第十話:静かなる魔女のあまりにも忙しい一日
その日の朝。静木カエデの完璧に計算された安眠は、けたたましい魔法通信の着信音によって無慈悲にも破られた。時刻はまだ早朝の五時。
「なんですの……こんな朝早くから……」
カエデは布団の中から指一本動かすことなく、念動力で通信機を操作した。映し出されたのは、国の首相の今にも泣き出しそうな顔だった。
『カエデ君!頼む!起きてくれ、一大事なのだ!』
カエデは深いため息をつくとパジャマ姿のままテレポートで問題の現場へと飛んだ。
そこは、オアシス連邦の民が建国以来、神聖視してきた巨大な神木「生命の古樹」の前だった。農業大臣をはじめ、国の要人たちが真っ青な顔で右往左往している。
カエデが見たのは、信じがたい光景だった。樹齢三千年を超える、神木の生き生きとしていたはずの葉はしおれ、幹からはまるで涙を流すかのように、大量のきらきらと光る樹液が溢れ出していたのだ。
「カエデ様、我が国の吉凶の象徴たる古樹様が……これは、国を揺るがす凶兆に違いありません!」
農業大臣がパニック状態で訴える。
カエデは、あくびを一つ。そして、「アカシック・アイ」で神木と、周囲一帯の因果律を瞬時にスキャンした。
「……はぁ、病気でも呪いでもありませんわね」
彼女は原因を即座に突き止めた。
「ただの『消化不良』ですわ」
「しょうかふりょう?」
「ええ。この古樹の地下深く、根が絡みついている龍脈の流れが少し滞っているだけです。例えるなら、水道管にゴミが詰まっているようなものだから、吸い上げた魔力が逆流して、樹液として溢れ出しているのですわ」
カエデはそう言うと、神木の太い幹にそっと手を触れた。
そして、ごく微弱な、しかし極めて精密にコントロールされた振動魔法を大地へと流し込む。
トトトトト……という、心地よい振動が数秒間続いた。
それはまるで、赤ちゃんの背中を優しく叩いてあげるかのような手つきだった。
次の瞬間、大地の遥か奥深くでゴポッという小さな詰まりが取れたような音がした。
すると、あれほど元気がなかった神木の葉が、みるみるうちに生気を取り戻し、溢れ出ていた樹液もぴたりと止まった。
「おおおお……古樹様が元気に……」
大臣たちが、歓喜の声を上げる。
「ええ、もう大丈夫ですわ。しばらくは、新鮮なお水をたくさんあげてくださいな……では、わたくし二度寝の続きがありますので、これで。」
カエデは、国家の凶兆をわずか三分で解決すると、再びテレポートで自宅のベッドへと帰っていった。
午前中、カエデは自室で幻影の分身たちに、山積みの書類仕事を全て丸投げし、優雅に読書を楽しんでいた。
そして、待ちに待った昼食の時間。母のコズエが作ってくれた、特製の温かいサンドイッチを口に運ぼうとした、その時だった。
再び、緊急の魔法通信。今度は、防衛隊の司令官からだった。
『カエデ様!北の海域に、守り神であるはずの巨大魔獣「大海王亀」が、突如出現。我が国の漁船団を無差別に攻撃しております。我が隊の魔法砲もその甲羅には傷一つ……』
カエデの眉間に、深い深いシワが刻まれた。
(……わたくしの温かい卵サンドが冷めてしまいますわ……)
それは彼女にとって国家の危機よりも遥かに重大な問題だった。
彼女はサンドイッチを一口で頬張ると、テレポートで北の荒れ狂う海上へと飛んだ。
そこでは、島ほどの大きさがある巨大な亀が暴れ回り、防衛隊の船が木の葉のように翻弄されていた。
カエデは再び「アカシック・アイ」で、その大海王亀をスキャンした。
(……なるほど、怒っているのではなのですね……痛がっているだけですわ)
