第九話:静かなる魔女の最速外交
オアシス連邦の港は、久方ぶりの盛大な船出に沸き立っていた。
聖女サヤと国の英雄たちが、新たなる同盟国『サウザーン砂漠連合』へと友好の旅に出る。その歴史的な瞬間に、国民たちは色とりどりの紙テープを投げ、別れを惜しんでいた。
「サヤ様、お気をつけてー!」
「英雄様たち、今度のお土産話も期待してます!」
政府の役人たちが巨大な輸送船に最後の贈答品を運び込んでいる、その慌ただしい喧騒の真っ只中で。
静木カエデは、選抜したメンバーを静かに集めた。
コノハ、レオン、クラウス、アリア、アキラ、サヤ、そして、なぜか当然のように巻き込まれてしまったシオリ。
「さて、メンバーは揃いましたわね」
カエデは満足げに頷いた。
「では皆様、参りましょうか」
彼女がそう言って優雅に指を鳴らそうとした、その時だった。
一人の年老いた政府の役人が、顔面蒼白で彼女の元へと駆け寄ってきた。
「か、カエデ大使! お待ちください! ま、まだ船の準備が全く整っておりません! 出航は明日の早朝の予定で……!」
役人の必死の制止の言葉を聞き、カエデは聖母のような穏やかで、しかし一切の同情の色がない完璧な笑顔を向けた。
そして彼女は言った。
「あら。船で行くなどと、どなたがおっしゃいましたか?」
「えっ!?」
「わたくし、船旅はあまり好みませんの。時間がかかりすぎますから。ああ、贈答品のことはご心配なく。また今度、わたくしが気が向いた時に一瞬でこちらへ移動させましょう。全てが終わってからでも良いでしょう?」
彼女はそう言うと、同行する仲間たちの肩にそっと手を置いた。
「では皆様、ごきげんよう」
次の瞬間。
カエデと選抜された七人のメンバーの姿は、港から忽然と消え去っていた。
後に残されたのは、呆然と立ち尽くす首相と役人たちと山のような贈答品。
そして、主を失い、ただ港にぽつんと浮かぶだけの『ラ・キュイジーヌ・シュプリーム号』と、その上で健気に留守番をするガルム、アイ、スミレの三人の姿だけだった。
一瞬の浮遊感。
そして、次に一行が目を開けた時。
そこにオアシス連邦の穏やかな潮風はなかった。肌を焼く熱風。どこまでも続く、乾いた赤茶けた大地。
彼らは、獣人王国『大地の盟約』の、サうザーン砂漠連合との国境付近に立っていた。
数ヶ月かかるはずの船旅が、たった一瞬のテレポートで終わらせてしまったのだ。
二回目の体験とはいえ、その神業の凄まじさに、メンバーは改めて驚きを隠せないでいた。
「便利だが……。何度体験しても、すごすぎるな……」
レオンが呆然と呟く。
「ええ。オアシス連邦からこの獣人王国の国境まで一瞬で来られるとは。もはや、国家間の距離の概念が覆りますね」
クラウスもまた、その規格外の魔法に戦慄を覚えていた。
初めてその神業を体験した聖女サヤは、立っていることもできず、腰を抜かし、その場にへたり込んでいた。
「な……なんという御力……。こ、これがカエデ様の本当の……。神の奇跡と何が違うというのですか……」
カエデは、そんな仲間たちの驚愕など全く意に介さない。彼女は砂漠の地平線を指さした。
「さあ皆様、ここからは母との約束通り、わたくしたちの足で参りましょうか」
その言葉に、アキラが素朴な疑問を口にした。
「母との約束、ですか?」
「あ、いえ。何でもありませんわ」
カエデは一瞬だけ表情を固まらせると、すぐに完璧な笑顔で誤魔化した。
「(うっかりバレる所でしたわ。お母様に、『いきなりテレポートで飛んでいかずに、きちんとその国の大地を自分の足で踏みしめて歩いて行きなさい』と、強く脅さ……いえ、諭されたのを……)」
そのやり取りを見て、レオンとクラウスは静かに顔を見合わせた。
((……やはりな……))
二人は思い出していた。
出発の数日前。オアシス連邦の鈴木家の、静かな中庭での出来事を。
その日、二人はコズエに頼まれていた食材を届けようと、厨房へ向かっていた。
すると中庭から、カエデとコズエの声が聞こえてきたのだ。
それはあまりにも珍しい光景だったため、二人は思わず足を止め、柱の影から聞き耳を立ててしまった。
「カエデ……」
コズエの、その静かで、有無を言わさぬ声。
「まさかとは思いますが。今回の旅もまた、一瞬で全てを終わらせてしまうつもりではないでしょうね?」
「その方が合理的ですわ、お母様」
「いいえ。違います」
コズエはきっぱりと言った。
「外交とは、結果だけではありません。その過程こそが重要なのです。相手の国の大地を自分の足で踏みしめ、その土地の風を肌で感じ、そこに住まう人々の息遣いを聞く。その積み重ねこそが、本当の友好の第一歩となるのですよ」
「…………」
「分かりましたね? カエデ。少なくとも国境を越えてからは、きちんとあなたのその足で歩いて行きなさい。……これは命令です」
「…………はい、お母様」
あの絶対的な力を持つ静かなる魔女、カエデのそのあまりにも素直な返事。
そしてコズエは微笑みながら付け加えた。
「それに……たまには自分の足で歩いてみれば、何か、良いことがあるかもしれませんよ?」
「お母様がそうおっしゃるなら……」
カエデは母の真意はわからなかったが、渋々従うことにした。規格外の魔女も母には逆らえないのだ。
レオンとクラウスは、その時初めて彼女の唯一の弱点(?)を知ったのだった。
(……あのお母君の一言がなければ、今頃我々は、砂漠連合の大巫女の間に直接現れていたのかもしれないな……)
クラウスは砂漠の熱風にため息をついた。
カエデは、そんな二人の心中など露知らず、完璧な満足の笑みを浮かべていた。
「(これで数ヶ月の面倒な船旅は回避できましたわ。お母様との約束も守りましたし、完璧な計画ね)」
こうして、一行のあまりにも効率的で、あまりにも強引な、砂漠の国への外交の旅が始まった。
彼らはまだ知らない。
このカエデのあまりにもマイペースな行動が、砂漠の国で新たなる、そして予期せぬ騒動を巻き起こすことになることを。
全てはこの静かなる魔女の手のひらの上で転がっていく。




