プロローグ:平穏すぎる日常とくすぶる冒険心
世界の歪みが修復されてから一ヶ月が過ぎた。
『ラ・キュイジーヌ・シュプリーム号』は、南の穏やかな群島を目的もなく、のんびりと旅していた。
船の上には平和な時間が流れていた。
「暇だ……」
甲板で巨大な釣竿を垂らしながら、ガルムが大きなあくびをした。
「平和なのは、良いことだがな。こうも毎日、波風一つ立たねえと体がなまって仕方ねえぜ」
その隣では、レオンが甲板を鏡のように磨き上げている。
「何を言うか、ガルム。この穏やかな時間こそ、我々が命がけで守り抜いたものではないか」
そう言う彼の顔も、どこか手持ち無沙汰のようだった。
アリアは船に作った小さなハーブ園で、エデンの植物とこの世界の植物の交配を試みている。
『深淵の福音団』の三人はというと。
「――見よ!我が新たなる大作『漆黒の海竜帝vs.絶望の勇者』!どうだ、この圧倒的な悲劇の造形美は!」
「すごい、アイさん!でも、勇者さんの顔がちょっと泣きすぎじゃない?」
「ええ……。それに、この海竜さんもう少し丸みがあった方が可愛らしいですわ……」
アイ、シオリ、スミレの三人は自分たちの次なる『暗黒人形劇』の新作の構想に夢中になっていた。
そしてコノハはというと。
彼女は厨房で、この島で採れたトロピカルフルーツを使い新作のシャーベット作りに励んでいた。
平和。
それはあまりにも平和だった。
誰もが、この温かい日常を愛していた。だが、同時に心のどこかでくすぶっている冒険の炎を感じずにはいられなかった。
その穏やかな午後の均衡を破ったのは、この船の軍師様だった。
「――皆!大変だ!とんでもないものを見つけてしまった!」
船の自室にこもりきりだったクラウスが、古びた羊皮紙の切れ端を一枚手に、興奮した様子で甲板へと駆け込んできた。
「これはリリウムの街で手に入れた、古代の交易記録の断片だ。解読を試みていたのだが……見てくれ、この一文を!」
彼は羊皮紙をテーブルの上に広げた。そこには、古代文字でこう記されていた。
『――南西の果て、灼熱の砂海に太陽の子ら住まう。
彼らは、星の涙たる塩の湖を守り、砂嵐の心臓に咲くという、『太陽の胡椒』を聖なるスパイスとして崇め奉る。
その一粒は、黄金の輝きを放ち、食した者に太陽の如き活力を与えるという。
ただし、その地へ至る道は流砂と灼熱の悪魔が阻む死の道なり――』
「……たいようの……こしょう……?」
その言葉を聞いた瞬間。
シャーベットを作っていたコノハの手が、ぴたりと止まった。
彼女はゆっくりと振り返った。その大きな黒い瞳は、これまで一行が一度も見たことのないほどの、ギラギラとした狩人の輝きに満ちていた。
クラウスは話を聞き、レオンを始め、一行は様々な反応をする。
「ほう……。活力を与えるか。それは騎士団の携帯食料としても有用かもしれませんね」
「はっ!そんなちっちぇえ、胡椒一粒で腹が膨れるかよ!それよりその『砂漠の悪魔』ってのを食った方がよっぽど力が湧いてくるぜ!」
「まあ、ガルムさん。……ですが、灼熱の砂漠で育つ植物。きっと強い生命力を秘めているはずですわ。薬としても価値があるかもしれません」
「フン。太陽の力ですって?下らない。わたくしの深淵の闇の前ではただのチリに同じ……(ごくり)」
(……今アイ喉を鳴らしませんでしたか?)
最後のアイの発言にシオリが小声で呟く。
「クラウスさん……!」
コノハの声は、わずかに震えていた。
「その『サン・ペッパー』とは、どんな味がするのでしょうか!?食べた者に活力を与えるですって!?それは、お肉料理に合いますか!?お魚料理にも!?それとも、もしかしたらデザートにも!?」
彼女の頭の中は、もはやその未知なるスパイスが生み出すであろう、無限の美食のことでいっぱいになっていた。
彼女のそのあまりの気迫に、クラウスはたじろいだ。
「い、いやそこまではこの文献には……。だが、おそらくは非常に刺激的で芳醇な香りを……」
「行きます」
クラウスの言葉を遮って、コノハは断言した。
その声には一切の迷いはなかった。
「皆さん、行きましょう!その太陽の胡椒を探しに!」
コノハのその鶴の一声。
それは、この船の絶対的な号令だった。
「はっはっは!そうこなくっちゃな!砂漠の悪魔だと!?面白そうだぜ!」
ガルムが釣竿を放り出し、ハルバードを手に取った。
「やれやれ。君がそう言うのであれば仕方ないな。」
レオンも呆れながらも、その顔は嬉しそうだった。
こうして一行の次なる目的地は、満場一致で南西の果て『灼熱の砂海』に決まった。
「では、進路を決めましょう!」
コノハが海図を広げる。
「一番の近道は聖アウレア帝国を南下するルートですが……」
「却下だ」
レオンとクラウスが即答した。帝国に面倒な借りを作るのはもうごめんだった。
「――ならば道は一つしかありませんね」
コノハはにっこりと笑うと、海図のある一点を指さした。
「我らが盟友の国。『大地の盟約』を通らせていただきましょう!」
獣人たちの国を経由すれば、安全に、そしてきっとたくさんの有益な情報を得て、砂漠へと向かうことができるはず。
その完璧なルート設定に誰も異論はなかった。
「砂漠……ですって?」
その会話を聞いていた、福音団の三人。
「日差しが強そうですわね……。わたくしのお人形のお肌が焼けてしまいますわ……」
シオリが不安そうに呟く。
「でも、砂漠のキラキラしたお星様描いてみたいなー!」
スミレが目を輝かせる。
そしてアイは、一人腕を組み不敵な笑みを浮かべていた。
「フン……。太陽の胡椒か。よかろう。我が深淵の闇とどちらがより刺激的か。この舌で確かめてくれるわ」
『至高の一皿』と『深淵の福音団』。
八人の食と冒険を愛する仲間たちを乗せた『ラ・キュイジーヌ・シュプリーム号』は、新たなる未知の味を求めて、再びその純白の帆に風をはらませた。
目指すは灼熱の砂漠。そして、そこに眠るという太陽の秘宝。
彼らのどこまでも美味しい冒険が今、始まった。




