4.ごめん
「英、雄……?」
呟いたのは、その意味が理解できなかったから。しかし老人はレンの存在を認識していながら、具体的な説明をするつもりはないように無視した。
「ハマサジ。君はまだ、自分の置かれている状況への理解が足りないらしい」
「お爺ちゃん、違うの。私……」
「いいや、理解できていない。わからないのも無理はないけど、君だけは、理解を放棄してはいけないんだ」
老人は肩にかかる長さの白髪をかきあげると、ハマサジと視線を合わせるように腰を折った。彼女は恐怖で目を合わせられないが、その視線の圧力は更なる恐れを与えていた。
「君のお父さんは英雄と呼ばれていた。それを納得させるだけの力が彼にはあった。彼は幾度も、人類を存亡の危機から救ってきた」
「――――」
「しかし彼は君の母を愛し、君が生まれたことで弱くなった。愛が、英雄を殺した」
「――――」
「だから彼は十年前、世界を救えなかった」
ハマサジから両親の話は聞いたことがなかった。決まって出てくるのは、お爺ちゃんの存在。
疑問に思わなかったわけではない。複雑な家庭なのだと、心の中で納得してスルーしていた。
ではハマサジの母親は? 父親は?
十年前、彼らに何があったのか。
「君は十年前に、僕の前で、誓ったはずだ。母親の遺体を抱いて、彼女の紅い血に塗れながら、無力な君は誓った。言ってごらん? あの時の、誓いを」
「私、は――」
「そう。君は?」
「――英雄に」
これを、レンの目の前で言わせることに意味があるのだ。
ハマサジの使命の邪魔をするもの。その目の前で、私はちゃんとやりますと言わせる。そのこと自体に、ハマサジの心を縛る効果がある。
この老人は、悪魔なのだ。
どうしてハマサジばかりが、こんな酷い目に遭わなければならない。この子が頑張っていることは、誰の目にも明白なのに。
「待ってくれよ」
だからレンは老人への恐怖を振り切って、なけなしの勇気を振り絞って、震える声で割り込んだ。
普通の少年には、目の前の二人の事情はわからない。今までの人生に人が殺されてしまうような事態なんてなければ、ついこの前まで妖怪の存在すら御伽話のものだと思っていた。
周りを見れば十人中十人の人生が、大枠で言えばレンと同じだ。多少の違いはあれど、ハマサジと比べれば圧倒的に普通。漫画やアニメのような出来事なんてない人生を送っている。
そんな中で、ハマサジだけが普通の人生を生きられない。
ささやかな願いではないか。
レンの、こんな何の面白味のないクソみたいな人生を、心から羨む女の子がいるのだ。
そんなささやかな願いすら叶えられないなんてことがあって良いものか。
「何が、英雄だ。そんな、情けない面した英雄様がどこにいるんだよ」
「レンくん……」
「どうして、その子なんだ。そんなにもハマサジを苦しめないといけないといけない理由があるのかよ!?」
「あるとも」
老人は断言した。
レンのことを睨む。その眼光は、命を奪ったことのある目つきだ。悍ましい何かと戦い、幾度となく命のやり取りをしてきたものの目。
普通に生きていたら交わるはずのない視線だが、レンは臆さない。
老人は嘆息すると、ハマサジから離れレンの眼前まできた。そしてレンのことを見下ろす。
「ふむ、紙の精霊とパスが繋がっている」
「あ?」
「随分と、仲が良いんだね」
老人は、フッと小さく笑う。
誰と、とは言っていない。しかしレンにはそれが、ハマサジとの繋がりを小馬鹿にされたように感じた。
「――憑依!」
右腕を水平に振るい、恐怖を振り払うようにしてその言葉を叫ぶ。衝動的な行動で、どうしようもなく無意味だ。こんなことをしても、仕方がないのに。
そんなのはわかっていて、この行動がハマサジを余計に悲しませてしまうことも理解していて。
だけど、それでも、意地があった。
「紙の巫術、『紙風』!」
隣に見える家のポスト。その郵便受けに挟まっていたチラシの断片を媒介し、自身に紙の精霊を憑依する。得体の知れない何かが自分の心に割り込んでくるような感覚が気持ち悪く、吐きそうになりながらも、未知のエネルギーで構成されたオレンジ色の紙飛行機を老人に向けて飛ばした。
勢いよく飛んだ紙飛行機の軌道は、老人の顔スレスレを掠めるようにして逸れる。
これは、目眩しのつもりだった。
視線を誘導し、レンは紙飛行機が飛んだ方向と反対側に回り込んで、腰だめに拳を構えた。
老人はまだ神秘的なエネルギーでできた不恰好な紙飛行機が飛んでいくのを見つめている。今なら、拳を振り抜けば当たる。
だけど、人を、全力で殴っても良いのか?
