ひまわり6 始まりは一八五三年三月三十日
「壽美登くん、墓地で思ったけれども、教会の象徴は十字架よね」
「そうですね。教会は俯瞰でも十字に設計されています。バシリカ型が分かり易いでしょう。勿論、磔刑からも想起させられるものです」
壽美登くんは、理知的で話が早い。
「この本で作ってみようと思うの。どうかしら」
「日頃から、香月さんの自由な発想をいいと思っています」
私のことを褒めてくれたのか分からない。
けれども、どうしてか頬が火照ってしまった。
「どうしましたか? お疲れで微熱が出たりしていませんか?」
「おでこで熱を確かめなくていいからね。大丈夫、大丈夫よ」
壽美登くんが顔を寄せて来たので、私は慌てておでこを隠した。
「それよりも、閃いたことを試してみたいわね。落ちて来た所が効果的な気がするわ」
「香月さん、分りました」
二人で顔を拭き合った所へ立つ。
私は、一冊のテオの書簡で綴られた本を差し出す。
もう一冊を壽美登くんが横に向けて交差させる。
私達は、二冊の本を合わせて十字にした。
――その瞬間だった。
「きゃあ!」
ひまわり色のミルククラウンが真ん中に落ちた。
下から黄色い液体の円筒がせり上がる。
周囲の壁にカウンターが現れ、数字が過去へと遡って行った。
そして、奇跡的なときに駆け足を止める。
「やっと数字が動かなくなったわね。これで、判別できるわ」
またもや異空間の出口ではないだろうか。
「香月さん、一八五三年です」
「そうそう。日付は、三月三十日とも読めるわね」
――一八五三年三月三十日。
今度こそ、このひまわりの壺からも想起させられるあの日だ。
二人は声を揃える。
「ファン・ゴッホの生誕した日だわ!」
「ファン・ゴッホの生誕した日です!」
黄色のトンネルに穴が空いたかと思うと、小槌で叩く音がし、私達を異物のように放り出した。
今度は、私は足から落ちたので、したたかに腰を打った。
「大丈夫ですか?」
「うん。今度は顔は黄色くないよね?」
壽美登くんが微笑を浮かべる。
「ええ、あの時は頭から出てしまいましたから」
辺りをよく見ると、ここは屋内だった。
「香月さん、この地は、オランダにあるフロート・ズンデルト村です。空間に文字が浮かんでいます」
「書簡を読まなくても、私達のシナプスがピリピリ鳴っているわ」
壽美登くんが、くすりと笑った。
私は、お陰で緊張がほぐれる。
「時空の旅の途中でニューロン等の話をするのは、香月さんだけですよ」
「だって、集団催眠かも知れないのでしょう?」
壽美登くんは黙っておでこの旋毛を掻いた。
さて、ファン・ゴッホの旅は始まったばかり。
ここで見物していてもいいのだろうか。
「もにゅもにゅ。もしかして、気が付かれていないわね……」
三人家族は、私達のことには気が付かずにいる。
透明の色にトンネルが変えたのだろうか。
「このお二人がご両親なのかしら」
横たわる女性と傍にいる男性の間に、一八五一年結婚と赤い糸が浮かんで文字を作る。
教会の牧師を生業とするテオドルス・ファン・ゴッホ、愛称ドルスが、妻アンナ・コルネリア・カルベントゥスの手を握っていた。
父の頭上には、一八二二年生、一八八五年没とあり、母になったアンナの上には、一八一九年生、一九〇七年没とある。
こんな簡単に人の生涯を知ってしまっていいものだろうか。
自分が亡くなる年齢を知らせてはならないと、私は唇を自身の指でつまみ、戒めた。
「ありがとう……。アンナ、僕達の子はこんなに元気だよ」
「かわいい男の子だわ」
んぎゃ!
ほんぎゃあ、んぎゃあ!
「元気であればよしだ」
父、テオドルスは、生を叫ぶ紅葉の手を握った。
そして、母親になったばかりのアンナに熱弁する。
「二人で辛い過去から立ち直ろう。丁度一年前のこの日を忘れられる訳がない。あの子の亡くなった日だった」
父は、まだ首の据わらない赤ちゃんの背と頭を支えるようにして抱き上げた。
「この子の名は、フィンセントだ! フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホにするぞ! いいだろう、アンナ?」
「でも、フィンセントは――。同じ名のフィンセントは、一年前に亡くなりましたわ」
「だからこそ、こんなに健康な子に恵まれた。今度こそ育って欲しいだろう」
ほぎゃあ!
