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家に帰るまでの長い遠足

_人人人人人人_

> 登場人物 <

 ̄Y^Y^Y^Y^Y ̄


■ 安野悠介

仕事で疲れているためか、無気力な青年


■ 里藤伊久

女子高生霊能者コンビの引っ込み思案な方


■ 鈴田可苗

女子高生霊能者コンビの活発な方

 最近の漫画喫茶は小綺麗になっている。照明も明るいし、木目調の間仕切りもつやつやしている。10年ぶりの利用だった悠介は少し驚いた。

 そもそも、漫画喫茶という呼び方がやや古い。この店の看板には『ネットカフェ』と書かれていた。ただ、漫画も置いてある。大量に。時間をつぶすにはもってこいだ。

 ひとまずこの夜はネットカフェで過ごそう。その先は、友人の戸田の家にでも泊めてもらうことになるだろうか。やつに借りは作りたくないのだが、家が無くなったのだからしょうがない。

 無くなったというのは正確ではないかもしれない。少なくとも、あのジョシコーセーはその表現を使ってはいなかった。曰く、『存在確率の低下』。よく分からない。

 悠介が見たところ、我が家だった2階建ての木造住宅は全体が『薄くなっていた』。見えるけれど、半分しか見えない。あまり物のなかったガレージなどは、視線が突き抜けて隣のおじいさんの家の塀が透けて見えていた。

 悠介の専門はWebデザインである。あまり得意ではないが、画像の加工をすることもある。なので、コンピューターが色を取り扱うやりかたについても知っている。赤・緑・青の光の三原色に加え、『不透明度』のチャンネルを持つタイプの画像がある。不透明度を下げる、例えば50%とすると、背景が透けて見える。25%ではもっと透ける。

 我が家だった2階建ての木造住宅は、不透明度でいうと40%くらいまで透けているように見えた。

 夕方に退社することができたが、仕事はいつもよりハードだった。疲れて帰ってくる。いつもなら我が家が見えてくるあたりで、違和感を感じた。近くの公園の明かりが、建物を透かして見えていたため、妙に明るかったのだ。遅れて、建物が透けていると気づいた。


