2 鉢花 と 認識票
軍港の港街の朝は、潮の香りに包まれていた。
基地の正門から飛び乗った路面電車の車内からでも、それは感じることができた。
──この匂いは嫌いじゃない。グレースはそんなふうに思う自分を不思議に思いながら、車窓に映り込んだ自分に向いて、イングレス・コマンドスの緑色の軍帽の下から覗いているシニヨンに纏めた金髪を気にするように小首を傾げてみた。
そうすると、いよいよ緊張して所在なげな子供の碧い目と、目が合った……。
変わらない。〝いつも通り〟の自分だ。
グレースはそれを確認しただけだということに思い至ると、後はもう興味を失くしたふうに窓外の街並みへと目を遣っていた。
*
軍の墓地のある郊外の停留所で路面電車を降りたグレースは、広い敷地の北側の端の方へと足を向けた。
珍しく晴天で、陽の光の下で緑の芝生が映えていた。
しばらく歩いて、目指す区画──フィービーの眠る墓──の墓石が見えたとき、先客がいることに気付いた。
イングレス・コマンドスの軍服じゃない…──ガリア軍竜騎兵の青い制服だった。
「来たの」
墓の前に立つベルナール・ロラン上級軍曹に、自らは〝士官候補生相当官〟の肩書を持つグレースが、静かに声を掛けた。
少女のその声に、ベルナール──〝ベルニ〟は遠慮がちに肯いて返すと、墓石の前を開けるように後ろへと下がった。入れ替わるように墓石の前に立ったグレースは、ふと小さな白い鉢花に目を留めた。
「──お花?」
「手向けの花だよ…… イングレスじゃこういうのはしないのか?」
「…………」 少女はどう応えてよいのかわからない、というふうな表情になった。「──どうなのかな…… よくわからない──」
それでもベルニが溜息と共に視線を逸らす前に、少女は語を継いだ。
「──でも……フィーも、〝綺麗だな〟って、思ってると思う…… ──…ありがと」
ベルニは溜息を飲み込むと、小さく肯いて返した。
少女はあらためてフィービーの墓石に向き直ると、懐から紐で連ねた金属片の束を取り出した。装飾品──ネックレスかブレスレットかと思ったが、それは認識票を束ねたものだった。十枚近い…──いや、ひょっとしたら十枚は超えていたかも知れない……。
少女はそれを両の手で包むように胸元に抱くと、静かに謡い始めた。
ベルニは砂色の瞳の目を瞬かせて少女を見遣ると、その澄んだ歌声に耳を傾けた。
彼女の謡う声は、南からの風に乗って〝海峡の海〟の方へと運ばれ…──〝ドーヴァの白い壁〟を越えてフィービーの魂を故郷のイングレスの地に導いていくようだった。
その歌声に、知らず天使の声を重ねていたベルニは、謡い終わって振り向いたグレースの怪訝そうな視線に気付くと、何とか微笑を作った表情で少女を見返して言った。
「──綺麗な声だ」
言われた方の少女は、露骨に返答に窮したような表情になり、恐々とベルニから視線を下ろしてしまった。そんな少女がいつもの〝答え〟を口にする前に、ベルニは言っていた。
「また〝わからない〟?」
「…………」
言葉を探しているような沈黙の後に、若干言い訳がましくグレースが言う。「──そんなふうに言ってくれたの…… わたしたちの他は、ロランだけだから──」
いよいよ溜息を吐くくらいしかすることがなくなったベルニは、仕方なく街へ帰る方向に視線をやると、先導するように歩き出して言った。
「──ベルニだ ……〝ロラン〟は戦場だけでいい」
*
「──ドッグ・タグ…… 君が回収してるのか?」
停留所で路面電車を待つ間、ベルニは先ほどの認識票の束についてグレースに訊いてみた。
「…………」 一拍の間を置いて、グレースは淡々と応えた。「──みんなに頼まれてる。わたしたちは、これしか残らないから」