ぼぎゃ、ほぎゃあー!
これがファン・ゴッホなのか。
ファン・ゴッホは旺盛に生を叫んでいた。
――私達は、フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホの生誕する瞬間に立ち会った。
那花工房の壽美登くんは、名画に出会ったのと同じ位に震えていた。
彼の芸術好きって、かなり本気なのだと思った。
命名に立ち会ったのだし、壽美登くんが喜ぶと思い、私はファン・ゴッホの話を振る。
「かの有名な画家のファン・ゴッホを通称ゴッホと表す場合も多いけれども、ファン・ゴッホが苗字なのよね」
「そうです。この家の中では、フィンセントと呼ばなければ、家族全員を指していることになります。父方の祖父もフィンセントといいますから、ややこしいですね。日本の梨園のようです」
父とその同じ名を与えられた弟にも着目してみた。
「テオについてもそうだわ。テオドルスと呼ぶのが産まれたときの名で、フランス風にするとテオドールとなるのよね」
「ヨーロッパの言語は、日本語にすれば方言程の差があると聞きます」
首肯し、いい例えを思い出した。
よく山形訛りがフランス語に似ているとかある。
「そうだわ。では、本来、ファン・ゴッホはファンも含めて苗字だから、混乱しないように、ファン・ゴッホで旅をして行かない? 弟さんのテオドルスについても、テオがいいと思うわ。ご両親については、父と母でいいと思うの」
「いいと思います。同名の方が多くて、話がややこしいですから」
思い出したかのように、壽美登くんが続けた。
「本来、ゴッホはオランダ語でホッホと聞こえます。意味としては、『ファン・ホッホ』は、ホッホ家の誰々、ホッホ出身の誰々と言う意味のようです」
「あら、詳しいわね」
一つ利口になったと思った所で、壽美登くんがテオの本を閉じたのが分かった。
その手があったか。
でも、今は現場にいるのだから、この目にしっかと刻みたい。
「ほら、ファン・ゴッホがお乳を飲んでいるわ。こんな珍しい場面、芸術大好き壽美登くんには垂涎ものでしょう」
「そんな変な質ではありませんよ。ミルクタイムに立ち会って気が付きましたが、僕達は、黄色いトンネルで時間を旅しておりましてもお腹が空かないようです」
本当だ。
涎も出ない。
「これなら、安心して旅ができるわね!」
壽美登くんは仔犬が不安になったような顔をしている。
実はお腹が空いているのだろうか?
いや、気遣いの彼だ。
もっと思慮深い何かの筈だ。
「ファン・ゴッホは、この後沢山の弟妹達に恵まれる筈なのですが、それは幸いなのでしょうか」
「ファン・ゴッホは、家族愛に溢れる――。いえ、家族愛を求めて止まない人生だったと思うわ。けれども、家族が多いからって得られない渋い汁があったとしか思えないの。墓前でよく分かったけれども、テオだけでしょう? テオだけじゃないの……」
テオ以外の家族はどうなのかと、私は悔しくて拳を作った。
「そうですね。今は、ご覧になってください。お父様とお母様が満面の笑みで我が子の誕生を喜んでおられる」
勿論、我が子の誕生を祝って。
これからの幸せを願って。
「ただ、ただ、このときはファン・ゴッホも幸せだったのだと身に沁みるわ」
「そうですね。ファン・ゴッホの欲した家族の愛を生後直ぐに授かっています」
それがほんの一時だったとは思えなかった。
アンナも初めての子にあくせくと過ごす日々が続く。
――生後数日して。
「まあ! このフィンセントは、気性が激しいったらありゃしないね!」
ぎゃっぎゃあ!
ほぎゃっぎゃっぎゃ!
「あああ! おしっこを飛ばすのは止めなさい! もう、丸だしのままにしたい位だわ」
母がピリピリしているのが、よく分かった。
ママになると言うのは大変だとは織江ママから聞いていた。
苛々するのか。
「さあ、おねんねしなさい。また直ぐに癇癪を起すからね」
おしものお世話にお乳もと忙しく働かなければならなかったとは。
織江ママに感謝だ。
愛の形、もしかして、それが名画『ひまわり』などに通じる何かなのだろうか。
この疑問を軸に、私達の旅を展開して行きたいと心に決めた――。