罠
男はまるで枯れ枝の様だった。
その容貌から何日も食べていないことは容易に想像出来るし
恐らく水も暫く口に出来ていないだろう。
幽鬼の様に歩く男の口はだらしなく開き、そこから空気がかすれるような音が漏れている。
男がその噂を聞いたのはもう幾日も前の事だった。
帰らずの森の中に村があるらしい。
帰らずの森はこの辺りでは有名で、
この森に入って出てきた者はただの一人もいない、恐ろしい森だという。
「きっとモノノ怪が住んでるだ」と同道している行商人が大真面目に言っていた。
隣国からこちら来る際に、やたらと大回りをしたのは、その森を避けてのことだったのかと
男は内心思った。
何の変哲もなく見えるこの森がそんなに恐ろしいかね。
森と隣接する村に入り、行商人と別れた男は興味本位で村人たちに聞いて回った。
「帰らずの森に村があるって噂で聞いたが本当かね?」
だがどの村人も知らないと言うばかり。
どうやら、あの行商人に一杯食わされたらしい、聞くのもこれで最後にしようと
この村で初めて見た老人に話しかけた。
「村?そんなもんねぇべ」
「やっぱりそうですか・・・」
「閉山した坑道の前に掘っ建て小屋ならあるかもしんねぇが」
「鉱山があったんですか」
「銀が取れたらしいの」
「銀が・・・」
「大昔の話だ、今は何にも取れねぇ」
「誰か確認しに行ったんですか?」
「いや、俺もばぁっちゃに聞いた話で見たことはねぇ」
「そうですか・・・」
「行く気か?帰らずの森に」
「行きませんよ、興味本位聞いただけです。ちなみに何で帰らずの森なんですか?」
「・・・・」
「・・・あの」
「あそこはな、姥捨て山だ。」
老人はそれっきり言葉を発することは無かった。
村人たちが口を開かなかった理由が分かった。
この村は決して裕福ではない、口減らしが必要だ。
通りで老人が少ない筈だ。
元居た国でもよく聞いた話だ、特に珍しくはない。
幽霊の正体見たり枯れ尾花。
あの森は帰らずの森で無くてならない。
しかし思わぬところでいい話を聞けた。
家財を全部売って、身のままこちらに渡ってきた。
やり直すには少々、心もとないと思っていた。
もし少量でも銀を手に入れられたら・・・
ちょっと行ってみるか、山歩きは慣れているし
隣国との境にある小さな森だ。
二日もあれば自力でも坑道を見つけられるだろう。
俺が銀を見つけても、あそこは帰らずの森、村人は文句を言えまい。
森に入ってもう幾日たっただろうか。
水も食料もとうの昔に無くなっている。
今だ、何も見つけられていない。坑道はおろか、出口すら。
こんなに迷うものだろうか、
男は素人ではない、多少の霧があったとて迷わない自信があった。
歩いた距離で言えば、元居た国どころかさらに隣国にすらたどりつけるのではないか
それなのに出ることも出来ない。
まるで人が迷うように作られた森、・・・帰らずの森
そんなわけない、そんなわけないんだ
とにかく何か食いたい、水が欲しい。
そこから半日、根源的本能のままに歩いていた枯れ木の足が止まった。
森に入って唯一見つけられた、自らの成れの果てを前に膝が自然と折れる。
骨のみの骸、おそらく狼か、あるいは
「モノノ怪・・・」
そう呟いた時、後ろでガサガサっと物音がした。
男は振り返らなかった。
今の俺に喰いごたえがあればいいが・・・
「こんなところで何してるだ?」
声をかけられると思っていなかった男は仰天した。
ゆっくり振り向いた。
そこには一人の老婆が立っていた。
「お前さん旅人か?えらく痩せて・・・近くにわしが住んでる小屋がある。
飯食わしてやる。歩けるか?」
この老婆は今、飯と言ったか?飯が食えるのか。
「大丈夫か?立てるか?」
立つに立てない俺の肩を老婆が優しく支えてくれた。
老婆の顔がお釈迦様の様に見える。
老婆の住む家は近かった、俺を家の奥に案内するや否や、老婆は食事の準備にかかった
様だった。
しばらくすると米の炊けるいい匂いが鼻をくすぐった。
もう出ないと思っていた唾が喉を鳴らす。
老婆が山盛りの白米を持って戻って来た。
炊きたての立ち上がった白米
もう腹が減って、腹が減って仕方がない。
老婆が白米を一つまみ手に取って食う
「うん、旨い!さぁこれを・・・」
もう我慢できなかった、老婆の手から奪うように白米に食らいつく。
行儀等気にしない、手で貪るように食った。
「旨い、旨い」
これ以上の幸せなどないと言う表情だった男は途端に顔を青くし、そのまま動かなくなった。
「あーあ、これを粥にして食わせてやるって言おうとしたのに、何日も食ってない人間が急に飯なんぞ食ったらそりゃ死ぬべな」
「助けてやりたかったのぉ」
老婆はそう言いながら枯れ木の服を剥いでいく。
「助けてやりたかった、のぉみんな・・・」
ここは帰らずの森、入ったら誰も帰って来ることの無い森。