「あの、つかぬことをお聞きしますが、ここの住人の方ですか?」

 そう声をかけられたのは、悠介が家の前で呆然としているときだった。

「はい」

 悠介は答えながら、『住人だった』と過去形にすべきだったかもしれないと思った。

 声をかけてきたのは二人組の女子高生の、短髪の方である。短めの前髪だから、意志の強そうな真っ直ぐな眉がよく見える。

「お家、消えかけてないですか」

「そのように見える」

 この時点では二人の女子高生を、野次馬のたぐいだと思っていた。家という巨大なものに異変が起きているのだ。もっと野次馬がいてもおかしくはない。

 だが、短髪の女子高生は別のことを言った。

「あなたの『帰宅』を、お手伝いします!」

 そして今まで黙っていた髪の長い方の女子高生も、小声で「……します」と声を合わせた。

「…………」

 悠介は判断を保留した。いろいろな情報が一気にやってきたので、理解が追いつかないところがあった。

「……君たちは?」

 悠介の質問に、短髪は待ってましたとばかりに答えた。

「ジョシコーセー霊能力者コンビです」

「霊能力を持っていると?」

「もちろん。あっ、私は持ってないですが、こちらの」

 短髪は髪の長い方の女子高生の肩をぐいっと押した。

「伊久のおばあさまが高名な霊能力者で。里藤マツってご存知ですか?」

「残念ながら」

「そうですか。そのマツさんの跡をついで、伊久が霊能力者として活動し始めたんですよ! 私は助手で、鈴田と言います」

「霊能力者としての活動って、何をするの?」

 悠介は胡散臭そうに二人を見つめた。

「今やっているようなことです。異変を察知して、解決する。人助けにもなるし、有名になればお金がもらえるかも」

「なるほど」

 悠介は相手の言うことを飲み込んだ。

「では俺の家はどうなっているのか、まずそれを説明してくれ」

 もちろん相手を試す意味もあった。

 鈴田はまた伊久の肩を押した。それで気づいたが、さっきも押されていたにも関わらず、伊久はだんだん後じさっていた。大人の男性が苦手、というか人間が苦手らしい。

「ええと……」

 伊久は一つ息を吐いて、震える声で喋りだした。

「安野さん、でよろしいですか?」

 表札を見たのだろう。悠介はうなずく。

「安野さんのお家は、存在確率が低下しているんです。でもよくあることなので……」

「存在確率って何?」

 悠介は尋ねた。

「ええと、量子力学的には、存在と非存在は重ね合わせの状態にあるとされています。

 かわいそうな猫を箱の中に入れ、『毒ガスを吹き込む』か『何もしない』のどちらかをする装置のスイッチを入れます。箱を開けるまでは、猫は『生きている』、『死んでいる』の重ね合わせにあるという例え話があります。

 この例でも分かるように、『存在』を確定するには『観測』が必要です。箱を開けることで、かわいそうな猫が死んでいるか、それとも幸運な猫が生きているかが確定します。これが観測です。

 この場合、箱の中の猫は存在確率50%です。見たところ、このお家は存在確率40%ほどだと思います。

 なぜこんなことになるかというと、観測が足りないんです。安野さんは、その、お家の存在を雑に扱っているというか、あって当然というか……、とにかく、観測が足りてなかったんです。だから、ちょっとした拍子に存在確率が低下してしまったんです」

