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私、ただの料理人なんですけど、どうやら世界を救ってしまったらしいです  作者: 時雨
第七部:英雄達は食卓を繋ぐ

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第二十一話:深淵の騎士、モデルになる


 アイは母の依頼を必死に制止する。

「お母様!ガルムは、お客様ですわ!そのような、はしたないお願い、おやめなさい!」


 チヨミは、「あらあら、残念ですわ」と、本気で肩を落としていた。


 ガルムは、その二人のやり取りと、目の前の温かい目玉焼きを、見比べていた。

(……はしたない、か……)

 彼は、思った。確かに、いきなり「モデルになれ」と言われて、最初は驚いた。


 だが、考えてみれば、この家族は、昨夜、宿無しだった自分を何の見返りもなく、温かく迎え入れてくれた。


 そして今朝もまた、こんなに美味しい朝食をご馳走してくれている。この家族の純粋な善意。

(……それに、まあ……)


 彼は、ちらりとチヨミの方を見た。彼女の、そのデザイナーとしての目は、本気だった。


 自分のこの鍛え上げた肉体が、彼女の芸術家としての魂に火をつけたのだとしたら、それを無下に断るのも、男として少し野暮というものかもしれない。


 ガルムはふっと息を吐いた。そして、決意を固めた。彼は穏やかな気持ちになってきて、それくらいなら良いかと思ったのだ。


 これもまた、一宿一飯の礼でもある。

「いいぜ」


 ガルムが、ぽつりと呟いた。

「え?」


 チヨミとアイが、同時に彼の方を見る。ガルムは、少しだけ照れくさそうに、頭を掻きながら言った。

「モデルだろ?……俺で良いんなら、なってやるよ。……まあ、そのなんだ。昨日の宿代と、この美味いメシの礼だと思ってくれや」


 ガルムの男前で不器用な承諾の言葉を聞いた次の瞬間、チヨミの顔が、ぱあっと花が咲くように輝いた。

「まあ!本当ですか!?嬉しい!ありがとうございます、ガルムさん!」


 彼女は、まるで少女のように、手を叩いて喜んでいる。そして、その目には既に、デザイン画の炎がメラメラと燃え盛っていた。

「ああ、どんな衣装が似合うかしら!やはり、まずは黒鉄の重厚な鎧……いえ、その美しい筋肉のラインを最大限に活かすなら、やはり革と鎖を基調とした、バーバリアン風の……!」


 一方、その隣で。

「……は?」

 アイは、完全に固まっていた。

(な、なんですって……?この脳筋戦士……。まさか、お母様のあの無茶な申し出を受ける、ですって……!?)


 彼女の脳内は、混乱していた。そして、その脳裏に、これから起こるであろう未来の光景が、浮かび上がった。


 自分の実家のアトリエで。上半身裸のガルムが、オイルをテカテカに塗りたくられ、母の指示で、次々と恥ずかしいポーズを取らされている、その姿が。

(……い、いやああああああああっ!!!)


 アイは、心の中で絶叫した。

(わたくしの深淵の第一騎士が!わたくしの知らないところで、お母様の着せ替え人形にされてしまうなんて!そんなこと、断じてあってはならないわ!)


 だが、時既に遅し。

 クロガネも、「うむ!それは良い!ガルム君のその英雄譚を、我が家の歴史として肖像画に残すのも一興だな!」などと、言い出し、話はどんどん大きくなっていく。


 ガルムの男気あふれる申し出が受け入れられた、その直後。

「さあ、ガルムさん!早速ですが、行きましょう!!」


 チヨミは、もはや待ちきれないといった様子で、目を輝かせながらガルムに近づいた。そして彼女は、彼の分厚い胸板に、プロのデザイナーとして、純粋な興味から手を触れようとしながら、興奮気味に言った。

「まずは、その素晴らしい上半身を、脱いでいただいて……!」


 そのあまりにも直球すぎる要求にガルムは、顔をトマトのように赤くしながら、たじろいだ。

「えっ!?い、今すぐ、ここで……!?」


 その気まずい空気を、切り裂くように。

「ちょっ!!!ちょっと、待ちなさい、お母様!!!」


 アイが、まるで雷に打かれたかのような勢いで立ち上がり、二人の間に割って入った。

「お母様、何を仰っているのですか!?ここは朝食の席ですよ!いくらなんでも、いきなりそのようなはしたないお願いは困ります!」


 アイの顔は、耳まで真っ赤に染まっている。彼女は、必死で母を窘めようとするが、その声は完全に裏返っていた。

「あら、アイちゃん、何をそんなに慌てているの?」


 チヨミは、きょとんとした顔で娘を見返した。

「素晴らしい素材を目の前にして、すぐにその美しさを記録しておきたいと思うのは、芸術家として当然の衝動でしょう?ガルムさんも、別に嫌とは仰っていないようですし?」


 彼女は、首を傾げ、ガルムに同意を求めるような視線を送った。ガルムは、曖昧な笑みを浮かべながらあたふたしている。

(い、いや、別に嫌ってわけじゃねえけど……朝飯食ってる最中に、いきなり脱ぐのも、どうなんだ……?)