先のジヴェルニーでのフィービーの最後が脳裏を過り、気が重くなったが、流れのままに訊いてしまっていた──。
「君のタグは、一体誰が回収するんだ?」
訊いてしまっていたときには後悔していた。
「…………」 少女はその残酷な問いにさすがに言い淀んだようだったが、結局、落ち着き払った声音で応じた。
「貴方が回収してくれない?」
それは、少女の見掛けよりずっと〝大人びた〟言い様だった。
「…………」 今度はベルニの方が言い淀む番だった。「──俺は君のようには歌えない……」
言い訳がましい男のその言葉に、少女は抑揚のない声で言い捨てた。
「海峡に投げてくれれば、それでいいよ」
*
基地への経路──路面電車の車中でも、石畳の旧街区でも、言葉少なげに肩を並べるイングレス・コマンドスの緑色の軍帽の少女とガリア竜騎兵の青い制服の組合せは、目立った。
犬猿の仲の両国の軍服が並んで歩いているのだし、二人ともが特殊部隊の記章を付けていた。
おまけに片方は年端のいかない少女──まだ14、5歳にしか見えない──で、人形のように繊細な容姿が人目を惹くし、もう片方の亜麻色の髪の青年──と言ってもこちらだって若くて、まだ十代だろう──も青い制服を小粋に着こなし、町娘の注目を集めていた。
ともかく、どこから見ても普通でないのは一目瞭然、といった組み合わせの男女だった。
旧街区を抜けた所で、ベルニは漸くグレースに向いて言った。
「メシを… 驕らせてくれないか。美味い店を知ってるんだ」 それから詫びる様な表情になって目を臥せた。「──その…… さっきのこと、謝りたい……」
そんなベルニの顔を、グレースは不思議なものを見るように見上げていたが、やがて小さく肯くと、控え目な身振りで彼に手引きするよう促した。
それからベルニとグレースは連れ立って、波止場に程近い海岸通りから一本奥の道に面した小さな店へと向かった。近くの海から揚がったばかりの魚やエビ・カニ類を使った家庭料理を出す、そんな店だ。
特に目立つふうでもない店構えの瀟洒な扉の前まで来ると、何かを感じたようにグレースの顔が持ち上げられた。何かに逡巡するように立ち止るグレースに、ベルニが怪訝な目を向ける。
少女は意を決するように肯くと、ベルニに先を譲られて店に入った。
*
普段は程よく落ち着いている店なのだが、この日は混み合っていた。一目で船乗りと判る連中の姿が目に付く。
そう言えばここ数日、民間の船の入港が相次いでいて、港湾の錨地には普段よりも船舶の数が多いように感じられた。
ベルニが店の女主人と二言三言言葉を交わすと、案の定、空いている卓はないとのことだった。
その間のグレースには、好奇の視線が集まっていた。無理もない。その容姿とイングレス・コマンドスの軍服とが吊り合っていないのだ……。が、どうやらそれだけが原因でもないらしい。ベルニは、彼女と同じくらい自分にも視線が集まっているのに気付いた。
「グレース」
奥の席の女から声を掛けられた。グレースは、そこに彼女が居ることを初めから知っていたふうに、顔を背けて小さく独り言ちた。
「やっぱりいた……」
グレースと同じイングレス・コマンドスの軍服姿の女は、自分の卓の空いている席を指し、相席を勧めてきた。
ベルニは卓の側まで進むと〝技術中尉〟の階級章の付いた軍服の女に敬礼とともに礼を述べ、グレースと共に席に着いた。
ベルニに頷いて「礼には及ばないわ」と着席を促した女の雰囲気は、どこかグレースと似ていた。知的な蒼い目が印象的な美人で、長い金髪をグレース同様シニヨンにまとめている。
名前はマーガレット・ヘレナ・アップルビーと言った。──知らない顔じゃない。第4特殊任務旅団 〝第3《実験》コマンド〟 ──…グレースの隊──の技術将校である。
