第二十話:長い航海の日常と非日常
『ラ・キュイジーヌ・シュプリーム号』がポルト・ソレイユの港を後にしてから、一ヶ月が経過した。
古海図が示す未知の大陸『エデン』は、遥か海の彼方にあり、一行の旅はかつてないほどの長期航海となっていた。
しかし、船上の生活は驚くほど快適だった。
ガルムは改造された広い甲板で、巨大な丸太を担いでのスクワットや、マストを使った懸垂など、日々のトレーニングに余念がない。彼の雄叫びは、もはや船の名物となっていた。
レオンは船長として、天測航法や気象予測など父から叩き込まれた航海術の知識をフルに活用し、着実に船をエデンへと導いていた。その的確な指示は、パーティの絶対的な信頼を得ている。
クラウスは船長室に併設された書斎にこもり、海賊のアジトから持ち帰った膨大な資料や、ポルト・ソレイユで買い込んだ書物を読み解き、エデンに関する考察を深めていた。
そしてコノハは、自身が設計した『究極の厨房』で、毎日腕を振るっていた。船上ハーブ園で採れた新鮮なハーブ、釣り上げた色とりどりの魚、巨大な食料庫に眠る豊富な食材を使い、彼女が生み出す料理は、長い船旅の疲れを癒し、明日への活力を与える最高の糧となっていた。
そんな穏やかな日常が続いていたある夜、船は突如として深い霧に包まれた。それは、霧の諸島で経験したものを遥かに凌ぐ、超自然的な濃霧だった。
「おかしい……海図の上では、こんな場所で霧が発生する記録はない」
レオンが訝しげに呟く。船は完全に停止し、一行は警戒しながら辺りを見回した。
その時、霧の向こうから、きぃ、きぃ、と古い木材が軋むような不気味な音が聞こえてきた。やがて、ぼろぼろの帆を掲げた、おそろしく古めかしい一隻の船が、音もなく姿を現した。
「幽霊船……!?」
クラウスが息を呑む。伝説に聞く海の亡霊。
船からは怨念とも悲しみともつかない、冷たい気配が漂ってくる。甲板には、半透明の人影がいくつも揺らめいていた。
「おいおい、冗談だろ……」
ガルムが身構える。
「待ってください。彼らからは敵意というより深い悲しみを感じます」
コノハはじっと幽霊船を見つめていた。
やがて、幽霊船の中から一際はっきりとした姿の、船長らしき霊体が現れ、力なく語りかけてきた。
『我らは……エデンを目指した探検家……。だが、志半ばで嵐に飲まれ、この海を彷徨い続ける呪いを受けた……。故郷に帰りたい……。温かい、スープが飲みたい……』
その声は、数百年の孤独と渇望に満ちていた。
「スープ……ですね」
コノハは頷くと、踵を返して厨房へと向かった。仲間たちが戸惑う中、彼女はすぐに湯気の立つ大きな鍋を抱えて戻ってきた。
「皆さん、手伝ってください」
コノハは船員たちの霊体に向かって、器によそった温かいスープを差し出すように促した。
それはコノハが船員たちの故郷であろう大陸の食文化を考慮して作った、素朴な野菜と干し肉のスープだった。特別な材料は何もない。だが、そこには作り手の真心が込められていた。
霊たちはおずおずと、しかし貪るようにスープを啜り始めた。実体のない彼らが、どうやってスープを飲んでいるのかは分からない。
だが、彼らの半透明の体が温かい光に包まれていくのが見えた。
『ああ……温かい……。懐かしい、故郷の味だ……』
船長の霊体は、涙を流すかのようにその輪郭を揺らめかせた。満たされた魂は、もはやこの世に未練はない。
『ありがとう、心優しき料理人よ……。礼に一つ忠告をしよう。エデンの中央には世界を支える『世界樹』がある。だが、その根源には、大いなる『災厄』もまた眠っている。決して、油断するな……』
そう言い残すと、船長の魂は満足げな笑みを浮かべ、光の粒子となって消えていった。他の船員たちも次々と昇天していき、幽霊船は霧と共に、跡形もなく消え去った。
「……行ってしまいましたね」
静けさが戻った甲板で、コノハはぽつりと呟いた。
「君は、魂まで救ってしまうんだな」
クラウスが、畏敬の念を込めて言った。この旅で、彼は何度もコノハの持つ力の底知れなさに驚かされてきた。
「世界樹と、災厄……」
レオンは、幽霊船の船長が遺した言葉を、静かに胸に刻んだ。




