狩猟祭 2日目 その8
毛並みは普通の猪よりややくすんだ色合い、でもその体躯は通常個体の何倍あるんだろうか。
牙は僕の腕ぐらいあるんじゃないかな。
あんなのに噛まれたら即死しちゃうよ。
誰かが僕の肩を掴んで引いた。
これでも王族、最重要の護衛対象だからね。
そして護衛騎士たちはさすが。異常事態に一瞬はたじろいだものの、すぐに役目を果たすために僕らを庇う。
庇ってくれるのは有り難いんだけど、勝てると思えない。
護衛たちは決して弱くないよ。屈強な人たちだ。でも、狩りへの同行ということで最低限の装備しかしてない。鎧だって革鎧だ。森の中で長々歩くのに、全身鎧とかじゃガチャガチャうるいさいからね。狩りの邪魔。それに長距離移動にも向かない。
剣は持ってる。槍もある。
でも、それらが通用するかどうか怪しいな。
巨猪が動く。
ほんのちょっと鼻面を動かしただけなのに、それだけで大の大人が吹っ飛ばされた。ダンプに撥ねられたみたいに飛んで行き、幸い柔らかい地面に落ちた。
木に激突してたら即死ものだろうね。
護衛達に守られながら移動しようとしたけど、動けないでいるミリアの姿が眼に付いた。
ミリアの矢なら巨猪にも通じるかもしれない。でも、当のミリアは腰を抜かしてしまっていた。
どんなに小生意気であっても彼女は子供なんだ。小学校低学年の子供が凶悪な巨大生物を前にしたら動けなくなるのは当然のことだ。
狩りは、安全圏から遠距離攻撃、それも極めて強力な遠距離攻撃をすれば良かった。
だけど巨猪はいきなり間合に入って来た。入って来て、その巨体で威圧した。
実戦経験のないミリアが耐えられるはずもない。
「ミリア」
僕は彼女に駆け寄って立ち上がるように手を貸す。早く逃げないとまずい。僕らが逃げないと護衛たちは逃げられない。
僕に縋るようにして立ったものの、ミリアの身体は震えていた。僕を見てもいない。
恐いんだ。
そりゃ、恐いよね。あんなでかいんだから。僕だって恐いよ。
彼女を抱えて逃げられるだけの力があればいいのに、今の僕じゃそんなことはできない。寄り添って一緒に移動するのが精々だ。
チートな戦闘力が欲しい。
幸いなのは、巨猪が積極的に攻撃して来ないことだ。なにを考えてるのか分からないけど、すぐに襲って来る様子はない。騎士が吹っ飛ばされたのも近づき過ぎたせいだ。
騎士たちが遠巻きにしてるだけだと相手も動かない。
騎士は、手を出しかねてるだけなんだけどね。
そりゃそうだよ。ろくな装備もないのにトラックみたいな猪と戦えなんて。それにここにいる騎士の役目は討伐じゃなく、僕らの盾になること。
僕らの身の安全が確保できたら逃げてもいい状況だ。
問題は、巨猪がいつまで大人しくしててくれるのか、それになにが目的かが分からないってところか。
現れ方もそうだけど、普通の動物じゃないのは間違いないと思う。
森の主か、精霊か、この土地に根付いた特異なものなんだろうけど、それじゃどうしてそいつが僕らの前に現れたのか。
そんな疑問はとにかく脇に置いて、今は逃げなきゃなんだけど、ミリアがすっかり腰を抜かしてしまってるから遅々として進まない。
完全な戦意喪失状態。
護衛騎士の1人が僕らの様子に気付いて近づいて来ると、両脇に僕らを抱えてくれた。
「殿下、失礼します」
ちょっとプライドが傷付ついたけど仕方ない。
けど、これは後で問題になるだろうな。非常事態だから多少の無礼は仕方ないんだけど、絶対にイチャモンつける奴いるんだよね。まあ、状況は理解してるからちゃんと弁護してあげるけどさ。ほんっと、貴族って面倒臭い。
視界の隅で別の護衛騎士が笛を咥えるのが見えた。
非常事態を報せるための笛。
その音が聞こえたら、他の騎士たちも集まって来るし、貴人たちは安全圏へ移動する。緊急事態にはそれを吹いて報せるのが彼らの手順だ。
普通なら、それでいい。なんら問題ない。
けど、凄く嫌な予感がした。
「駄目だ、やめろ」
制止は一瞬遅れた。
笛の音が森の中に響き渡る。
高く、耳障りな音。
目立つ音じゃないといけないから、そういう音なんだけど、今はまずいでしょ。こっちを睨んでるのは賊じゃなくて獣なんだから。
それまでなにか思案するように鼻をヒクヒクさせて様子を窺っていた巨猪が笛の音に反応する。
まず、笛を吹いた騎士に突進して吹っ飛ばした。飛ばされた騎士が眼前に落ちたものだから、僕らを抱えた騎士が足を止める。狙ってやった?
抱えられた僕は進行方向とは逆向きになっていたから、巨猪の行動を観察できる体勢だった。それがまずかったかも。
眼が合っちゃった。
はっきりとした殺意。
巨猪に突進されたら人間の足では逃げられないだろう。僕を抱えてる騎士はミリアも抱えてるんだから余計に逃げ切れない。
身構えて、ダッシュしようとした巨猪が一瞬動きを止めたのは、横合いから石が飛んで来て眼の近くに当たったからだ。
「ほら、こっちこっち」
リーチェ、こんなときに護衛の仕事しなくていいから。
石を投擲して巨猪の気を引いたリーチェは、なおもヘイトを取ろうと挑発する。
僕よりは大きくてもリーチェだってまだ子供だ。大の大人を軽々吹っ飛ばす巨猪をどうにかできるわけがない。
「下ろせ」
僕が鋭く言ったものだから、僕を抱えていた騎士は思わず手を放した。うん、下ろすというか、落とされた。いや、いいよ、気にしなくて。解放してくれりゃいいんだから。
「ミリアを安全な場所へ連れて行って」
騎士の逡巡は、最重要人物である僕を置いて行くのが正しいかどうかの判断をしかねたからだ。
ミリアも護衛対象だけれど、優先順位は僕の次だ。
護衛騎士としては僕を置き去りにするわけには行かない。
「行け」
強く言うと、騎士は恐怖で麻痺しているミリアを抱えたまま走って行った。
いや、行こうとした。
その行く手を白い壁が阻む。
壁じゃない。蛇だ。でっかい蛇。ちょっとあり得ないサイズもそうだけど、いつそこに現れたの?




