、コノハが全く意に介さない様子でエルフのリーダーに話しかけた。
「あなた方が食べている、その腰の袋に入っている木の実、もしかしてそのままかじっているだけですか?」
コノハの視線の先には、エルフたちが携帯食として持ち歩いている黒くて硬い木の実があった。
「……それがどうした。これは、我らを守る世界樹様が与えてくださる聖なる糧だ」
エルフのリーダーが怪訝な顔で答える。
「やっぱり!見たところ、すごく繊維が硬くて渋みも強そうですね。でも、ちゃんと調理すれば、きっと、もーーーーっと美味しくなりますよ?」
「何を馬鹿なことを。聖なる糧の味を、外の者に変えられるものか」
エルフたちは嘲るように笑った。
「できるものなら、やってみろ」リーダーが挑発するように言った。
「では、お言葉に甘えて!」
コノハはにっこり笑うと、レオンたちに「ちょっと待っててくださいね」と言い残し、エルフたちから聖なる木の実を数個受け取った。
彼女は携帯用の調理器具を取り出すと、まず硬い木の実を石で叩いて砕き、近くの湧き水に浸した。そして、森で摘んだアク抜き効果のある葉を揉みこんでいく。しばらくすると、水の黒い色が抜け実が柔らかくなった。
次に、それをすり潰して生地を作り、蜂蜜が溢れる果物から採った蜜を練り込む。生地を平たく伸ばし、熱した石の上で丁寧に焼き上げていく。
やがて、香ばしくて甘い素晴らしい香りが森に立ち込めた。
「はい、どうぞ!『世界樹の実のスイートビスケット』です!」
コノハが差し出したのは、先ほどまで黒く硬い木の実だったものとは思えない見事な焼き菓子だった。
エルフたちは半信半疑で、そのビスケットを口に運んだ。
その瞬間、彼らの目に衝撃が走った。
サクッとした食感。口の中に広がる、木の実本来の豊かな風味と、蜂蜜の上品な甘さ。渋みや硬さは完全に消え、聖なる恵みが持つ、真の美味しさが引き出されていた。
「な……なんだ、この味は……!」
「聖なる実が……こんなにも、美味しいなんて……!」
エルフたちは、自分たちの数百年の食文化が、目の前の小柄な少女によってほんの数分で覆された事実に愕然としていた。
敵意は消え、その目には畏敬と純粋な好奇心が浮かんでいた。




