第十話:砂漠への第一歩
獣人たちの国の緑豊かな大地を背に、一行はついに灼熱の砂海へとその第一歩を踏み出した。
太陽が容赦なく照りつけ、足元の砂はフライパンのように熱い。
「うっ……! これはなかなかの暑さだな……!」
騎士の鎧をまとったレオンが、額の汗を拭う。
だが、その過酷な環境も今の彼らにとっては、もはや大きな障害ではなかった。
案内役のアキラが、最も効率的に体力を消耗しない砂漠の民ならではの歩き方を、皆に教える。
コノハは時折、魔法で冷たい水と塩分を補給できる特製のスポーツドリンク(のようなもの)を作り出し、そしてカエデは、不機嫌そうな顔をしながらも一行の頭上にだけ薄い魔力のヴェールを張り、直射日光を和らげてくれていた。(もちろん、その九割は自分のためである)
一行は和気あいあいと、しかし着実に砂漠の道を進んでいく。
しばらく歩き続けた、その時だった。
先頭を行くアキラが、不思議そうに首を傾げながらカエデに尋ねた。彼は、ずっと疑問に思っていたのだ。
「カエデ大使」
「あら、何かしらアキラ殿」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
彼は、一行が今立っている何もない砂漠のど真ん中と、遥か彼方に見える故郷のオアシス連邦の方角を交互に見比べた。
「先ほど我々は、数千キロもの距離を一瞬でここまで参りました。ですが、なぜ我が国へはこのままテレポートでは行かれないのですか?あなたのその神業のような力があれば、この長くて退屈な行軍など一瞬で終わらせられるはず。何か特別な理由でも?」
その真っ当な質問を聞いたその瞬間、その質問の本当の答えを知っているレオンとクラウスの肩が、ぴくりと震えた。
二人人は、(ああ、ついに聞かれてしまった……)という顔で、必死に笑いを堪えている。
(……『母に、ズルしたらどうなるか分かりますわね? と脅迫されているからです』などと、言えるはずもありませんわね……)
カエデは内心冷や汗をかきながらも、その穏やかで完璧な大使の微笑みを崩さなかった。
そして彼女は、その天才的な頭脳をフル回転させ、完璧な「言い訳」を瞬時に紡ぎ出した。
カエデはアキラのその真っ直ぐな瞳を見つめ返すと、穏やかに、そして諭すように言った。
「あらあら、アキラ殿。あなたは大きな勘違いをなさっているようですわね」
「……と、申しますと?」
「わたくしたちが今していることは、ただの『移動』ではありません。これは、二つの国が初めて手を取り合うための神聖なる『儀式』なのですわ」
彼女の、そのあまりにも荘厳(に聞こえる)な言葉。
「考えてもみてくださいな」
彼女は続けた。
「何の挨拶もなく、いきなりあなた方の国の心臓部である聖なるオアシスに我々が姿を現したとしたら? それは『親善大使』の行いではありません。それは『侵略者』のやり方ですわ」
「なっ……!」
アキラは息をのんだ。
「真の友好とは、近道をして築けるものではありません。こうしてあなた方の民が暮らす大地を自らの足で一歩、一歩踏みしめ、あなた方の民が浴びる太陽の光を自らの肌で感じ、そしてあなた方の国の空気と匂いを全身で受け止める。
その過程を経てこそ、初めて我々はあなた方の国を真に理解し、尊敬することができる。わたくしは、そう考えますわ」
その、気高く、相手への敬意に満ちた完璧な外交哲学に、アキラはもはや、返す言葉もなかった。
彼は、目の前のこの美しい黒髪の女性が、ただ強大なだけの魔女ではないことを知った。
その底知れない力の奥には、海のように深く、そして太陽のように温かい叡智が宿っているのだ、と。
彼は自らの浅はかな疑問を恥じ、カエデの前に深く、深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした、カエデ大使! 私の考えが浅はかでした! なんと素晴らしいお考えか! 感服いたしました!」
その感動的な光景を後ろから見ていたレオンとクラウスが、
((……すごい……。ただの母親からの罰則を、ここまで荘厳な外交理念にすり替えてしまうとは……!))