ましてや、こんな、老人を。
その、普通の人間が持つ真っ当な良心が、戦場に致命的な遅れを生む。
「――殴らないのかい?」
老人はこちらを振り向くことなく訊ねた。常識を疑うように。
老人にとって、レンの良心は非常識なのだ。
もう、どうにでもなれ。
「く、そ――!」
あまりにも遅すぎるが、レンは右拳を振り抜いた。当然そこに老人の影はない。
地にへばりつくように屈んだ老人は、五本の指でアスファルトを撫でるように触れた。
「憑依」
次に目を開けた時、レンは無傷で道路の上に寝かされていた。
何が起こったのかもわからない。瞬きの間に神速で殺されるほどの打撃を受けた後、その痛みと衝撃が脳に届くよりも先に傷を治された。
よってレンは無痛のまま殺され、生かされた。
これが巫術師。これが、戦い。
ハマサジの隣に立つなど、なんと幼稚で馬鹿げた妄想か。どうりで彼女がレンを深く関わらせまいとしていたわけだった。
巫術師たちの戦場とはこんなにも、普通の人間では話にならない世界なのか。
「レンくん!」
ハマサジが急いで駆け寄ってくる。
レンのことを抱きしめて、もう傷は治っているのに何かの術式を唱えていた。身体の疲れがじんわりと癒えていく。だがその術式は、レンの心までは癒せない。
この痛みは、治らない。
「今年、人類は滅ぶんだよ」
こちらに背を向けたままの老人は、そう言った。突拍子のない話だった。
話のスケールが大きすぎてついていけない。
「十年前にその子の父親が、――英雄と呼ばれた男が倒せなかった妖怪が来る。倒せるのは、その子だけだ」
「何の、根拠があるんだよ。アンタじゃ、ダメなのか……?」
「――――」
「そんなに、強いじゃないか……! やりたくないやつにやらせるより、アンタがその使命感に従って倒せば良いじゃないか……!」
老人は、レンには意味がわからないほど強い。こんなに動ける七十超えのジジイがいてたまるかと思った。
「――僕には」
それでも老人はレンの質問に一度固まった後、自嘲するように零す。
「――僕には、倒せない。倒せるのは、この世でハマサジだけだ」
「――――」
「この世でただ一人、天地神明を憑依できるハマサジだけなんだよ」
意味は伝わらずとも、その言葉には確信があった。
ハマサジならば人類を滅ぼさんとする脅威に必ず勝てるのだと。
それが、彼女から普通の生活を奪ってでも鍛錬を強制する理由なのだ。
おそらく、彼女の持つあらゆる才能こそが根拠。巫術においても、彼女の持つポテンシャルは頭ひとつ抜けているのだ。
そしてその才能を伸ばし、かつてハマサジの父親が倒せなかった妖怪にぶつけるというのがこの老人の目的。
「君には世界の運命を握らされた人間の気持ちなど、一生わからないだろう」
「そん、なの……」
わかるわけがなかった。
だから、ここで軽々しく言い返すことなどできない。
レンにとってその世界は遠すぎた。
「わからなくて良いんだ」
「――――」
「それが、平和ということなんだから」
老人は痛烈な皮肉を残して去っていった。
普通の人間は大人しく普通の世界に帰れと、巫術師たちが守った世界をのうのうと生きていろと、そう言われた。
普通の人間にはハマサジを救ってやれないのだと、そう言われた。
ハマサジにかける言葉が見つからなかった。