 霊能力者にしては科学的な語彙を使う。

 長文を喋った伊久は力尽きたように鈴田の後ろに戻った。鈴田は満足そうに伊久を見やったあと、

「と、言うわけらしいです」


 玄関はむにゅっとしていた。普通玄関はむにゅっとしていない。

「これが、俺が家を雑に扱った結果だというのか?」

 ドアノブを触った悠介の手が、ずぶずぶとノブに沈んでいった。慌てて手を引く。

「あっ、敷石も『希薄』になっているから、危ないです」

 言われたように、革靴が石に沈んでいく。悠介は体ごと引いて道路上に走り出た。

「あのまま沈んでいたら、俺はどうなった?」

「窒息していたと思います。理論上、本来の60%程度の酸素はあるんですけど、半固形の敷石の中で呼吸ができるかは疑問なので……」

「冗談じゃない。敷地内で溺れ死になんて」

「あの……、失礼かもですが、ご家族の方は?」

 伊久がそう聞くと鈴田の影に隠れた。

「いや、父も母も死んでいるし、独身だし」

「とりあえず、『すでに人が溺れている』ってセンは無さそうで良かったか」

 鈴田は肩をすくめる。

「あっ、パキラに水をやれないな」

 戸田が戸田の誕生日に買ってきたパキラの鉢植えが、窓際にまだ、あるはずだ。40%程度の確率で。

「えっ、大変じゃないですか!」

 鈴田が大声を出し、伊久がビクッと体を震わせた。

「そんなに大変かな」

「水をやれないと、どれくらい持つか分からないし、第一かわいそうですよ!」

「まあそうだけど……、枯れたら枯れたで」

 鈴田はため息をついた。

「安野さんのノリが分かりました。そういう感じで無関心な付き合い方をしているから、お家の存在確率が低下しちゃったんですね」

「それはそうかもしれない」

 悠介も認めざるを得なかった。

「パキラのためにも、早くお家を『観測』しないと」

 伊久もやる気を見せる。悠介はそのあたりが釈然としない。たかが植物だと思う。

 が、あまり主張すると変人扱いをされるだけなので、話題を変えた。

「『観測』といっても、入ろうとすると沈んでしまう状態でどうやって観測する?」

「ふっふっふ……、伊久」

 鈴田は自信満々で伊久に振った。

「ええと、『イメージ法』で行こうと思います。安野さんの頭の中にあるお家のイメージに触れることで、間接的に観測します。

 イメージする方法はいろいろありますが……、お絵かきとか、どうでしょうか」

「画像処理は苦手で……」

「苦手だからやめる、ではすまないですよ」

 鈴田が少し怒った。他人のために怒れる人は貴重だ。

「まあ、やってみるよ」


 ところが、結果は散々だった。

 公園でノートを借り、スケッチをしようとしたのだが、目に見える外観はともかく、内装がまるで思い出せない。

 スケッチではなく、見取り図を描いてはどうかと言われたが、無理。

 挙げ句の果てには何部屋あるのかと言った基本情報も曖昧だった。

「すごく漫然と生活していたんですね」

 鈴田は言葉を選ばずに言った。

「ええと、この家には何年住まわれているんですか? 引っ越して来られたとか?」

 伊久が助け舟を出したが、

「実家だから、26年」

「ええと……」

 言葉に詰まる有様だった。

「もういい。しばらく様子を見よう」

「でも、生活しないとイメージはさらに薄れますよ」

「これ以上は薄くならないだろう。君たちを夜遅くまで引っ張り回すのも良くないし、ここまでにしよう。俺は漫画喫茶に泊まる」

「明日もお邪魔しますからね」

「アカウント教えてもらっていいですか」

 こうして悠介は女子高生霊能者二人組と別れ、漫画喫茶ネットカフェに来たわけだった。

 しかし、漫画を読もうにも、どれを読んでいいのか分からない。

 もちろんここに置いてあるものは全部読んでいいわけだが、そうなると、選ぶのが難しくなる。

 悠介は自分の意志が薄弱なところがあることを理解していた。そしてそれを、『切り替え』によって克服してきた。

 本棚の前に立ち尽くしていた悠介は、漫画から頭を切り替えてソフトクリームを食べることにした。

 ソフトクリームを持って自分の席に戻ると、充電していたスマホに通知が来ていた。

 戸田である。

 メッセージで、『そういや宝くじ、どうだった?』とある。

 そのメッセージで自分が宝くじを買ったことを思い出した。以前、戸田が馬券を買うから付き合えと言うので、競馬場に行くのが気が進まなかった悠介は、二人で宝くじを買うことを提案したのだ。

『宝くじなら冷蔵庫に磁石で止めてある』

『剥がせよ』

『今は駄目だ。でも、メモアプリに買ったときのメモが残っているかもしれない』

 短いやり取りをしたあと、悠介は驚いた。

 メモアプリに書いてあった組と番号から考えると、連番で買ったので、高い確率で『3等100万円』が当たっている!