彼女の目には、巨大な亀の分厚い甲羅のその裏側。本人には、決して手の届かない場所に、巨大な呪われたフジツボが食い込み、その体を内側から蝕んでいるのがはっきりと見えていた。
カエデは、海中へとテレポートした。
そして、暴れる亀の真下へと潜り込む。
彼女は、指先に極限まで魔力を集中させた水の刃を形成した。それは、もはや魔法というよりは、超音波メスに近い精密な医療器具だった。
彼女は、その水の刃で亀の体を傷つけることなく、原因である呪われたフジツボだけを、寸分の狂いもなく完璧に切除した。
『……グオオオオオオッ……』
大海王亀の苦しみに満ちた咆哮が、安堵のため息へと変わった。
亀は、自分を救ってくれた小さな黒髪の存在に感謝するように、一度だけ静かに頭を下げるとゆっくりと海の底へと帰っていった。
カエデはずぶ濡れのまま、防衛隊の旗艦へとテレポートした。
「……原因は取り除いておきましたわ今後は定期的な健康診断をお勧めします」
そう言い残し、彼女は呆然とする司令官を後に、自宅の食卓へと帰還した。
少し冷めてしまったが、母のサンドイッチはやはり最高に美味しかった。
その日の午後も、カエデは各省庁から次々と持ち込まれる面倒な、しかも、国にとっては重要な問題をその規格外の能力で次々と解決していった。
財務省と魔導省の泥沼の予算会議を完璧な代替案でわずか30秒で黙らせる。
聖女である月宮サヤが、一週間頭を悩ませていた祭典の来賓の席次表を、完璧な人間相関図を脳内で組み立てわずか1分で完成させた。
全ての仕事を終え、彼女が自宅の寝室へとテレポートで帰還した時。
窓の外は、既に満天の星空が広がっていた。
「……はぁ……疲れましたわ……」
彼女は、その日の全ての「面倒事」から解放され、ゆっくりとお風呂に入り身を清めた。
そして、寝間着姿でベッドに腰掛けると、神棚にいつも大切に置いている古びた小さな木箱をそっと手に取った。
ご先祖様が遺した、唯一の故郷との繋がり。
「形見の小箱」。
彼女は、その冷たい木箱をぎゅっと抱きしめた。
その瞳には珍しく一日の疲れとほんの少しの甘えが浮かんでいた。
彼女は、小箱に向かってまるで小さな子供が星に願うかのようにそっと囁いた。
「……お願い……」
「……わたくし……今日一日、超頑張りましたから……」
「……何か……何かご褒美をちょうだい……」
彼女は目を閉じ強く願った。
特定の「モノ」ではない、ただこの疲れ切った心と体を癒してくれる優しくて温かい「ご褒美」が欲しいと。
すると、彼女のその純粋な願いに呼応するように、小箱がふわりと淡い光を放った。
光が収まった時。
カエデの手の中にはぽつんと、一つの小さな可愛らしいガラス瓶が握られていた。
中には乳白色のとろりとした液体が入っている。
それは、彼女が一度も見たことのないが、なぜか心の底から懐かしいと感じる異世界の飲み物。
カエデはそのガラス瓶の蓋を開けた。
ふわりと広がる優しい甘い香り。
その液体をゆっくりと一口飲んだ。
舌の上に広がる、濃厚なミルクのコクとほんのりとした甘さ。そして、全てを包み込むような温かさ。
それは、彼女の疲れた体にじんわりと染み渡っていった。
「……温かいミルク……?……いいえそれよりももっと……」
彼女は残りを全て飲み干した。
今日一日の、全ての疲れが綺麗に洗い流されていく。
心も体もぽかぽかと温かい。
「……おいしい……」
彼女はぽつりと、呟くとそのままベッドへと倒れ込んだ。
そして、数秒後には穏やかな安らかな寝息を立て始めていた。
その手の中には、まだ温もりが残る、空のガラス瓶が大切そうに握りしめられていた。
静かなる魔女のあまりにも忙しかった一日は、こうしてささやかなご褒美と共に終わりを告げるのだった。




