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私、ただの料理人なんですけど、どうやら世界を救ってしまったらしいです  作者: 時雨
番外編:料理人の姉は働きたくない

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第九話:静かなる魔女と祈りの聖女の最速外交


 その日、オアシス連邦は久方ぶりの、大きな外交問題に揺れていた。友好国である、獣人たちの国「大地の盟約」との間で、百年前に結ばれた歴史的な平和条約の更新時期が迫っていたのだ。

 しかし、盟約内でも特に排他的で、戦闘的な気風を持つ、「黒牙の豹族」が条約の更新に猛反対を表明。

 あろうことか、「更新を強行するならば盟約からの離脱も辞さない」と、内戦さえもちらつかせてきたのだ。


 豹族の主張はこうだった。「百年前に結ばれたあの条約は、我が部族にかけられた呪いの始まりだった。あの日以来、我ら黒牙の豹族の力は衰え、土地は痩せ病が絶えぬ。この呪いの条約を更新することなど、断じて認めん」。


 事態を重く見たオアシス連邦政府は、最高の外交使節団を送ることを決定した。国の「心」の象徴として、民の敬愛を集める現、聖女月宮サヤ。

 そして、国の「力」の象徴として、伝説の勇者の血を引く静木カエデ。二人が国の代表として、共に大地の盟約へ赴くことになった。


「カエデ様とわたくしが?!」

 任命の報せを受けた聖女サヤは、期待とそれ以上に巨大な不安を感じていた。

(カエデ様はあのコノハのお姉様。そのお力は計り知れない。きっと、この難局を乗り越える素晴らしい知恵をお持ちのはず)。


 そう彼女は信じたかった。


 一方、その頃カエデは。

「嫌ですわ。なぜ、わたくしが毛むくじゃらの話の通じない方々の百年前の逆恨みの仲裁などしなくてはならないのですか」。自宅のこたつで、完全に駄々をこねていた。首相がどんな条件を提示しても、彼女は首を縦に振らない。


 最後に、首相は震える手で一枚の資料を差し出した。

「カエデ君。黒牙の豹族の領土には、門外不出の秘宝があるそうだ。それは、世界中のどんな不眠症も一口で癒すという伝説の茶葉、月花茶げっかちゃ」。ピクリと。カエデの耳が、微かに動いた。

(最高の安眠ですって?)


 彼女は、はぁと深いため息をつくと、億劫そうに立ち上がった。

「仕方ありませんわね。世界の平和と、わたくしの快適な睡眠のために、少しだけ働いてきて差し上げましょう」


 大地の盟約に到着した二人の代表。聖女サヤは、外交官として完璧な振る舞いを見せた。彼女は何日もかけて、盟約の各部族の長たちと真摯に対話を重ねた。 


 彼らの不満に耳を傾け、国の現状を憂い、時にはその聖なる治癒の力で病に苦しむ子供たちを癒した。

 そのどこまでも誠実で、慈愛に満ちた姿に、豹族以外のほとんどの部族は心を打たれ、条約の更新に賛成の意を示し始めていた。

 だが、肝心の黒牙の豹族だけは、頑なに心を閉ざしサヤとの面会さえも拒絶し続けていた。


「どうすれば、彼らの心の傷はわたくしの力だけでは癒すことができないのでしょうか……」

 交渉が行き詰まり、サヤが宿舎で頭を抱えていた、その時。今まで交渉には一切顔を出さず、部屋でずっと菓子を食べていただけのカエデが、静かにお茶を啜りながら言った。

「聖女様。あなたのやり方はとても素敵ですわ。でも、少しだけ時間がかかりすぎますの。わたくし、そろそろ飽きてしまいましたわ」

「カエデ様。ですが!」

「少し、お散歩に行ってまいります。呪いの正体を確かめに」

 カエデはそう言うと、ふっと姿を消した。


 彼女はテレポートで誰にも気づかれず、黒牙の豹族の領土の奥深くへと潜入した。そして、わずか数十分の調査でその「呪い」の、単純な真相を突き止めてしまった。原因は、呪いなどではなかった。

