ひまわり4 いつからか壺に貫入が
「はい、皆様のお陰で登り窯も完成し、父は感涙しておりました。電気窯もありますから、そちらで焼成することもできます」
壽美登くんが瞳をきらめかせたものだから、もう決めた。
「工房の方へ顔を出してもいい?」
彼が首肯すると、昔を思い出してどきどきして来た。
今はどうなったのだろう。
「あちらには登り窯があります。熱いですから、こちらから行きましょう」
そこは、ろくろと机が目立ち、奥に釉薬が置いてあった。
那花工房で知り合ったお友達はもういない。
けれども、変わらずに快い挨拶をしてくれる方がいた。
「おお、菊江ちゃんか! どうした、少しは大きくなったか?」
「那花くんのお父さん、小学生の頃よりは背丈もありますよ」
那花美樹、今の益子焼で食べて行ける陶芸作家の一人だ。
そのお父さんは手を洗ってから、こちらへ来て私の頬をぺちぺちと叩く。
本物の菊江だから、大丈夫だが。
「細っこいな。きちんと食べているかい? 食欲の増す器をプレゼントしようか」
「いやいや、そこまでして貰うとお礼のしようがないわよ。お父さんの南百貨店での個展を拝見して、芸術家という閾値を感じたわ」
那花工房は、伝統的な濱田庄司先生の流し掛がけ技法を追求した作風から、モダンなものまで展開している。
幾つかを近くの喫茶店、紋派などに依頼されて納品しているとも聞いた。
「菊江ちゃんも壽美登も明日から期末テストだろう。余裕だね」
「そ、そんなことありませんよ」
まさか、新幹線で東京へ行っていたなんて、壽美登くんの手前もあるし口にできない。
「テストは三日間ですから、終わったら工房へお邪魔しに来ます」
「いつでもおいで。菊江ちゃん」
その後、作り直した登り窯を見学させて貰った。
また、煉瓦からの作り直しだったようで、いたく感心する。
「そろそろ、五時になるわね」
十五分のバスを待つ。
一人でよかったのに、壽美登くんはお見送りをしたかったようだ。
私は花戸祭へ夏の風と共に帰って行った。
◇◇◇
わん!
「志一くん! ただいまだわ」
抱っこすると顔をぺろぺろ舐めるものだから、もう可愛くて仕方がない。
「よいしょ、お留守番のおやつをあげるね。ジャッキーくんだよ」
他に誰もいないと知ると、居間の卓袱台で試験勉強に頭を切り替えた。
「明日は、外国語と数学に技術家庭科か……」
殆どの試験対策はできているが、見落としがないか完璧かを確かめる。
ルーズリーフに一教科一枚に纏めると、効率がいい。
その内に織江ママが帰って来たので、一緒に晩ご飯の肉じゃがを作っていた。
八時には、太翼が塾から帰宅した。
三人でほかほかご飯を食べる。
本来なら四人で囲む卓袱台が、ぽつりと嘆いていた。
菊次パパが大股の千鳥足になる姿を一人思い出していた。
◇◇◇
――試験結果もいいだろうと踏んだ三日後、七月十三日。
既に壽美登くんのご自宅へ上がらせて貰っていた。
この間と同様に粛然としたひまわりの壺が飾られている。
「何か分かったことがあるかしら」
「変わりありません」
私は、調査するのが卒論のデータになると信じて動く。
壺の廊下側に当たる、左下が少し光っている。
近付いてよく観察した。
「これは、疑念を抱いていいわね」
「どうされましたか」
壽美登くんも覗き込みに来た。
「こんな所に貫入なんてあったかしら」
「いえ、見掛けませんでした」
貫入、釉薬へのひび割れを二人で注視する。
「濃い熱風を感じるわ」
「この壺は、少なくとも最近焼いたものではないようです。熱があるとすれば、作者の情熱でしょうか」
壽美登くんが、貫入のある所へ腕を伸ばす。
チリ――。
静電気のような音が聞こえた。
「うあ!」
彼は、反射的に痺れたように手を引く。
「壽美登くん、大丈夫? 火傷はしていないようだわ。私も試してみようかしらね」
貫入に手を翳す。
チリチリ――。
「あ、痛い!」
「これは、何でしょうか」
「そうね。不可思議な現象だわ」
穿つ程にひまわりの壺を観察した。
二人で唾を飲み込むと、喉の奥へ落ちるまで、静寂な空間によく響く。
目と目を合せた。
「せーの!」
壽美登くんと一緒に貫入に手を翳した。
チリチリチリチリ――!
