第十二話:国境の砦
数日間にわたる過酷な、しかしどこか充実した行軍の末、一行の目の前に、巨大な砂岩を削り出して作られた見張り砦が姿を現した。
「あれが、我が国の東の国境を守る『太陽の砦』です」
アキラが誇らしげに言った。一行はついに、目的地である『サウザーン砂漠連合』の領土へと足を踏み入れたのだ。
砦から出てきたのは、アキラと同じ褐色の肌を持つ精悍な戦士たちだった。彼らはアキラの姿を認めると、驚きと喜びの声を上げた。
「おおっ!アキラ様!ご無事でしたか!」
「東の国への旅から、お戻りになられたのですね!」
だが、その再会を喜ぶ声はどこか切羽詰まっていた。アキラもすぐに、その砦に漂うただならぬ緊張の空気に気づいた。
「どうした? 一体何があった。街は無事なのか?」
砦の隊長らしき男が、アキラの元へと駆け寄ってきた。その顔は疲労と絶望で青ざめている。彼は、アキラの後ろに立つ見慣れない一行の姿に一瞬戸惑ったが、構わず報告を始めた。その声は震えていた。
「アキラ様!一大事なのです!」
「落ち着け。何があった」
「大巫女様が……!シズエ様が三日前から原因不明の呪いにかかり、倒れておられるのです!」
「なっ!?」
そのあまりにも衝撃的な一言。アキラの、そのいつもは太陽のように明るい顔から、さっと血の気が引いた。
「母様が……!?馬鹿な!一体誰が、そんな大それたことを……!」
隊長は悔しそうに首を横に振った。
「わかりません……。宮廷の全ての呪術師が解呪を試みましたが、全く歯が立たないと。シズエ様のお力が弱まるにつれて、オアシスの聖なる泉の水も少しずつその輝きを失い始めています。このままでは、国が……!」
そのあまりにも絶望的な状況。
「なんと痛ましい……」
聖女サヤが胸の前で手を組む。コノハもまた顔を曇らせていた。
(呪い……?シズエさんのような強い方を蝕むほどの……)
「案内しろ」
アキラの声は低く、そして鋼のような硬い意志に満ちていた。
「一刻も早く母上の元へ。そして、この方々はわたくしの客人であり、我らが千年ぶりに再会した星の同胞だ。最高の敬意を以てお連れするのだ」
「は、はい!」
一行ののんびりとした外交の旅は、その瞬間、緊迫した救出任務へと姿を変えた。砂漠の戦士たちが用意した最速のサンドリザード(陸トカゲ)に乗り、一行は砂漠を疾走する。目指すは首都であり、聖なるオアシス。
その揺れるリザードの上で、レオンがカエデに尋ねた。
「カエデ殿。あなたの、あの森羅万象の真理ならば、あるいはその呪いの正体も……」
だがカエデは、静かに首を横に振った。
「情報が少なすぎますわ。実際に見てみなければ、何も。ですが……」
彼女は、ちらりとコノハの方を見た。
「もし、それが本当に悪意のある『呪い』であるならば……わたくしたちが来たのは、不幸中の幸いだったのかもしれませんわね」
その言葉の意味を、アキラはまだ知らない。彼はただひたすらに、母の無事を祈りながら故郷へと急ぐ。
カエデは深いため息をついた。彼女の脳裏に、母コズエのあの言葉が蘇る。
『――たまには自分の足で歩いてみれば、何か良いことがあるかもしれませんよ?』
(……お母様。見ていらっしゃいますか?)