と戦慄していることを、純粋なアキラと聖女サヤはまだ知る由もなかった。
カエデはにっこりと完璧な大使の笑顔を浮かべると、心の中でそっと呟いた。
(……ええ。本当に面倒な旅ですこと)
カエデの、そのあまりにも気高く、あまりにも完璧な外交哲学。アキラは心の底から感服していた。彼は、自らが仕える母や妹と同じ黒髪を持つこの異国の女性に、深い、深い敬意を抱かずにはいられなかった。
(なんということだ……。この方はただ強いだけではない。その思考はどこまでも深く、そして他者への敬意に満ちている。これほどまでに素晴らしい指導者が、本当にいたとは……!)
だが彼は、ただの脳筋戦士ではない。その太陽のような快活さの裏には、守護長として国を支えてきた鋭い知性が宿っている。
彼はしばらくその感動に浸っていたが、ふと一つの素朴な、しかし論理的な疑問が彼の頭に浮かんでしまった。彼は少しだけ申し訳なさそうに、しかし純粋な探究心からカエデに尋ねた。
「カエデ大使。あなた様のその深遠なるお考え、しかと胸に刻みました。……ですが」
彼は、自分自身を指さした。
「……一つだけ、よろしいでしょうか?」
「――その問題は、わたくしが同行していることで解決するのではありませんか?」
「……あら?」
カエデの穏やかだった微笑みが、ほんの少しだけ固まった。
アキラは続ける。
「わたくしはこの国の守護長。わたくしが先にオアシスへ使いを出し、『オアシス連邦の偉大なる大使が、今我が国との友好の証としてこの大地をその足で踏みしめながら、こちらへ向かっておられる! 皆で盛大に出迎えよ!』と伝えればどうでしょう?」
彼はにっと快活に笑った。
「そうすれば、あなた方の突然のご訪問も『侵略』ではなく、最高の『歓迎』へと変わるはず。その上でテレポートでお越しいただくのが、最も合理的で効率的なのではないかと思いましたが……」
アキラの的確で反論のしようのない、完璧な指摘にレオンとクラウスは、((しまった! そこまで頭が回るとは!))と内心、顔面蒼白になった。
カエデの完璧だったはずの詭弁が、今まさに崩れ去ろうとしていた。
だが。
静木カエデは、静かなる魔女である。
彼女の思考速度は、常人のそれを遥かに凌駕する。
彼女は一瞬だけ目を伏せた。
そして次に顔を上げた時。その顔には、先ほどよりもさらに深く、そしてどこか悲しみを帯びた慈愛の表情が浮かんでいた。
「アキラ殿……」
彼女の声は静かだった。
「あなたのその合理的なお考え、素晴らしいものですわ。ですが……あなたはまだ本当の意味で、この砂漠という大地の心を理解してはおられないのかもしれません」
「……え?」
カエデは、その白い指先で足元の熱い砂をそっとすくい上げた。
「わたくしたちが今、挨拶をすべきは、あなた方の民だけではありません」
彼女は、その砂を風にふわりと乗せた。
「この大地に眠る、あなた方のご先祖様の魂。そして、この砂の一粒一粒に宿る名もなき精霊たち。……わたくしが真に敬意を払うべきは、彼らに対してなのです」
彼女はアキラの瞳を、まっすぐに見つめた。
「テレポートで空からいきなり現れる。それは、彼らの千年の眠りを妨げる、あまりにも傲慢で無粋な行いですわ…。ですが、こうして自らの足で一歩、一歩彼らの大地を踏みしめ、汗を流す。それこそが言葉を超えた最高の『祈り』となり、我らが敬意を彼らに伝える唯一の方法……。わたくしは、そう信じていますの」
その、あまりにも神々しく、スピリチュアルで、そして誰も反論することのできない完璧な回答にアキラは完全に打ちのめされた。
(なんと……なんということだ……!)
彼は、自らの浅はかさを心の底から恥じた。
自分はただ効率だけを考えていた。だが、この方はそのさらに先の、魂のレベルでの外交を考えておられたのだ!
「も、申し訳ありませんでした!」
彼はその場にひざまずき、カエデに深々と頭を下げた。
「わたくしはまだ守護長として未熟者でした! その深遠なるお考え、この胸にしかと刻ませていただきます!」
レオンとクラウスは、
((……すごい……。もはや芸術だ……。彼女の詭弁は、神の領域に達している……))
と、畏怖とそしてほんの少しの同情の念で、天を仰ぐしかなかった。
カエデは、そんな仲間たちの心の内など知る由もなく、ただ満足げに「さあ、参りましょうか」と、再び面倒な砂漠の一歩を踏み出すのだった。