 豹族が聖なる川として崇めている水源の、さらに上流。その地下に、微弱な毒性を持つ魔力鉱石の鉱脈が存在していたのだ。百年という長い年月をかけて、その毒が川を通じて少しずつ彼らの土地と体を蝕んでいたのである。


 カエデは宿舎に戻ると、その事実をサヤに告げた。

「なんと。では、すぐにそのことを族長にお伝えしなくては!」

 サヤが立ち上がろうとするのを、カエデは静かに手で制した。

「お待ちになって!聖女様。それは最悪の選択ですわ」

「なぜです?真実を伝えればきっと彼らも!」

「いいえ」

カエデは静かに首を振った。


「彼らは百年間、自分たちの衰退を条約という呪いのせいにして、その誇りを保ってきた。その拠り所を、『あなたたちの聖なる川が毒の源でした』などという、身も蓋もない真実で奪ってしまえば、彼らの誇りはズタズタになる。感謝されるどころか、逆上してそれこそ戦争になりかねませんわ」

「では、どうすれば……」。


 カエデは少しだけ、悪戯っぽく微笑んだ。

「こういう時は、真実よりも優しい『奇跡』が必要なのですわ。聖女様、わたくしのささやかな魔法の『舞台装置』の上で、あなたに主役を演じていただきたいのですけれど」。


 その日の深夜。黒牙の豹族の領土で、神の御業が行われた。カエデがその膨大な魔力を解放し、超精密な空間魔法を発動させたのだ。彼女は豹族の聖なる川の、その地下の水脈ごとごっそりと空間転移させ、有毒な鉱脈を完全にバイパスさせたのである。それは、大陸の地図を書き換えるに等しい神の領域の土木工事だった。


 そして、仕上げに源流に溜まっていた毒素を、浄化魔法で完全に無害化した。全てを誰にも知られることなく、闇の中でたった一人で。

 翌朝。黒牙の豹族たちは目を疑った。自分たちの聖なる川が、昨日の濁りが嘘のように、清らかで生命力に満ちた輝きを取り戻していたからだ。彼らがその「奇跡」に呆然としている、その時だった。丘の上から、聖女サヤが朝日を背にゆっくりと姿を現した。


 彼女は川のほとりに膝をつくと、厳かで美しい祈りを天に捧げ始めた。

「おお、聖なる水の精霊よ。この者たちの百年の苦しみを、今こそ洗い流したまえ」

 サヤの祈りに呼応するように、川から清浄な魔力が溢れ出す。そして、その魔力は病に苦しんでいた豹族の民を一人また一人と癒していく。

 その光景はまさしく、聖女がその祈りの力で百年の呪いを解き放ったようにしか見えなかった。族長はその場で崩れるように膝をつくと、サヤの前に涙ながらに平伏した。

「聖女様……我々はなんという過ちを!」

 条約はその日のうちに満場一致で更新された。



 オアシス連邦への帰り道。聖女サヤは、隣を歩くカエデに静かに問いかけた。

「あの川はあなたがやったのですね」

「さあ?何のことかしら」

 カエデは穏やかに微笑むだけだった。だが、その手にはいつの間にか黒牙の豹族の族長から「友好の証」として贈られた最高級の『月花茶』の茶筒が大切そうに握られていた。


「わたくしは、ただ、聖女様という素晴らしい主役のためにささやかな『舞台』を用意しただけですわ。民を救うのはいつだって、あなた様のような清らかな祈りの力ですもの」

 その言葉に、聖女サヤは何も言い返せなかった。

 彼女はこのとてつもなく怠惰で、とてつもなく効率的で、誰よりも優しい静かなる魔女の本当の強さを初めて心の底から理解した気がした。

 そして彼女は、はぁと、カエデに負けないくらい深いため息をつくのだった。

(あの人に比べればわたくしの悩みなどなんと小さいことか)

 国の象徴である聖女が、少しだけ大人になった瞬間だった。


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