彼女は心の中で母に語りかけた。
(……これがあなたの、おっしゃっていた『良いこと』ですの?……わたくしにはどう考えても、過去最大級の面倒事に自ら首を突っ込んでしまったとしか、思えませんのだけれど……)
静かなる魔女の憂鬱と、そして彼女の妹がこれから起こすであろう奇跡。その本当の物語は、今ようやく始まろうとしていた。
一行がアキラに導かれ、聖なるオアシスへたどり着いた時、その街のあまりの静けさに誰もが息をのんだ。以前コノハたちが訪れた時の、あの活気と笑顔はどこにもない。人々は皆、不安と恐怖に顔を曇らせ、ひそひそと囁き合いながら家路を急いでいた。街の生命線であるはずの聖なる泉の水もまたその輝きを失い、どこかよどんで見えた。
「母上……!」
アキラは神殿の一番奥にある、大巫女シズエの私室へと駆け込んだ。そこには、ベッドの上で静かに横たわる母の姿があった。その顔は青白く、呼吸はか細い。そして全身からは、禍々しいが冷たい不思議なオーラが立ち上っていた。
「母様!」
次代の巫女サラが、涙ながらに母の手にすがりついている。
「サラ……!一体何があった!」
「兄様……!三日前の夜からですわ。母様は急に胸の苦しみを訴えられ、そのまま眠るように……。国中の呪術師や癒し手たちが力を尽くしてくれましたが、誰もこの呪いを解くことができませんの……!」
そのあまりにも痛ましい光景。まず動いたのは、聖女サヤだった。彼女はシズエの枕元に膝をつくと、その清浄な光の魔力を高めていく。
サヤは顔をしかめた。
「これは……悪魔やアンデッドの仕業ではありませんわね。もっと冷たくて陰湿な……人の悪意に満ちた呪いです。ですが、これほどまでに強力で複雑な術式は、わたくしも見たことが……」
次にコノハが、そっとシズエの手に自らの手を重ねた。そして固有魔法『治癒』の力を流し込もうとする。だが。
コノハは驚きの声を上げた。
「だめです……!わたくしの魔力が全く届きません! まるで分厚い氷の壁に阻まれているかのように、全て弾かれてしまいます……!」
コノハの万能のはずの治癒魔法さえもが通用しない。状況は絶望的だった。
仲間たちが為す術もなく立ち尽くす中、それまで部屋の隅で黙って状況を観察していたカエデが、ゆっくりと前に進み出た。彼女は、眠るシズエの顔をじっと見つめた。
そして、そのいつもはやる気のない瞳が、一瞬だけきらりと光を放った。第二の固有魔法『森羅万象の真理』が発動したのだ。
彼女のその瞳には、もはやシズエの苦しそうな寝顔は映っていなかった。彼女に見えていたのは、シズエの魂に複雑に絡みつく無数の禍々しい魔力の「糸」。そして、その全ての糸がたった一つの「核」へと繋がっている、その呪いの完璧な設計図だった。
数秒後、カエデはあっさりと言った。
「なるほど。よくできていますわね」
そのあまりにも場違いな感想に、アキラが食ってかかった。
「カエデ殿!母は今、死にかけているのだぞ!」
「ええ、分かっていますわ」
カエデは穏やかに、しかし絶対的な自信をもって続けた。
「ですがアキラ殿、これはシズエ様を殺すための呪いではありません。ただ、その巫女としての力を封じ込め、眠らせておくだけの、極めて政治的な呪いですわ」
「政治的……だと?」
「ええ」
カエデは神殿の窓の外、西の方角を指さした。
「そしてこの呪いをかけた術者は、ご丁寧に自分の『名刺』を残していってくれていますわね」
「名刺?」
「ええ。この術式を安定させるための触媒として、ごく微量の『石化サソリの毒』が使われている。……この特殊な毒を扱うことができるのは、この国広しと言えどただ一つの部族だけ」
彼女は笑った。その笑顔は、全ての答えを見つけ出してしまった天才のそれだった。
「西の渓谷に住まう『石のサソリ族』。彼らが今回の犯人ですわ」
そのあまりにも鮮やかすぎる謎解き。アキラとサラは息をのんだ。『石のサソリ族』。それは父祖の代から続く最も保守的で、そして今回のオアシス連邦との国交樹立に最も強く反対していた、古老の一族だった。
「彼らが……。何ということだ……!」
アキラの顔が怒りに染まる。カエデはそんな彼に静かに告げた。
「さあ、どうしますかアキラ殿。犯人は分かりました。ですがこの呪いは、かけた本人にしか解くことはできません。つまり、我々がやるべきことは一つ」
彼女のその黒い瞳が、すっと細められた。その瞳にはもはや、面倒くさがり屋のそれではない。全てを見通し、そして全ての駒を動かす『女王』の色が宿っていた。
「『石のサソリ族』のアジトへと乗り込み、首謀者を引きずり出し、そしてこの呪いを解かせる」
そのシンプルで力強い反撃の狼煙。一行の外交の旅は、いつしか一つの国の陰謀を暴き、内乱を鎮めるための壮大な戦いへとその姿を変えようとしていた。
静かなる魔女の本当の「外交術」が、今始まろうとしていた。