「ああ!」
「うわあ!」
たかが壺の貫入に、そんな力があるのだろか。
基本的な疑問に誰も答えてくれないまま、黄色い何かに引き摺られて行った。
まるで大きな手のようだった。
筆致を残して塗りたくられた黄色が氾濫する世界へ、ずるりと足から入る。
周りで、ひまわりの花がケラケラと嘲笑しているようだ。
花が笑う?
そんなことあり得ない。
園芸委員だった小学生の頃を少し思い出した。
ホースの口に指を当てると、放射状に水を撒ける。
上手く行くと虹を作れるから楽しかった。
ひまわりが枯れなかったのは、香月さんのがんばりのお陰だと、水川先生に褒められたのも嬉しかった。
待って。
物思いに耽っている場合ではなかった。
現実を確かめよう。
「壽美登くんは?」
黄色の泥沼が続く。
直ぐに返事がなかった。
別れてしまったのだろうか?
とても心細くなり、おののいた。
「壽美登くん? 壽美登くんいるかしら」
「……香月さん。僕はいます」
よかった。
近くにいるらしい。
「何の呪いなの?」
「もう、怖い話は信じないのでしょう?」
怪談は怖くないけれども、怪奇現象はそれとは別だ。
「現実を捉えたいのよ。命を落としてしまった訳ではないわよね」
「異次元でしょうか? 僕は亡くなった気はしません」
よく考えてみれば、手足も動くし体は元のままだ。
「では、転移しているの?」
「この世界から出た時に、分かると思います。転生か転移なのか」
成程、これは異世界への通路なのか。
本物の私なのか、それとも異なる何かなのか。
その岐路で、道が異なって行く。
「入れたのだから、出られるわ! 壽美登くん、離れないでがんばろうね!」
多分、彼がそこにいると思って手を伸ばす。
指先があたたかいものにふと触れる。
すると、ぐっと逞しい掌で包まれた。
「僕です。分りますか」
「う、うん」
その力強さに躊躇った。
あの手だ。
車酔いを心配してくれたとき、おでこに触れた彼のものだ。
泥団子を一緒に作っていた頃とは異なり、大きくなった作陶に燃える那花壽美登くんの。
「この手を離さないでください」
「私も離れたくない。一人は嫌だわ! だって、だって……」
大切な友人を失いたくない。
その気持ちが昂っていた。
そのとき、点滅する何かが瞳に飛び込んで来た。
「あれは、数字?」
「四桁の数字と二桁のそれが二つ回っています。西暦の年月日を表しているのではないでしょうか」
心の臓がばくばくして来た。
「ええ! 時間を遡っているの?」
「ファン・ゴッホの壺の力ですから、その引力があるのでしょう」
黄色は、『ひまわり』の象徴。
このトンネルも黄色だ。
無縁とは思えない。
「ファン・ゴッホに会うわよ」
「ファン・ゴッホに会います」
叫んだときだった。
数字が更に過去へ向かってカウントを始める。
目まぐるしいデジタル時計の波が寄せ、一九一四年は確認できた。
小槌の叩く音がする。
私達は、手を繋いだまま黄色い世界から抜け出て行く。
頭から先に外に放り出された。
怖かったので手を伸ばしたから、掌を擦り剝いてしまった。
隣人を振り返ると、顔が黄色の絵の具で塗りたくられた壽美登くんがいる。
「香月さんの顔を拭いてもいいですか?」
私が先に彼のシャツで拭われてしまった。
「よかった。上手く取れました」
「ありがとう。私も壽美登くんの顔を拭いてもいい?」
壽美登くんは、自分の顔は絵の具まみれではないと思ったのだろう。
少しだけ意外そうにおでこの旋毛を掻いていた。
そうして、私達が落ち着くと、知らない土地に居るのが分かる。
本当にファン・ゴッホと会えるのだろうか。
私達は、過去に来てしまったのだろうか――。