『100万かも』

『マジかよ! よこせ』

『今は駄目だ』

『冗談だよ。なんか欲しいものを買え』

『家は無理だし』

『家は無理だよ!』

 欲しいものはとっさには思いつかなかったが、100万円は諦めるには大きい額だ。

 どうしたものかと思案しているところに、別のアカウントからメッセージが入った。

『ええと、明日お仕事が終わりましたら公園に来ていただけますか?』


「ひゃ、百万? なんで安野さんなんかに」

 一日経って、鈴田の中で悠介の扱いはある意味で気安く、ある意味で雑になっていた。

 伊久も2度めの会話ということで、緊張が多少和らいでいる。

 ファミレスのテーブルを3人で囲み、スープバーのスープをそれぞれすすったあと、作戦会議は始まった。

「『イメージ法』のうち、視覚に頼る方法は安野さんは苦手なようだったので、今度は文章というか……、エピソードでイメージを膨らませてもらおうと思います」

 伊久は昨日も使ったノートを取り出し、メモする態勢に入った。

「例えば、そうですね、宝くじが貼ってあるはずの冷蔵庫。今何が入っていますか?」

「たぶん、卵のパック」

「卵はいくつ?」

「いや、空のパックが」

「捨ててくださいよ!」

 鈴田は呆れたように叫んだ。伊久はノートに『冷蔵庫』と書き、行を変えて『卵パック』と書いた。

「他にはどうでしょう。飲み物とかは?」

「基本、水」

「じゃあ冷蔵庫に入っていますよね。どんな容器ですか?」

「いや、水は毎回水道水を……」

「伊久、この人、生活が荒廃してるよ」

 伊久はゆっくりとうなずき、

「それでも、ご実家は、40%まだ耐えているんです。完全に消えてしまってはいない。

 ……パキラは鉢植えという話でしたが、置いてあるのは?」

 そういう問答がしばらく続いた。

「……おつかれのようですので、今日はここまでに」

 伊久はパタンとノートを閉じる。

「じゃあ、帰りにお家の様子を見てみましょうか。50%くらいにはなってるかも」

 鈴田はそういうと食器を丁寧に並べ始めた。

 会計は年上として悠介が払う。ファミレスから公園や家はすぐ近くだ。ちょっと歩くと、悠介は異変に気づいた。

「なんか、眩しくないか」

 公園の明かりが、さらに透けて見えていた。つまり、さらに『存在確率』が低下している。

「ええと、20%ってところでしょうか……」

 伊久はおどおどと判定した。こうなるとは予想していなかったようだ。

「おそらく、冷蔵庫や水道やパキラといった情報を、悠介さんはイメージとしてとらえきれていなかったんです」

「40%から20%に落ちたってことは、同じペースだったら明日0になっちゃうよ!」

 鈴田が焦った口調で言った。

「0になったら、どうなるの、伊久?」

「おそらくですけど、お家は誰にも感知できなくなります。一旦そうなれば、復活も非常に難しい……」

「いいかもな」

 悠介は疲れていたので、思わず本音を口走ってしまった。

「中途半端に残っているより、完全に消えてしまったほうが、建て替えが楽かも」

「ひゃくま、じゃなかったパキラは?」

 鈴田が問い詰めるように言った。

「諦めるさ。百万もパキラも」

「人でなしっ」

 鈴田は叫ぶと、パタパタと駆けていった。前にも思ったが、人のためや植物のためにあそこまで怒れるのは素晴らしいことだ。

 それとも、悠介の方がおかしいのか。

「ええと、可苗ちゃんを追うので、失礼します」

 伊久はそう言うと、トコトコと駆けていった。一人残った悠介はため息をつき、ネットカフェへと向かった。


『よお、100万は手に入れたか?』

『まだ時間がかかるかも』

『何やってるんだよお前、出張か?』

『出張じゃないよ。まあ、遠足だな』

『お前に遠足の趣味があるとは思わなかった。

 そりゃそうと、聞いたか? 咲坂の話……』


 これでも悠介は世間的に良い大学とされているH大を出ている。

 なぜ試験に受かったかと言うと、咲坂のおかげである。

 彼はクラス、いや学年で一番の秀才だった。悠介はというと、クラスで2位、学年全体では7位くらいの秀才であった。悠介の亡くなった母親は教育熱心な人だったので、悠介は毎日それなりの勉強時間を確保していた。咲坂はいつもアルバイトに励んでいたので、自主勉強はほとんどしていなかった。それでも二人の間には差があった。

 差があったにも関わらず、二人は仲が良かった。悠介はそれほど勉強とか学力にこだわりがあったわけではない(今と同様、なんとなく生きていた)。咲坂にコンプレックスを刺激されることは無かったわけだ。