グレースは着席する傍から、あからさまに警戒するように押し黙った。
*
ベルニはこの状況に居心地の悪さのようなものを感じたものの、何とかその場を凌ごうとメニューを開いてグレースに訊いた。
「──魚でいいかな? もっとも魚以外のお薦めなんてないんだろうけど……」
イングレスから来ている彼女は、ガリアの言葉で書かれたメニューは読めないと踏んだからだが、仮にそうでなかったとしても、少なくとも言葉は交わせる。
「鳥なら出せるよ……」 そんなベルニの心中を察して、すかさず女主人が快活に言葉を挿んできてくれた。「──失礼なことお言いでないよ‼ この悪たれが」
「…………」
だがグレースの反応は薄くアップルビー中尉に意識がいっていた。ベルニと女主人は顔を見合せ、それぞれ小さく肩を竦めるだけだった。
中尉が〝くすり〟と笑う。それからベルニを向いて言った。
「白身魚がお薦めよ」
ベルニは肯くと、手書きのメニュー書きから白身魚を中心に適当に選んで女主人に告げた。
「──それと……」 注文を聞き終えた女主人に、グレースが声を上げた。「──…ワインを」
反抗的とも言ってよい目を中尉に向けるグレースを見て、ベルニは何故なのか、思わず中尉の顔色を伺うように視線を向けていた。
そんなベルニに、中尉は溜息を押し殺すような表情で肯いて返した。
それでようやくベルニは、女主人に適当なワインを選んでもらうことにした。
「ベルナール・ロラン上級軍曹……だったかしら?」
料理が運ばれて来る前、ベルニはアップルビー中尉に、やんわりと咎めだてられるような視線を向けられた。
「…………」
ベルニは傍らのグレースよろしく、用心深い表情で中尉を見返した。そんなベルニに、アップルビー中尉はにべもなく言った。
「これ以上、わたしたちには関わらないで欲しいの ……よろしくて?」
「…………」
余りに〝単刀直入な〟物言いだったので、これにはベルニも絶句させられた……。
いや、これではまるでグレースをデートに誘って咎められたみたいじゃないか…──いや、さすがにそれはないよ…──〝ガリア男〟でも、さすがにそれはない。
ベルニは困った顔でアップルビー中尉を見返した。
「……それは〝第3《実験》コマンド〟に近付くな、という意味でしょうか?」
「ええ……そう理解してくれればいい」
「〝第3《実験》コマンド〟と同道しながら?」
「……じゃあ言い方を変えましょうか──…作戦行動を終えたら、後はもう、近付かないで。この子たちに個人的な時間はないの──」
すると、今まで黙っていたグレースが割って入ってきた。
「──勝手に話を進めないで! 作戦の後はわたしがどうしようとわたしの自由、そういう約束でしょ?」
すかさずアップルビー中尉が遮った。
「グレース……あなたは黙ってなさい」
「なぜ? マギー? わたしのことよね?」
アップルビーは険呑な目付きをグレースに向けた。
「そんなふうに呼ばれるの、好きじゃないの……知ってるでしょ? グレース…──」
「じゃあ何て呼べばいいのかしら メグ? ペギー?」
そう返したグレースの目も、アップルビーと同じ光を宿している。
そんな二人はとてもよく似ていて、そしてこんなに抑揚のある──感情的な──彼女の声は初めて聴くと、ベルニは思った。
しばらく睨み合った末に、アップルビーが言った。
「あなたを死なせたくはないのよ」
「フィーにも、そう言ってあげたの?」
昂った感情のままのグレースのその言葉に、アップルビーは思わず手を上げかけて、それでも結局、振り上げたその手を下ろした。その肩が悲しげに震えてるのをベルニは見た。
「今日はもう帰るわ……」
そのまま卓を離れようとするアップルビー中尉に、その中尉と同じようになった表情を浮かべたグレースが細い声で言う。
