晴天のひととき
都内の私立高校の昼休み。8月の終わり頃……。
空を流れる雲のベールに目を奪われながら、3年生の白樺時也は屋上のベンチで弁当箱を膝の上に乗せて座っていた。
「時也」
呼ばれて振り返るとそこには一学年下の幼馴染みである藤原実里が、やはりランチボックスを片手に提げて立っていた。
「お待たせ」と言って時也に微笑みかけて隣に腰掛けた。
涼しい夏の風にさらりとしたセミロングの髪がなびき、時也は思わず幼馴染みの顔に見入ってしまった。
随分と大人びた顔になったな、そんな風に思ったのだった。
形の良い小鼻でスッ、と一回息を吸ってから大きな瞳を時也に向けると、
「食べよっか」と首を傾げながらまた微笑んだ。
「ああ、うん……」
幼馴染みの表情に時也は不覚にもドキドキしていた。高校最後の夏休みも終わり、次は卒業と大学進学を控え、一気に成長している気分になっていたのに、1つ歳下の実里の方が自分よりも大人になっている気がした。
◆
二人ほぼ同時に弁当を食べ終わり、ランチボックスのフタを閉めてベンチの隅に置いた。
「ねえ時也」
不意に実里が屋上を流れる涼やかな風にゆったりと言葉を乗せた。
「うん?」
「もうすぐ卒業だね」
「えっ、まだちょっと気が早くないか」
「あっという間だよ」
実里は平静を装っていたが、声の端々が震えて寂しそうだ。
「実里?」
時也が幼馴染みの肩に触れると、実里もその手を握り返した。
「時也、あのさ……」
実里は一度、ふと息を吐いてから、
「時也が卒業しても私達さ、また会って話せるよね?またいつでも、こうして二人で話せるよね……」
伏せられた瞳が小さく煌めいているのに時也は戸惑いつつも、それには気付かなかった振りをして言った。
「もちろん。そんなの当たり前じゃないか」
「当たり前なのかな。本当に」
「どうしたんだよ実里。今日は何だか変だよ?」
実里はしばらく、言葉の選択に逡巡して沈黙した。
「……時也」
「うん。どうした実里」
「去年の今頃、私達は何を話したか覚えてる?」
「えっ……去年か」
時也は記憶に窮した。その日も確かこんな風によく晴れていて、青空と雲のコントラストが綺麗だったのは覚えている。このベンチに二人でそっと腰かけて……。その時の会話の内容については記憶を振り絞ってみても思い出せない。でも――、
「色々なこと話したよな。楽しかった。俺たち二人とも弾んでた。教室に戻ったらさ、『お前もう後輩に手を出したのか』ってからかわれたよ」
目一杯に楽しそうに時也が笑った。何故だか落ち込んでしまった実里を元気づけたかったのと、当時を思い出して本当に楽しくなったのとで7:3の割合だ。
しかし実里はふと短く息を吐いて、力無く微笑みかけてきた。
「うん、色々話したね。私も時也と同じ高校に来て嬉しくて……ああ、こんなに笑ったの久しぶりだなって思った」
「そうそう。普通にいつも会って、一緒にいて遊んでるのにさ、学校にいると実里がまたちょっと違って見えたよ」
「私もだよ。時也がちょっと大人びて見えた。それで……」
くっ、と唐突に実里の言葉が詰まった。
「ん?それで……?」
その様子を察した時也は内心、もう気が気でない。思わず前のめりになって聞き返した。
「それで話し終わって別れる時に、私は最後に……最後にこう言ったの。『時也が卒業しちゃっても、また会って話せるよね?またいつでも、こうして二人で話せるよね』って」
時也はハッとして、思わず実里の肩に置いた手に力が入ってしまった。
「時也、痛い」
「あっ、ごめん」時也は反射的に手を引き、実里も手を離して膝の上に乗せた。
「平気」と言った実里に安心して、今度は時也の方が無意識に止めていた息をふぅ、と吐いた。
「実里、さっきから何を心配してるんだい?何も心配いらないよ。現にこうして二人で会って、話してるじゃないか。いつも通りさ。これからもずっとだよ」
それからしばらく二人は何も話さなかった。その時間は永遠のようにも感じられたが、実里が晴れた空を見上げる動作に静寂は解かれた。
青空を漂っていた雲のベールはいつの間にか途切れ途切れになって、消えかかっている。
実里はそれを見届けながら、もう一度「時也」と呼び掛けた。
「私ね。時々すごく不安になるの。時也がいつかどこかへ行ってしまうんじゃないかって。そうじゃなくても、私自身が時也から離れてしまうんじゃないかって。今まで当たり前のように二人で会って、一緒に遊んで、悩みを打ち明け合って、今もこうして二人で話しているこの瞬間の繋がりが、長い長い年月のどこかで途切れて、ただの思い出になって、頭の中に埋もれてしまうんじゃないかって」
雲の消えた青空が反射する瞳をそっと瞼を閉じて、実里はもう顔を伏せたりすることもなく深い呼吸で自分の感情を抱き止めて、受け入れていた。
「ほんの少し年上なだけなのに、時也はいつも私を置いて行ってしまう。私がやっと追いついたと思っても、いつの間にかずっと先へ行ってしまう。私が立ち止まってしまえば、もうそれっきりなのかな。そうなれば私たちはもう会うことも話すことも無くなって、お互いにただの思い出になっちゃうのかな……」
実里の心の奥にあった寂しさを聞き届けたコバルトブルーの夏空がそっと涼風を吹かせて、二人の心を繋いだ。
「実里、ごめん」
青空に想いを託すような気持ちで時也は言った。
「俺さ、実里はずっと隣にいてくれてると思ってたんだ。今、こうしてるみたいに。物心ついた時から一緒にいたし、親にも話せないようなことも聞いてもらってたし。だから実里がそんな風に思ってるって、気づかなかったんだ。実里のこと、ちゃんと見てなかった」
晴天の下に二人は真っ直ぐ見つめ合い、時也は幼馴染みの手を握って、心臓を高鳴らせながら言った。
「だから俺、これからはもっとしっかり実里のことを見ていたい。今までの俺達の当たり前も、今のこの瞬間も、勿論これから続いてく日々も、いつまでも途切れない思い出にしたい」
「……それってプロポーズ?」
実里の顔が赤くなる。もちろん熱中症ではない。
「うん……かも」
一方の時也も顔が熱くなるのを感じながら、それでも二人で笑い合った。
夏の晴天はそんな二人を祝福し、世界の一隅で結ばれた幸せは果てしないコバルトブルーの空に広がって、遥か彼方にまで続いていた。