 咲坂は時々、アルバイトで疲れすぎて、授業中に寝ていた。そんなときは悠介がノートを見せてやった。つまり、咲坂の学年1位の幾分かは悠介のおかげでもあった。

「いつも悪いな。なんかの形でお礼するから」

 咲坂はそう言うと、悠介のノートに目線を落とした。ものすごい速さで瞳が左右に動く。これだけで把握できるのだ。

「疲れてるんじゃないか。バイト、少し減らしたらどうだ」

 悠介が珍しくアドバイスめいたことをすると、咲坂はノートに目線を落としたまま、

「やめるわけにはいかない。うちは貧乏だから、俺の収入もバッチシ家計に組み込まれてるんだ」

 少し口うるさい程度にしか家族関係に問題を感じていなかった悠介にとって、咲坂の環境は想像しがたいものだった。

「……そうなのか」

「あっ同情したな? 言っとくけど、バイト自体は楽しいんだぜ。勉強も楽しい。大丈夫、どっちもうまくやるさ。

 バイトしつつH大に入って、バイトしつつ勉強して、母さんやきょうだいを食わせてやるんだ」

 咲坂は顔を上げて楽しげに言った。

「同情しようにも、俺にはよく分からない」

「素直なのは安野のいいところだよな」

 咲坂は笑った。

「お前もH大に入れるだろ。一緒に卒業して起業しようぜ。なその時の流行りの商売でさ」

「分かった」

 悠介は短く答えたが、本当は嬉しかった。

 だから悠介だけが大学に合格し、咲坂が『家庭の事情』で高卒で働くことになったとき、我が事のように悔しかった。


 その咲坂は結局、運送会社のドライバーをやっている。結婚もして子供が生まれたとからしいが……。

『咲坂の娘さん、けっこう悪いそうだ』

 戸田がメッセージで送ってきた。

『それで、手術代のカンパを募っている。俺らのところまで回ってくるぐらいだ、切羽詰まっているんだろうな』

 咲坂の娘の病気すら、悠介には初耳だった。

『100万で足りるか?』

 指が勝手に文字を打って、メッセージを送っていた。

『全部突っ込む気か? いや、お前の当選金には少し期待はしていたけど、さすがにやりすぎだろう。半額にしとけ』

『じゃあ50万だな。足りるのか?』

『分からん。分からんが50万とか100万なら、あいつ自身で用意できるんじゃないか? つまり、全然足りないってことだ。

 だから俺らはできる限りのことをして、あとはあいつに任せるべきだ』

『分かった。50万、明日用意する。カンパのための口座か何か送ってくれ』

『まあ、お前の金だ。好きにすればいいさ。出張は明日までってことなのか?』

 彼は『遠足』をまだ出張だと理解していた。

『明日、終わらせる』

 悠介はそう書くと画面を切り替え、里藤伊久に明日また来てくれるように頼んだ。彼としては精一杯の誠意を込めて。


 家はさらに存在確率が下がり、薄くなっていた。しかし消えてはいなかった。

「『15%』ってところかな」

 悠介は目算した。

「確率低下のペースが下がっていて、良かったです。それで、これから長期的なプランを考えていて……」

 伊久がノートを出した。

「いや、あまり長期的だと、間に合わない恐れがある」

「焦ってもしかたがないですよ!」

 鈴田可苗が横から言った。

「伊久の考えた方法なら、1週間で確率低下を食い止め、1ヶ月で元の暮らしに戻れるという話です。パキラは枯れちゃうかもしれませんが……」

「娘の命がかかっている1ヶ月がどれくらい長いと思う? 俺には分からないし君たちにもたぶん分からない。そこで」

 悠介は背負っていたリュックからロープを取り出して、片方を可苗に渡した。

「このロープは何に使うんです? あと娘の命ってなんですか?」

「溺れたら引っ張ってくれ。俺の体重は65キロだ」

 悠介はそういうと敷石の上へ駆け出した。

「ちょっと待ってくださいよ! あと娘の命って」

 15%の透明度の敷石は、以前よりさらに柔らかくなっていた。悠介の体はあっという間に沈んだ。


 以前40%の透明度だったとき、伊久は『通常の60%の酸素はある』というようなことを言っていた。それは事実だったろう。

 そして透明度15%まで低下した今、酸素の量はその分増加しているはずだ。障害物は減り、たぶん呼吸自体はできるのではないか。

 そう予想して飛び込んでみたものの、実際には呼吸は難しかった。口の中に、『柔らかい敷石』が入り込んでくるのだ。思わず吐き出したので、相当量の酸素を失ってしまった。

 だが、まだ行ける。悠介は手のひらで掻くようにして、砂と泥の中を泳いでいった。

 しばらくしてあたりの組成が変わった。悠介はそれを、手触りの変化で知った。目を開けると危険なので、ぎゅっと閉じていた。

 たぶん、コンクリートの基礎部分に入ったのではないか。そうだとすれば、ここは家の真下。上に向かって浮かんでいけば、そこは家の中であるはずだ。

 悠介は体の力を抜いて、足だけ軽くバタ足のように動かした。ちょっとずつ、上昇している感覚。

 あたりの異物感が無くなった。悠介は目を開ける。おぼろげながら、居間の空洞とその向こうの壁が見える。家の内部に突入したのだ。

 冷蔵庫に行きたい。居間からはすぐとなりの部屋だ(思い出した)。しかし空洞なのが逆に仇となり、掻いても掻いても手は空を切るのみだ。また潜って、コンクリ部分を泳いでから浮かんでくるべきか。うまく冷蔵庫前に出るまで、何回チャレンジしなければならないのだろう?