「──ベルニがね……わたしの歌声… 綺麗だって」
「そう……」
中尉は、視線を合わせるでなくそう応えると、女主人に向いて払いを済ませ、店を出ていった。
そんなことがあってから運ばれてきた料理だったが、味の方は折り紙付きで、少しばかりわだかまった空気に包まれたところで、しっかりと食は進むのだった。
言葉を掛け辛くなってしまったベルニは、黙ってナイフとフォークを操り、それはグレースもそうだった。
彼女はベルニが思っていたよりもずっと健啖家だった。人形のように細い少女だからと勝手に食は細いだろうと思い込んでいたベルニを前にして、どんどんと口元へと運んでいくその食べっぷりはいっそ気持ちがよいほどで、ベルニはちょっと見惚れてしまう。
それに酒も強かった。頼んだ白ワインはベルニの3倍は口を付けているはずだったが、顔色は全く変わっていない。姿勢の良いその所作が乱れることもなかった。
「ごめんなさい ──せっかく気を遣ってくれたのに、また気を遣わせてしまって」
食事が一段落すると、さすがに気拙くなったのか、ようやくグレースが口を開いてくれた。
ベルニは小さく苦笑すると、あらためて普段と違う雰囲気の彼女を見て、思ったことをそのまま口にした。
「お姉さん?」
「……そう見える?」
おずおずと訊き返す彼女に、ベルニは笑って言った。
「俺にも姉がいたんだ ……いまはもういないけれどね」
──だから俺は軍にいる。
これはベルニの心の内の声……。彼の姉と妹は、5年前、竜に喰われて死んでいた。
「そう……」
彼の表情からおおよそのことを覚ったのか、グレースは目を伏せて言葉を継いだ。
「──そうね…… デイジーは、〝わたしの、お姉さん〟… みたいなものね……確かに」
一語一語を区切るように、確かめるようにそう言うグレースを見て、気を取り直したふうに表情をあらためたベルニが訊く。
「イングレス人でマーガレットだからデイジー?」
「……ええ…──」
「古風だね」
──大昔に流行った、イングレスでいう〝マーガレット〟の花をガリアでは〝デイジー〟と言ったことに由来する、親しい人にしか使わない愛称だ。とても古めかしい。
「──そうなのかな?」
グレースは、例によって〝よくわからないけれど……〟という表情で相手を見て、それからちょっとはにかんだふうに笑い、何だか少しだけ嬉しそうに言った。
「でも、とても似合ってるでしょう? 厳しいけれど、美人で…──」
次の言葉が素直に出てこないようなので、それはベルニが言った。
「──…優しい?」
グレースは観念したように息を吐いて、微笑んで肯いた。
そんなグレースに、ベルニは意を決するように静かに言った。
「ドッグ・タグは…── 俺が回収してやるよ」
「…………」
どう応えるべきか、慎重な目線を向けてくる少女に、ベルニは真摯な瞳を向けた。
「その時になったら、必ず持ち帰ってやる…──約束する」
「…………」
そんな言い方しかできないベルナールというヒトに何かを感じ取ったように、グレースは穏やかな表情になって、小さく応えた。
「ありがと」
「だから……」
それを聞いて、ベルニはワインの瓶を傾けて自分の杯を満たした。
「だから君も約束してくれ」 杯に注いだそのワインを一気に呷って言う。「──必ず、死なないって」
「…………」
今度こそ何と応えるべきか逡巡する少女に、ベルニは重ねて言った。
「約束してくれ」
ワインに咽ながらそう言った自分の語調の強さに驚いたふうのベルニに、グレースはおかしそうに笑った。
そんなふうに言われたら、こう応えるしかないように思えた。
だからグレースは、観念したように微笑んで応えたのだった。
「うん……約束する」
と…──。