彼女は傷ひとつ負っていないレンを家まで送ると言って聞かず、二人並んで帰っている。
だがお互いに口を噤み、会話のない時間がずっと続いていた。
河川敷。靡くそよ風がハマサジの髪を揺らすのを見ながら、人生で初めて見た巫術は風だったなと無関係のことを考えた。
逸らそうとした。意識を。
それは知ってしまったから。
自分が当然のように享受する平和な世界が、誰かの犠牲の上で成り立っているのだと理解してしまったから。
次に犠牲になるのは、ハマサジなのだ。
彼女は平和な世界を脅かす強大な妖怪と戦わなくてはならない。彼女自身の、人生でたった一度しかない青春を犠牲にして。
たかがそれくらい、と大多数の人は言うのだろう。
現にハマサジは高校に通えている。友達だっている。成績も悪くなく、運動もできて、人から頼られることの方が多い。
彼女は決して孤独というわけではない。
彼女のことをよく知らない人からすれば、よっぽど青春しているように映るだろう。
だけどそれは、世界の命運を背負った上で、なのだ。
お前が勝てなかったら世界が滅ぶのだと十年言われ続けて育った少女が、普通の青春を普通の感覚で受け取ることができるのか。そんなわけがない。肩には常に、相当なプレッシャーがかかっているはずだ。
儚い印象を持つわけだった。
ハマサジと関わる前、レンは彼女に儚げな印象を抱いていた。
それは彼女が世界の命運を背負っていたからだ。自分が失敗すればすべての人間が死ぬ。その重圧を背負う中で他人と関わろうとすれば、ぎこちない笑みになったって仕方ないだろう。
「悔しいな」
レンは素直に、そう思った。
それはハマサジの祖父に戦いを挑んで負けたことが、ではない。
「悔しい?」
「うん」
ハマサジを救ってやれない無力感が、でもない。
そんなのはわかっていた。レンに何ができるわけでもない、ただ少しでも心の支えになれればと思っていただけだ。
レンが、本当に悔しいと思っているのは。
『君には世界の運命を握らされた人間の気持ちなど、一生わからないだろう』
その、老人の言葉だった。
ハマサジの辛さをわかってあげられないこと。それが一番、悔しかった。
「俺、君と友達になれば支えになれると思ってた」
簡単に考えていた。
「ハマサジに友達ができれば、色んなところに遊びに行ったりすれば、巫術の世界の話を聞いてあげられれば、それが君にとっての救いになるって、支えになるって思ってた」
でも、違う。
それじゃあ、足りない。
それは多分、同時にハマサジの重圧を増すことにもなった。
なぜなら彼女は以前よりももっと、自分が世界の脅威に勝てなかった場合のことを意識しなくてはいけなくなったから。
レンと仲良くなる以前のハマサジが学校で色々な人に頼られても彼らと一歩距離を置いていたのは、きっとそれが理由だったのだ。
大切な人ができてしまえば、それは重圧になる。英雄と呼ばれたハマサジの父が、大切な家族のために弱くなったと老人が語ったように。
レンは、ハマサジを弱くしてしまった。
それが悔しくて、悔しくて、たまらなかったのだ。
「俺に聞いたよな。巫術師をやめて欲しいと思ってるのかって」
「それは……」
「怒るわけだよ。君は俺や他のみんなを守るために戦ってるのに、何言ってんだコイツはって思ったよな」
――それはハマサジ自身の願いを踏み躙ってでも、そうしなきゃいけないものなのか?