 何回でもだ。当たり前じゃないか。

 悠介は息を吸い込むと床に潜った。しかし不思議なことに、さっきほどうまく進めない。あがけばあがくほど、まわりが固くなるように感じる。

 やがて、息が苦しくなり、悠介は死を覚悟した。


「いたよっ!」

 甲高い声が聞こえる。女子高生霊能力者コンビのどちらかだ。

「ええと……、ロープをここに巻いて」

 『ええと……』が口癖なのは里藤伊久だ。さっきのは別の声だったから、鈴田可苗だ。

「「引っ張る」」

 ロープを巻いていた足首に、強い力が加わった。

「痛い痛い痛い痛い」

 悠介は足から引きずられて、陽の当たる世界に出た。


 どうやら、庭の草地にいる。

 二人組霊能力者は疲労困憊の表情だった。悠介も腿のあたりが変な方向に曲がったせいで、股関節が痛い。

「俺は、どうなったんだ?」

「お家の『存在確率』が上昇しはじめたんです。安野さんが全身で家を『観測』したせいで」

 伊久が早口で説明した。

「たぶん、安野さんがあちらのお部屋から床にもう一度潜ったところで、存在確率が60%ぐらいになってました。窒息して気を失われたんだと思います。でも、60%〜70%の段階で、お家はまだ完全に存在していなかったので、安野さんの体はゆっくりと下に落ち、90%ぐらいになっていた基礎部分の上でなんとかとどまったんです」

「正直、偶然でしか無いですよ!」

 可苗は反省しろとばかりに怒鳴った。

「基礎の上、床下の空間にいるときに、ちょうど家が100%になったから助かっただけで、何かがちょっとズレていれば床に挟まったり、基礎部分に取り込まれてましたからね!」

「ごめんごめん」

 悠介は軽いノリで謝った。

「でも、そうか。俺は単純に泳いで冷蔵庫までいくつもりだったけど、家を観測する効果もあったわけだな」

「計算してなかったんですか? もう……」

 伊久と可苗は庭の草地にへたりこんだ。

 悠介は痛む体を起こし、

「じゃ、冷蔵庫にあるはずの宝くじを取ってくるよ」

「終わったら話してくださいね」

 可苗はそういうと膝に顔を載せた。

「娘の命ってなんなのか」

「ああ、話す」


 それから悠介は女子高生二人と連れ立って近くの銀行に赴き、宝くじの当選金を得た。

 セキュリティの問題もあり、また急いで振り込みたかったので、その場で50万円を咲坂の口座にカンパした。

 もう50万のうち、税金を引かれたぶんは二人にくれてやってもよかったのだが……、

「いえ、もらいすぎは教育上良くないです」

 という謎の理由で断られ、自ら値切られた。

 それでも残りは25万円である。

「思ったんだけどさ」

「はい」

「25万円あれば、家のあちこちを直せるんじゃないかって」

「どうでしょう……、業者に頼むとすれば、もうちょっといるような気がしますが」

「いや、自分でやるんだ。いわゆるDIYだな」

 伊久と可苗は何言ってるんだこの人、というような目で悠介を見た。

「どういう風の吹き回しです?」

「ええと、安野さんは意外と衝動的なところがあるので、気をつけたほうがいいと思います……」

 それから二人と別れ、悠介は自宅のドアを開けた。

 玄関のタタキは塵が積もっている。母親が使っていたホウキを取り出して、軽く掃いておいた。

 靴箱は臭い。あとで消臭剤を買ってこよう。

 リビングに続く扉は建て付けが悪くなっている。これはDIYでは難しいかもしれない。

 冷蔵庫から卵のパックを取り出し、ゴミ箱に捨てた。

 水を一杯飲んだ。美味しい。

 ところどころささくれだった階段をとんとんと上がる。

 2階の窓際には、パキラがまだ生きていた。とんとんと降りて台所に向かい、水をくんでまた上り、パキラにかけた。

 ベッドに体を投げ出す。軋む音が聞こえたか否かのうちに、悠介は眠りに落ちていた。


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