「そ、それは、そうかもしれませんけど!」

 アイは、なおも必死に抵抗する。

「だとしても!まずは、ちゃんとアトリエの準備をしてからでしょう!?照明だとか、背景だとか!そんな準備もなしに、いきなり脱ぐなんて、ガルムの、その……素晴らしい肉体が台無しになってしまいます!」


 彼女は、本心と照れ隠しが混ざり合い、普段は決して口にしないような褒め言葉を、必死で並べ立てた。

その、あまりにも必死な娘の様子を見て、クロガネは、楽しそうにコーヒーを啜りながら呟いた。

「ほほう……アイも、なかなか良いことを言うじゃないか。確かに、最高の作品を創るためには、準備も重要だからのう」


 チヨミは、「まあ、あなたまで……」と、少しだけ不満そうな顔をしたものの、「確かにそうね。焦ることはないわ」と、気を取り直した。


 そして彼女は、ガルムに満面の笑みで言った。

「ガルムさん、ご心配なく。最高の舞台を用意して、あなたのその見事な肉体美を、余すところなく記録させていただきますわ!楽しみにしていてくださいね!」


 ガルムは、「は、はい……」と、引き攣った笑顔で答えるしかなかった。アイは、その様子を見て、心の中で深くため息をついた。

(結局、モデルになるのは確定なのね……。せめて、わたくしの目の届く範囲で監視しておかなければ……!)

こうして、深淵の騎士の予期せぬモデル活動は、朝食の席での騒動を経て、本格的に始動することになった。アイの苦難の日々は、まだ始まったばかりである。



 朝食の後、約束通り、チヨミはガルムを自室の隣にあるアトリエへと案内した。アイは、「わたくしが第一騎士の威厳を見届けてやりますわ」というもっともらしい理由をつけて、しっかりとその後ろに続いていた。


 その部屋に足を踏み入れた瞬間、ガルムは昨夜の客室以上の衝撃を受けた。そこは、もはや部屋ではなかった。


 壁一面に黒いレースと深紅のベルベットが張り巡られ、薄暗い室内を照らすのは、無数の蝋燭の炎だけ。部屋の隅には、リアルな人骨標本や、謎の古代の魔導具が、オブジェのように飾られている。

 そして、その中央には、巨大なキャンバスと、おびただしい数のデザイン画が散乱していた。


「……す、すげえな……」

 ガルムは、そのあまりにも濃すぎる世界観に、ただ圧倒されるしかなかった。


「さあ、ガルムさん!」

 チヨミは、デザイナーとしてのプロの顔になっていた。その瞳は、獲物を見つけた芸術家のそれに、爛々と輝いている。


「まずは、そこに。……そう、その嘆きの玉座に座ってくださいな。少し物憂げな表情で」

 ちなみに、嘆きの玉座はただのアンティークの椅子である。



 そこから、ガルムにとって地獄のポージング指導が始まった。

「違う、違う!もっと、こう、世界の終焉を憂うかのように!肩の力を抜いて!でも、瞳の奥には強い決意を!」

「は、はい!」

「次は、立って!その柱にもたれかかり、遠い故郷を思う、流浪の戦士のように!」

「お、おう!」

「素晴らしいわ、ガルムさん!あなたの、その憂いを帯びた筋肉の陰影!完璧よ!」


 チヨミは、凄まじい勢いでデザイン画を描きなぐっていく。

 ガルムは、もはや自分が何をしているのか分からなかった。ただ、言われるがまま、次々と恥ずかしいポーズを取らされているだけだった。


 その一部始終を、腕を組みながら見ていたアイ。彼女は、ついに我慢できなくなった。

「お母様!お待ちください!」


 彼女は、二人の間に割って入った。

「そのポーズは違いますわ!我が深淵の第一騎士の雄々しさが、全く表現できておりません!もっと、こう……!」

 

 アイは、自ら見本を見せるかのように、ビシッとポーズを決めた。

「天に拳を突き上げ、自らの運命を呪う、堕天使のように!ですわ!」

「まあ、アイちゃん、素敵!それも良いわね!」


 こうして、現場は、

「もっと、悲しげに!」と言う母と、

「もっと、禍々しく!」と言う娘と、

 その二人の、全く方向性の違う無茶な要求に板挟みになる、哀れな戦士、というカオスな構図になってしまった。



 数時間後。

 ガルムは、完全にやつれていた。魔獣との十時間に及ぶ死闘よりも、遥かに精神をすり減らした。


 だが、その彼の尊い犠牲のおかげで。チヨミの手元には、一枚の完璧なデザイン画が完成していた。


 それは、ガルムのその圧倒的な肉体美と、アイが理想とする深淵の美学が、奇跡的な融合を果たした、『終焉を告げる、バーバリアン・キング』の衣装デザインだった。

「素晴らしい……!できたわ、アイちゃん!私の最高傑作よ!」

「フン……。まあ、悪くはないわね。彼の筋肉も、なかなか良い仕事をした、ということかしら」


 母と娘は、その完璧な作品を前に、満足げに頷き合っている。ガルムは、その自分がモデルとなった、とんでもなく強そうで、とんでもなく恥ずかしい衣装のデザイン画を見ながら、ぽつりと呟いた。

「俺、もう、家に帰っても、いいかな……」

彼の、その魂からの呟きが、二人の天才芸術家の耳に届くことはなかった。



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