自分で、なんて残酷なことを言ってしまったのだろうと思った。
彼女はレンのために、自分の望みに蓋をして、それを踏み躙ってくれているのに。
『レンくんには、わかんないよ……』
ああ、そうだ。レンにはわかっていなかった。余計なお世話でしかなかった。
自分のことをクソだと思った。最低なことを言った。
自己嫌悪で自分が嫌になった。ハマサジの隣を歩いている資格なんてないと、心から思った。
足元の石を蹴飛ばす。それは川の方へ飛んでいったが、川辺の砂利に紛れて消えた。いっそのことレンも同じように、消えたかった。
ハマサジの隣にいない方が良かったのではないかと思った。
「――でもね」
ハマサジが、そこで割り込んできた。
レンの右腕の袖口を軽く摘んで立ち止まる。
その表情は妖怪と戦う時よりもずっと、ずっと勇気を振り絞っているように見えた。
「私は、嬉しかったよ」
そうして、命を懸けるよりも勇気を出して言ってくれた言葉は、確かにレンの救いになった。
「レンくんがしてくれたこと、言ってくれたこと、全部嬉しかった。知らなかったから。私もこういう風に、普通の女の子みたいに、他人と関わって良いんだって、知らなかったから」
「ハマサジ……」
「友達と一緒に遊ぶのってこんなに楽しいんだって、思った。カラオケでナノちゃんとデュエットしたり、お化け屋敷でヤナギくんが女の子みたいな悲鳴をあげたり、みんなでネジキくんを笑わせようって色々試行錯誤してみたりとか……全部、全部初めてだった」
その声は感情が乗って上擦っていた。
つられてレンまでじんわりとしたものが込み上げてくる。
「全部、レンくんが私にくれたものなんだよ」
それがハマサジを弱くした。
守るものができて、プレッシャーが増して、友達との誘いを断らなきゃいけなくなって。
ハマサジを余計に辛くした。
「俺の、せいで……」
「違う!」
ハマサジがレンの手首を掴む。
「レンくんの、おかげなんだよ!」
「――――」
レンの、おかげ。
気休めで言っているわけではないことくらい、真剣な表情を見ればわかった。
何かを言おうとして言葉に詰まる。頭が真っ白になっていた。そんなレンの姿を少し笑って、ハマサジは訊ねた。
「辛い時は、辛いって言って良いんだよね?」
「あ、ああ……」
「私、ずっと辛かったの」
そうして、彼女は語る。
「十年前、骸骨の妖怪がウチに来て、お母さんが目の前で殺された。その日、最強の妖怪っていうのと戦うために派遣されてたお父さんも――帰ってこなかった」
あまりにも衝撃的だった。
言われたとて理解が追いつかない。レンが浅はかだった。彼女にそんな辛すぎる過去があるならば、もう少し言葉を選ぶべきだった。
「その時私を引き取ってくれたのが、クチバお爺ちゃん。さっきの人なの」
強い子だと思った。
凄惨にすぎる過去を背負って、重すぎる運命を背負わされて、それでも強かに前を向く。
だけどそんな彼女だから、レンは、心から幸せになってほしいと思うのだ。
「最強の妖怪――『空亡』っていうのに対抗するために、私はずっと鍛錬をさせられてきた。お爺ちゃんの言うように私生活について口出しはされなかったけど、本当にそれどころじゃなかったの」
「そう、だよな」
「ずっと、ずっとみんなが羨ましかった。学校で友達と遊んで、放課後もみんなで出かけたりして、家族仲も良くて――私にないものを全部持ってるって思って……」
自分がその立場に置かれたなら、全部放り投げて人類など滅んでしまえと思う人が、この世に何人いるだろう。レンだって、そんな風に自暴自棄にならないとも限らない。
「だけどレンくんが、それを私にくれた」
「――――」
「私が、ずっと欲しかったもの。大切な人たちと、出会わせてくれた」
「――――」
普通ならば押しつぶされてしまうような境遇。投げ出したくなるような運命。
しかしその運命を背負ったのがハマサジだったから。
誰よりも優しい、彼女だったから。
「――そんな、みんなの幸せを、守りたいなって思ったの」
レンは、絶句した。
彼女の澄み渡るように綺麗な心に、ただただ言葉を失った。
側を流れる川のように、沈みゆく夕焼けのように、流れる風が揺らす草木のように。
それらに勝るとも劣らない綺麗な心に、レンは胸を打たれた。
この子は、幸せにならなくてはならない。
そうでなければ、この世界は間違っている。
そうしてレンも自分の中で、何かの覚悟が決まった気がした。
「さっきは、ひどいことを言ってごめん」
「えっ? え!? ぜ、全然気にしてない! むしろ、私のためを思って言ってくれたことだし、よく考えれば嬉しかったって言うか……!」
「それでも、俺は最低なことを言った。ごめん」
真剣なレンに気圧されて、あたふたしていたハマサジもゆっくりと微笑む。そうしてレンの、下げていた頭を撫でた。
「しょうがないので、許します」
そうして、二人は河川敷で笑い合った。
一方は辛く、厳しい運命に立ち向かっていくために。
そしてまた一方はそんな彼女を、支えていくために。