第ニ十話:深淵の騎士、悪夢からの目覚め
翌朝。差し込む朝日の眩しさに、ガルムはゆっくりとその瞼を開けた。
……ん?
最初に感じたのは、背中のあまりにもふかふかすぎる感触だった。
(……なんだ、このベッド……。雲の上で寝てるみてえだ……)
彼は寝ぼけ眼のまま、部屋を見渡した。そして、彼はギョッとした。
そこは、彼がこれまで人生で一度も見たことのない空間だった。
壁は漆黒のベルベットで覆われ、天井からは巨大な水晶のシャンデリアが禍々しい紫色の光を放っている。窓には分厚い深紅のカーテンが引かれ、部屋の隅には鎧をまとった騎士の甲冑が静かに佇んでいる。
そして何よりも、自分が寝ているこの天蓋付きベッドの四本の柱には、それぞれリアルなドラゴンの頭蓋骨の彫刻が施されていた。
「……な、なんだ、こりゃあああっ!?」
ガルムはベッドから飛び起きた。ここはどこだ? 俺は誰だ?昨夜、酒場でしこたま飲んだのは覚えている。だが、その後の記憶が曖昧だった。
(……ま、まさか俺は……! どこかの悪の組織に捕らえられ、改造手術でも施されようと……!?)
あまりにも飛躍した彼の思考が、頭の中を駆け巡ったその時だった。
昨夜の出来事が、一瞬で彼の脳裏に蘇ってきた。酒場でアイと言い争いをし、なぜか彼女の家に行くことになり、人の良さそうな、しかしどこか変わった両親に迎え入れられ、そしてこのあまりにも趣味の濃すぎる客室へと通されたこと。
「……そうだ。俺、昨夜アイの家に……泊まったんだった……」
彼はその場にがっくりと膝をついた。
彼がそのあまりにも現実離れした事実をようやく受け入れた、その時。
部屋の扉がコンコンと控えめにノックされた。
「ガルムさん、お目覚めでしょうか?」
聞こえてきたのは、アイの母、チヨミの穏やかな声だった。
「お、おはようございます!」
ガルムは慌てて扉を開けた。そこに立っていたのは、黒い上品なエプロンドレスを身につけたチヨミの姿だった。
「まあ、よくお眠りになれましたこと?」
「は、はい! おかげさまで!」
「それはようございましたわ。……さあ、朝食の用意ができておりますわよ。顔を洗ってリビングへどうぞ」
チヨミの温かい朝の挨拶に、ガルムの混乱していた頭の中が少しずつ正常に戻っていく。
彼がリビングへと向かうと、そこには既に黒姫家の家族が食卓を囲んでいた。父クロガネが、優雅にコーヒーを飲みながら分厚い魔導書を読んでいる。そしてアイは、眠そうな顔でトーストをかじっていた。その姿は、いつもの尊大な魔女ではなく、ただの寝起きの普通の女の子だった。
「――おはよう、ガルム君」
クロガネが顔を上げる。
「うむ。その寝癖、実に芸術的な爆発だね。混沌の息吹を感じるよ。」
「おはようございます、ガルムさん」
アイがぶっきらぼうに言う。
「……パン、食べますか?」
彼女は焼きたてのトーストを一枚、ガルムの皿に乗せてくれた。穏やかで、平和な朝の光景。
ガルムは、自分が本当にあの奇妙で恐ろしい『深淵の福音団』のリーダーの家にいるのだということが、まだ信じられなかった。
(なんだか、普通に良い家族じゃねえか……)
彼は差し出されたトーストを一口。その焼きたての温かい味が、彼の心にじんわりと染み渡っていく。
(なんだか、毒気が抜かれちまうな……)
ガルムがそう思いながらトーストを一口かじった、その時だった。
それまで魔導書に視線を落としていたクロガネが、ふと顔を上げた。そして、その学者らしい穏やかな瞳でガルムを見つめると、静かに話しかけた。
「――昨日はよく眠れたかい? ガルム君」
その優しい問いかけに、ガルムは思わず口の中のトーストを喉に詰まらせそうになった。
彼は必死でそれを飲み込むと、慌てて答えた。
「お、おう!……いや、はい! おかげさまで! ぐっすりと!」
彼は嘘をついた。
本当は、あの魔王の寝室のような部屋で一晩中、金縛りにあう夢と壁のドラゴンのタペストリーが自分に話しかけてくる幻覚にうなされていたのだが、戦士としてのプライドがそれを言わせなかった。
だが、彼のそのわずかな動揺をクロガネは見逃さなかった。彼はくつくつと喉を鳴らして笑った。
「そうか、そうか。ならば良かった。……我が妻の、あの少しばかり過剰な『おもてなし』が君の安眠を妨げたのではないかと、少々心配しておったのだけどね。」
「い、いえ! そんなことは!」
「うむ。ならば良い。君のような実直な魂の持ち主は、きっと深淵の闇とも良い夢の中で語り合えたことであろう」
クロガネのあまりにもズレた、しかし悪意のない解釈に、ガルムはもはや肯定も否定もできず、「は、はあ……」と曖昧に頷くことしかできなかった。
そこへ、母のチヨミがキッチンから、ほかほかの完璧な半熟具合の目玉焼きを運んできた。彼女はにっこりと花が咲くように微笑んだ。
「昨夜はお部屋、少し寒くはありませんでしたか? あなた様のような北国育ちの屈強な方には、少し物足りないかと思いましてよ」
「い、いえ! とんでもねえ!……いや、滅相もございません!」
ガルムの言葉遣いは、完全にぐちゃぐちゃだった。
「そう? それなら良かったわ」
チヨミはそう言うと、アイの皿の上に目玉焼きを一つ置いた。
そして、彼女はふと何かを思い出したように手を叩いた。
「そうだわ、ガルムさん。もしよろしければ、なのですが」
彼女は目をキラキラと輝かせている。
「この後、少しだけお時間をいただけませんこと? あなたのその素晴らしい肉体美を、我が新たなる作品のモデルとしてお迎えしたいのですわ。ええ、もちろん、『深淵を駆ける、蛮族王』のコンセプトで……」
「えっ!?」
その唐突で恥ずかしい申し出に、ガルムは顔を真っ赤にした。
「お、俺がモデル……!?」
「お母様!」
その母の暴走を止めたのは、アイだった。
「彼はお客様ですわ! そのようなはしたないお願い、おやめなさい!」
彼女は珍しく、真っ当な常識人として母を窘めた。
そのやり取りはとても奇妙だった。
ガルムは、そのカオスな朝の食卓の中で、不思議と心が安らいでいくのを感じていた。
(……なんだか、ここ……。俺の故郷のやかましい兄弟たちと飯を食ってる時と、同じ匂いがするな……)
彼は差し出された目玉焼きを一口。その温かい家庭の味が、彼の心にじんわりと染み渡っていく。
深淵の騎士の初めての「お泊まり」は、こうして彼の心に忘れられない温かい記憶を刻み込むのだった。




